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父の残像 13
父と2人きりで話したい…
『私』は帰宅した母となるべく多くの会話を重ねて治療中の父の日々のスケジュールを探ることに専念した。
「今日はお父さん、どうだった?」
「何だか辛そうよ。点滴のお薬がね、結構強いみたいで、胸焼けしたり頭が痛くなったりするんだって…でも、頑張ってるわよ、お父さん」
「先生は何だって?」
「暫く治療してから、また検査なんだって」
「ふーん…先生は、よく来るの?」
「毎日いらっしゃるわよ。ほら背の大きい先生がいたじゃない。白井先生っていうんだけど、毎朝検診に来るんだって。あたしが行く前ね。吉村先生も毎日いらっしゃるわよ。大体午前中ね。来ると暫くお話していくのよ。そうそう、教授回診っていうのがあってさ、凄いのよ。若い先生が飛び込んできて、吉村教授の回診ですって…それで吉村さんがさ、30人くらい引き連れて病室にぞろぞろ入ってくんのよ。入りきれない人が廊下に溢れちゃってさあ…ほら、白い巨塔ってドラマあったじゃない。あれとおんなじなのよ。本当にあるのねえ…吉村さんって、正直言って風采の上がんないおじいさんだなあって思ってたけど、本当に偉い先生なのよねえ…」
「へえ…その教授回診ってのも午前中にあるの?」
「今日初めてあったのよ。丁度あたしが病室に着いてすぐだったかな。毎週1回だって、水曜日。凄いのよ、ほんと…」
「看護婦さんは?ちょこちょこ来るんでしょ?」
「検温と血圧が朝と昼と夕方と夜って言ってたかな…あと、点滴取替える時とか、今カテーテルも入ってるから、ほら膀胱のとこね、お薬入れるのに管が付いてるのよ。そういうの診にきたり、身体拭きにきたりとか、結構来るわね。ああやって見てると看護婦さんっていうのも大変よね」
「会社の人とかは?」
「お昼前に必ず来るわね。工業製品本部の人。あたしは、ほら、お茶出したら病室から出るようにしてるから、どんなお話してるのか知らないけどさ、毎日来るわよ。午後にもう一度来ることもあるかな…でも、3時以降には来ないように決めてるんだって。お身体に障るからって…充分に障ってると思うけどねえ。でも、お父さんはそれで結構気が紛れるみたいよ。頼りにされてるんだから有り難いって言ってんのよ」
「病院にいても結構何だか忙しそうだね、お父さん」
「そうねえ…何だかんだドタバタしてるうちにすぐ時間が経っちゃうのよねえ。でも3時過ぎくらいからは急に暇になるのよ。看護婦さんの人数も減るし、先生たちも外来の方が忙しくなるんじゃない…お父さんも疲れるみたいだから、そのくらいにはあたしも帰るようにしてるのよ。居たって別に何も出来ないしね」
元来お喋り好きの母親は、機嫌さえ良ければ情報の宝庫だった。それに鬱々とした気分で帰って来ても、その日にあったことを私にいろいろ話すだけで気持ちが落ち着くようだった。
次の日曜日、父のところにまた3人で見舞にいく予定だったが、前日に中止となった。母の話では、急に会社の人や仕事関係の人が見舞に来ることになったので、子供は邪魔になるということだった。もっともらしい理由だが、多分抗癌治療の副作用で日々やつれていく自分の姿を子供達には見せたくないというのが、本当のところだろう。
朝、克夫は水泳部の練習に出掛け、母も病院に出掛けていった。
9時前には家政婦の野村さんが来た。野村さんは心得た様子で手提げバッグから白い割烹着を出して家事の準備をし始める…
「あら、今日は坊や1人なの?お兄ちゃんは?」
月曜日から通って貰っている野村さんは、見たところ50過ぎの少し太めで大らかな雰囲気の働き者だった。初日の朝に一度挨拶しただけで、きちんと話をするのは初めてだった。
「あ…水泳部の練習で学校に行きました」
「あ、そうそう、奥さんそんなこと言ってたかも知れないわねえ…やだ、おばさん最近すぐ忘れちゃうのよねえ。坊やは…ええとお…ごめんね、名前忘れちゃった」
「康治です。兄は克夫…」
「そうそう、康治君、康治君。普段は何て呼ばれてるの?」
「コウちゃん…かな…」
「コウちゃんかあ…おばさんもそう呼んでいい?」
