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父の残像 6

父と話したこと…


今年の父の夏季休暇は土日を合わせて僅か3日間だけだった。
兄は水泳部の合宿で、来週まで帰って来ない。
休暇の初日、父と母は法事と買い物に出掛け、2日目は祖母の病院に出掛けた。私は一人で留守番だったので自由に時間を使うことができた。

初日の金曜日、『私』が初めて自分の正体を告白した時、ヤスオはこれからの40年の間に世の中がどんな風に変わっていくのか興味津々で、子供らしい質問を次々と投げかけてきた。私はその1つ1つになるべく丁寧に分かりやすく答えていったが、自分の記憶だけを頼りに時代の移り変わりを辿っていくのは容易いことではなかった代わりに、1つ1つの時空を話で紡いでいくことで、バラバラに散乱した記憶を一本の流れに組み立て直すことができた。

『私』がこの時代に持ち込めたものは唯一、自分のこの記憶以外ないのだ。

2日目の留守番の間に、何とか父と『私』がコミュニケーションを取れる方法がないものかと思案した…父は仕事が忙しく、普段殆ど家に居ることはない。まして、子供の私にとって、父が就寝前に帰宅することはめったになく、日曜日の休暇も月に1、2度がせいぜいで、それも母との買い物や祖母の見舞いなどで埋められてしまう。
『私』と父が2人きりになることができる隙間は殆どないのだ。

仮にその時間を見出せたとしても、話をどう切り出すかも大きな問題だ。私はまだ10歳の子供だ。大人から見れば、奇想天外な妄想を語ってもおかしくない年齢だ。かといって、いきなり事実を突きつけても、ヤスオの様に柔軟には受け入れて貰えないだろう。少しずつ今の私の状態を伝えていって、父の疑問が増幅されるのを待つしかないとも思うのだが、それほど悠長に構えている時間もない。

あれ以来、父は私と少し距離を置きたがっている様子だ。多分私のことが理解できないのだ。子供としては明らかに思慮深くなっていたり、ある日突然ジャズギターを弾きだしたり、子供らしく声を出して泣くこともなくなってしまった私の極端な変化に戸惑っていることが手に取るように分かる。


3日目の日曜日、チャンスは突然訪れた。

朝からゴルフの練習に出掛けた父は帰って来ると、私に言った。
「コウちゃん、ちょっと銀座まで付き合わない?」
「え?お母さんは?」
「今日は夕方前に三橋(みつはし)さんが御夫妻でいらっしゃるのよ」
「ミジンコのおじちゃん?」

三橋さんは父の学生時代からの親友だ。一緒にバンドを組んでいた音楽仲間で、今はプロの編曲家だ。父は彼の事を今でも学生時代のあだ名『ミジンコ』と呼ぶ。何故ミジンコというあだ名が付いたのか訊ねた事がある。父が言うには…ちっこくって、ちょこまかしてるから…ということらしい。

「そうよ。あたしはお夕食の支度があるし、少しはお家(うち)を奇麗にしておかなくちゃいけないしね」

三橋さんは余程父と馬が合うらしい。父の生前にはよく我が家を訪れては、必ず若い頃の懐かしい思い出を肴に酒を酌み交わすのだ。どこまでが冗談でどこまでが本気なのかさっぱり分からない楽しい人で、私たち家族をいつも笑わせてくれた。

「旨いもんでも見繕いに行こうと思ってな。昼飯食わしてやるから付き合えよ」
「うん…分かった…」
「お肉も買ってきて下さいね」
「おう。さ、支度しろ。行くぞ」


バスで駅に向かう間、父は一言も口を開かなかった。

駅で父が切符を買ってくれる…少し離れたところから『私』は父の仕草を見ている…ズボンのポケットから記憶にある黒い革製の小銭入れを出し、ジッパーを開いて中を覗き込む…販売機に数えた小銭を入れてボタンを押す…釣り銭を小銭入れに戻して再びポケットに仕舞う…1つ1つの仕草が父が確かに父であることを示している。
「ほら…」と手渡された紙の切符には大きく『小』の字が刻印されていた。

電車に乗り、2人並んで席に座ると、父は初めて話しかけてきた。
「コウちゃん…CメジャーからさDマイナーに行く時、途中に、あれ何のコード入れてんの?」

父はどう切り出していいのか考えていたようだ。私は誤魔化さずに正直に答えてみることにした。
「え?あ、えーと…普通だったらDに行くからAセブンのフラッテッド9でEフラットの音をテンションに使うんだけど…僕はベースにEの音使いたいからEディミニッシュを入れてる…」
「…やっぱり…分かって弾いてんのか…お前…コードワークとか、どこで覚えたんだ?誰かに教えて貰ったのか?」
「ううん…自分で…」

父は動揺を抑えるように静かに話を続けた…
「だって…ついこの間ドレミファソラシド教えたばっかりだろ?お前、Cのローコードだって満足に押さえられなかったじゃない…」
「うん…あのね…夏休みに入ったばっかりの時にね、ギターが弾けるもう一人の自分が僕の中に入ってきちゃったんだ…」
「……」父は私の言葉の意味を考えているようだった。

