室井の山小屋 8
第8章 4日目・下の沢の人々
一堂に会した住人たちは一様に興奮し、高揚している。
年に一度や二度は必ずこういうことがあるらしい。長閑な集落の生活の中では突発的な大きなイベントなのだ。この長引く雨のお陰で集落の人々の非日常のど真ん中に参加することとなってしまった。私にしてみれば、非日常の中の非日常だ…
送電は止まり電話も通じないが、彼らにとってみれば、それは大した問題ではないようだ。元々孤立した集落なので、外の世界と切り離されたところで、どうということはないのだろう。
川魚の佃煮、煮物と漬物…女性陣が作ってくれた昼食は簡素だが愛情の篭った格別な風味だった…この食事に出会うだけでも雨の中を苦労して下りてきた甲斐があったというものだ。
食事の途中川漁師の八郎さんの「この雨あ嫌な感じだ…山の雲が動いてねえ…まだ降り続くべ…山の上はきっと大雨だ…」との言葉を聞いて、食後念のため各家を回って大事なものや食料をここに運び込んでおこうということになった。
「悪いねえ、お客さんに手伝わせちまってよお!」空のリヤカーを引きながら恭司が大声で話し掛ける…雨が激しくなっていたので、直ぐ傍にいても大声を出さなければ届かないのだ。
「いえっ、少しでもお手伝い出来て良かったですっ!」
恭司、洋次、そして佳代との4人で各家を回る…位牌や手箱や引き出し、野菜の種に備蓄された食材、燃料…雨の中、それぞれの家と涌井家を何度も往き来した。沢の水は恭司たちが思った以上に水かさを増しているようだ。
念のため、川に最も近い八郎の家の畳を屋根裏に上げる。全てを終え、交代で風呂を使わせて貰い、4人が再び涌井家の客間でくつろいだのは、もう夕刻前だった。
室井の山小屋と違い、ここは古い農家だ。機密性が薄いので外の様子が良く分かる。夕餉が用意された頃には雨はますます激しさを増している様だった…
一堂に会した住人たちはみな陽気に振舞っているものの、表情に一抹の不安を抱え、会話の途中でも時折外の様子に聞き耳を立てている。状況が次第に深刻になっていることは明らかだ。先程から恭司は短波ラジオを抱えてチューナーとアンテナをあちらこちらに動かしては放送波を探っている…
「やっぱ全然駄目だな…やめた、電池がもったいねえ…」恭司がそう言ってラジオのスイッチを切った。
「相当まずい感じなんですかねえ?」私が尋ねると隣で杯を傾け始めた洋次が答える…
「こん位の雨あ、別に珍しかあねけんど、問題は山だあ。きっと山あ昨日から大雨が続いてんべえ…」
「そうなんですか?…」
「沢あ見りゃあ分かるわ。なあ、じいさん」
「んだで…かさあ増え過ぎだ…」その向こう側に座っていた川漁師の八郎が深刻そうな面持ちで俯いたまま呟いた。その表情を覗くと不安が一気に込み上げてきた…
「大丈夫なんですか?…」
「ほらあ、じいちゃん!お客さん、怖がってんじゃないのお!あはは…結城さん、大丈夫ですよ。このじいさんはねえ、大体いっつもこんな感じなんだから。あんたも脅かすようなこと言うんじゃないよっ。全くもう…はは…」料理を運びながら洋次の妻の咲恵が大らかに笑った。
「まあ、どっちにしたって、今夜のうちは大丈夫ですよ。俺と洋次さんとで、交代で見回りますから…それより、折角訪ねて下さったんだ。こんな田舎で大したものはねえけんど、ま、やって下さい。ほら、洋次さんも自分ばっかり飲んでないでお注ぎしなきゃあ」奥に座った主の恭司が笑顔を浮かべる。
山女魚、かじか、沢蟹、あしたば、木ノ子、枝豆、里芋、空豆、いんげん、きゅうり、ナス…食卓に並べられた料理は、明らかに自然のものばかりで何れも深い味わいだ。周囲と杯を重ねながら、私は夢中で舌鼓を打った。沢の食材について、洋次から話を聞いていて、ふと室井のことを思いだした。
「そうだ、洋次さんも八郎さんも漁をされるんだったら、1年位前まで沢によく釣りに来てた室井さんって御存知ないですか?」