「うん…あ、はい。いいです。おばさんは?おばさんの名前は?」
「あたし?あたしはね、のむら・しず。よろしく」
「何て、呼べばいいですか?」
「おばさんでいいよ。他のとこだと、しずさんとか、おしずさんとか…かな。なんでもいいのよ」
「じゃ、しずさん、でいいですか?」
「あら、名前で呼んでくれるの?嬉しいわあ」と、しずさんはにこやかに微笑んだ。その満面の笑顔を見て、忘れていた記憶の断片が蘇ってきた。
しずさんは、父が亡くなるまでの2年間、母が看病を続ける間、『私』や兄が学校に行っている日中、一人でずっとこの家を守ってくれた。
特に、父の病状が悪化し病院と自宅の往復を繰り返した最後の数ヶ月は、ほぼ家族同様に家に居てくれることになる。
母からの話では、朝の9時から午後3時までの約束で家事を頼んでいたらしいが、記憶を探ると早朝兄の弁当を作って持ってきてくれたり、私の運動会を観にきてくれたり、夕食の準備を預かることもしばしばあり、私たちの生活を影から支えてくれた存在であったことを思い出した。そういえば、父の死後も暫くは我が家に通ってくれていたような気もする。
「そうだ、奥さんからお昼ご飯、なにか適当に食べさせてくれって言われてるけど、コウちゃん、何が好き?」
「何でも、いいけど…」
「嫌いなものは?」
「いや、何でも大丈夫です」
「そうねえ…お米は炊いてないみたいだし…じゃ、すいとん作ってあげようか?」
「すいとん?」
「すいとん…知らないの?お団子の入ったお汁(つゆ)…おばさんのすいとん、美味しいんだよ」
「はあ…はい…じゃ、それ、お願いします」
「よしっ、じゃ、おばさんはまず洗濯とお掃除…そうそう、子供の部屋は自分たちでやらせてって言われるから、コウちゃんもちゃんと自分でやってよ」
「はい」
「自分の洗濯物は出しといてね」しずさんはそう言うと、機嫌良さそうに鼻歌を歌いながら洗濯の準備に取り掛かった。
しずさんとの短い会話で、子供の私は大分気持ちが落ち着いたようだった。慌ただしく変化する日常の中で、『私』との新たな関係も構築しなければならず、子供にとってはストレスの多い毎日だったのだろう。そんな中で新しく一家に関わりを持った人物が、思った以上に包容力があり、優しそうな人だったことを喜んでいる様子だった。
「どお?おばさんのすいとん…」
「おいしい!」だし汁の中に細かく切られた大根や人参などの根菜と鶏肉に混じって、もっちりとした大きな団子がいくつも浮かぶ…
感激した私が頬張る団子のその味で、『私』は忘れてしまっていた幾つもの味覚を思い出した。しずさんの肉ジャガ、しずさんの鯖の味噌煮、しずさんのおはぎ、しずさんのおにぎり、しずさんの煎《い》り卵、残りご飯を揚げたあられや大学いも…母は何故か和食料理が苦手だったので、しずさんが持ち込んでくれた多くの味覚は我が家にとって大きなセンセーションだったのだ。
「お代わりもあるわよ」最初の一杯を食べ終えた私に、箸を止めてしずさんが微笑んだ。
「あ、いただきます」
「おばさんのね、息子もこれ、大好きだったのよ」
「しずさん、子供がいるの?」
「いるわよ。男の子が一人。もう大人だけどさ…息子が小さかった頃はね、食べ物がなくて、お米も足りなくてね、だからよくすいとんを作ってあげたのよ」
戦争で連れ合いを亡くしたしずさんは、女手一つで息子を育て上げた。
家政婦を始めたのは、勤め先の家庭から育ち盛りの子供のために貴重な食材を分けて貰い易いからだった。今、しずさんの息子は郊外の工場に勤めていて、もうすぐ結婚する予定だそうだ。しずさんは近所の商店街の近くのアパートに一人で暮らしている。
「どんなもんだって、ちゃんと美味しく作って、美味しく食べられれば、人間なんて結構幸せでいられるのよ」
「ふーん…じゃ、しずさんの子供って、ずっとお父さんがいなかったの?」
「そうだよ。コウちゃんよりずっと小っちゃい頃からね」
「そうか……」
「あ、コウちゃん、お父さんのことが心配なんだ」
「うーん…ちょっとね」
「大丈夫よ。ちょっと病気で入院してるだけでしょ。すぐ元気になるわよ」
「そうだといいけど…」
「ほら、そういう時はね、美味しいものをお腹いっぱい食べるのよ。そしたら気分が楽しくなるから。コウちゃんが楽しそうにしてれば、お父さんだって嬉しいでしょ?そしたら病気だってすぐ良くなるのよ」しずさんの言葉には説得力があった。
昼食後、『私』は、家をしずさんに任せて、ヤスオの家に向かった。
「あれ?お父さんの病院に行ったんじゃないの?」
「ああ…今日はお見舞いの人が多いらしくて、お母さんだけで行った。ヤッちゃん、ちょっと話できる?」
「いいよ。暇だからどっか遊びに行こうかなって思ってたとこだし…上がれよ」
「うん…じゃ、おじゃましまーす!」
「あら、コウちゃん、いらっしゃい。お父さん、入院されたんだって?大丈夫なの?」ヤスオの母親が台所から顔を出した。
「あ、はい。病院のお医者さんは大丈夫だって、言ってました」
「そう、大変ねえ…くれぐれもお大事にって言っておいてね」
「はい、伝えておきます。有り難うございます」
「まあ…コウちゃん、随分大人っぽくなったわねえ…」
「いえ…そんなことないです…」
「そのくらいしっかりしてりゃ、お母様も安心ね。お前もちょっとは見習いなさいよ!」
「…ったく……大人なんだから、しっかりしてて当たり前じゃん…ねえ…」部屋に入るとヤスオが毒づいた。
「ごめん…もうちょっと、子供らしくしなきゃな…」
「それより、話ってなに?あ、ちょっと待って…」ヤスオは棚の上の小さなステレオのスイッチを入れてレコードに針を落とした。発売されたばかりのレットイットビーのアルバムだった。
「お、レットイットビー、発売されたんだ…」
「うん、ついこの間、買って貰った。早く映画観たいなあ…レコードかけといた方が話聞かれなくていいだろ?うち、狭いからさ…」
「ああ…有り難う…」
「で?なになに?」
『私』は、今の状況と、父と2人だけになることが出来る機会をなるべく早く見出したいこと、そこで『私』の存在を父にはっきりと伝えたいことを話した。
「なるほど…その方がいいかも知れないな…じゃあ、入院中に一人で病院に行くっていうこと?」
「そう、それがいいかなって思ってる…」
「普通の日の3時半から5時までの間かあ…学校は3時前に終わるけど…病院までどの位かかるの?」
「バスで行けば40分くらい、駅まで自転車で行って新橋駅から歩いても、同じくらいかな…でも、出来ればバスや電車は使いたくないんだよ」
「なんで?」
「子供が1人でバスや電車に乗ってると目立つだろう?どっかで知り合いに見られるってこともあるかも知れないし、お母さんもバスや電車を使うだろうし、ちょっと危ないかも知れないからな…」
「そういやそうだな…でも、どうすんの?」
「自転車がいいかなって思うんだけど…」
「ええっ?だって、遠いんだろ?新橋って…大変じゃん」
「大体10キロってとこかな。やっちゃん、駅まで自転車で行ったことある?」
「あるよ。とばしゃ、5、6分かなあ…」
「あれで大体2キロ。あの5倍だね」
「なんだよ…大したことないじゃん。道、分かるの?」
「ああ、俺ならね。バスの道とか駅前は避けて、なるべく裏の方抜けて行くコースは一応考えた。ただ、ちょっと問題があるんだ…」
「なに?」
「いや、前にちょっと感じたんだけど…俺、大人の俺ね、もう何十年も自転車乗ってないんだよね。正直言って、自転車、慣れてないし、結構怖いんだ」
「コウちゃん、自転車上手いよ。両手離しで乗れるし…」
「そうなんだ。だから移動の時は子供の自分に居てもらって、病院に入る時は入れ替わるってことなんだけど…そうなると子供一人じゃ心細いかなって…あと、道間違えたり、迷ったり…とか、心配なんだよね。でさ、相談なんだけど…」
「いいよ。俺一緒に行ってやるよ」
「助かるよ…それに、放課後暫くいなくなるから、ヤッちゃんと一緒の方がいいんだ。一緒に外で遊んでることにしときゃいいだろ?何か利用するみたいで悪いんだけど…」
「いいよいいよ、遠慮するなよ。何でも協力するからさ。それよりさ、俺も道覚えるから、教えてよ。ちょっと地図持ってくるわ」
ヤスオが持ってきた大きな地図を広げて、『私』は病院までの細かい道筋を説明した。ヤスオは地図に印を付けながら、懸命にルートを復唱していた。ステレオのスピーカーからは『Get Back』が流れていた…