「室井?…この辺りにもルアーの人が時々釣りに上がって来るけど…室井さんて人は知らねえなあ…その室井さんって、お知り合い?」
「ええ。実は…」私は何故自分がこの月夜見にやって来たのか、その経緯について説明した。
「なる程ねえ…神竜様の辺だったら、あすこから沢に下りると、少し下流の方だからなあ…大体そんなとこに小屋が建ってるなんて、コウ先生から聞くまであ、だあれも知らなかったんですよ。いつの間にって…不思議だよなあ…じいちゃん、室井さんて知ってる?」
「知らねえ…」相変わらず無愛想な表情で八郎が呟く…
どうやら室井が付き合ったこの集落の住人はタロだけだったようだ。夕餉は酒宴となり、賑やかに時は過ぎていった。
「ねえ…結城おじさん、ご飯終わったらさ、一緒にトランプしよう?ねえ…」いつの間にか私の横に座った仁にせがまれた。
「ん?ああ、いいよ…」
「本当?やったあ!あたしも一緒にやるっ!」卓の向こう側で千恵が叫んだ。
「仁くん、宿題はやったんでしょうねえ…」千恵の隣から厳しい表情でそう言ったのは佳代だ。
「昼飯のあと、ちゃんとやったよ。なあ、千恵?」
「うん、やったよ。おかあちゃんから言われたんだもんね」
「でもよ、どうせ明日は学校休みだっぺ?」仁は嬉しそうに尋ねた。
「なんで?」
「え?だって…分校使えねえし…」
「何言ってんの?あたしもいるし、教科書もあるし、明日は朝からここでちゃんと授業するわよ」
「嘘!いいじゃんかよお、こんな時だし、折角結城おじさんも来てくれたんだし…大体、明日午後は体育だろ?どうすんだよ…」
「こらっ、仁。お前え、先生になんて口のきき方すんだ!勉強教えて下さるってえんだから、有り難いと思えっ!結城さんだって、手伝って頂いてお疲れなんだ。無理言うなっ」
「はい…」洋次に睨まれると仁は身を縮めた。
「はは…俺は構いませんよ。仁くんと千恵ちゃんと一緒にいると楽しいし…な?」
「すいませんねえ…ここはお客さんなんてめったにないし、嬉しいんですよ、この子たち」そう言ったのは厨房と席をかいがいしく往き来している千恵の母親の昌子だ。
暖かい人たちだ…料理は申し分なく旨かった。心地良い酔いの中で、私は佳代と2人の子供たちと客間の隅に車座に座り、しばし七並べに興じた。時折さえさんや千津さん、咲恵や昌子が交代で加わり、それぞれに歓談を楽しんだ。
2つの和室に敷布団が敷きつめられ、男部屋女部屋に別れ、それぞれに薄掛けと枕代わりの座布団を持って思い思いに床に就いた。千恵と仁はどうしても私と一緒に寝たいと言って、私と康三の間に潜り込んできた。
「結城おじちゃん、お話聞かせて」と千恵がせがんだので、昔読んだ『風の又三郎』の話を聞かせてあげた。やがて2人は満足そうに寝息をたて始めた。
数日前には一人暮らしのアパートで、あれ程孤独感にさいなまれていたのがまるで嘘の様だ。出会ったばかりの人々なのに、まるで何年も生活を共にしてきた隣人のように思える。
よく考えてみると、36年の自分の人生の中に、こういった体験が何故一度もなかったのか…それとも気付かずに見過ごしてしまっていたのか…何故人がわずらわしいと思い込んでいたのか。つくづく不思議に思う。
「結城さんよ、どうだい?天気の方は今一だけど、ここはいい処だろう?こんな風に暮らす人生もあるんだぜ…」隣の寝床から康三が囁いた。
「そうですね…」
誰にも否定出来ない、確かなものがここにはある。目的ばかりを追い求め、それを見出せない自分を責め続けていた自分に気が付いた…大したもんじゃないが、捨てたもんでもない…ようやく階段を一段昇ったような気がした。
変わらず外から聴こえる風雨の音と、仁と千恵の寝息に誘われるように、やがて私も眠りに落ちていった…
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?