「…最近…お前…やけにしっかりしてるだろ…あれもその…もう一人の自分っていうののせいなの?」
「うん、そうだよ。こうした方がいいとか、何か分かるの。大人みたいなんだよ」

父はさらに押し殺した声で訊ねた…
「もう一人いるのか?」
「そう…だけど、それも僕なの。自分のね、量がばっと増えた感じかな…」
「そうか…自分の量か…で?勉強は、どうなの?」
「楽んなったよ。夏休みの宿題やってみたけど、何でもよく分かっちゃう」
「そうか…それで…頭痛とか、気分が悪いとか、そういうことはないの?」
どうやら父は、何かの病気を疑っているようだ。
「ないよ。全然平気だよ」
「何かおかしなことがあったら、すぐに俺に言えよ」
「分かった…」
「お母さんや克ちゃんには話したの?そのこと…」
「ううん…カッちゃんは水泳部であんまり家にいないし、お母さんにはどう話していいか分かんないし…ヤッちゃんだけにはちょっと話したけど…」
「一度診てもらった方がいいかも知れないな…それ…」
「そお?でも…なんともないよ」
「知合いの医者にちょっと訊いてみるよ」
「多分、病気じゃないと思うけど…」
「そうだな…」


電車は有楽町に到着した。

父はデパートの地下の食料品売り場が好きだった。家でのんびりできる休日が訪れると、普段近所では手に入らない輸入チーズや生ハム、スモークサーモン、ローストビーフ、クラゲのサラダ、ピータン、老舗の卵焼きや蒲鉾、煮豆や佃煮などを買出しに出掛ける。
有名デパートの食料品売り場をのんびり物色して、予算を気にせず口にしたい食材を少しずつ買い集め、浮き浮きと帰宅する。それらを食卓にずらりと並べ、陽の高い時分から時間を掛けて、とっておきの洋酒を啜りながら満足そうに舌鼓を打つのだ。
一人でテレビを相手に飲む時もあれば、会社の親しい部下や学生時代の友人を招いて一緒に食卓を囲むこともよくあった。今日の酒の相手は三橋さん夫婦である。

父は楽しそうに食品のショーケースを物色しては、「これ、少しくれる?あっちのもね。同じくらいでいいよ…」と、目ぼしいものを買い漁っていく…
「どっちがいいかなあ…コウちゃん、どお?どっちが旨そう?」と、意見を求められることもある。
「こっちの方が味は淡泊だと思うよ。お塩を少し振ってレモンとオリーブオイルで食べると、結構美味しいよ」私はストレートに意見を言う…
「坊ちゃん、小さいのに良くご存知ですねえ…」
「お前、そんなことも分かるのか?」
「うん。何だか分かるの…」

昼を迎えるまでに、父が買った食材や総菜は手提げの紙袋一杯になった。

買い物を終えると、父は私を老舗のパーラーに連れて行ってくれた。二人でこのパーラーの定番ハヤシライスを食べた。『私』の時代にも名店として残っていたこの店の40年前のハヤシライスは驚くほど美味しかった。

『私』がこの時代に来て以来、大きな問題の一つだったのは味覚である。
苦味、辛味、酸味といった味覚に子供の身体はすぐに拒否反応を示す。ただし、子供の味覚が欲するまま日常を過ごしていると、逆に『私』の意識が欲求不満を起すのだ。
特に、この時代の野菜の味は絶品だった。『私』の時代の野菜と比べると味の強さ深さが数倍も違うように思える。『私』はあれもこれも沢山味わいたいが、子供の私は野菜が大嫌いだ。葱、玉葱、セロリ、ピーマン…など苦手の目白押しで、生姜、わさび、辛子、唐辛子などの香辛料に関しては論外だった。

この3週間『私』はこういった数々の苦手を少しずつ摂取するように心掛け、子供の身体に慣れて貰うように折り合いをつけてきたのだ。その甲斐あって、最近ではようやく違和感なく大人の味覚を楽しめるようになり、『私』のストレスも解消されつつあった。子供の私もそれを誇りに思っている。

二人でハヤシライスを平らげると、父がウエイトレスを呼んだ。
「すいません、コーヒー一つね。お前は?クリームソーダかな?」
「僕も…コーヒー飲んでも、いいかな?」
「まあ、いいけど…いいのか?コーヒーで…」
「うん」
「じゃ、コーヒー2つ…」

『私』はコーヒー党だ…気に入ったロースト豆を買い置きして、毎朝グラインドしてドリップする…
1日に4、5杯は必ず飲んでいた。ところが、この時代の我が家にはコーヒーを飲む習慣が殆どなかった。まして子供がコーヒーを飲むことはタブーとされていたので、大好きなコーヒーに接する機会がなかったのだ。

ホットコーヒーが2つ運ばれてきた…レギュラーコーヒーの香ばしい香りが胸を躍らせる…

砂糖とクリームを使い終わった父が小さな銀の盆をこちらに滑らせる…
「ほら、お砂糖とクリーム…」
「いや…このまんまでいい…」

私はブラックコーヒーのカップをゆっくりと口に運び、少し啜って味わった…
流石に銀座の高級パーラーだ…この時代背景からすると、コロンビアだろうかハワイコナだろうか…
中炒りの軽い口触りに、爽やかな酸味とキレの良いほろ苦さが混ざり合う…
「ああ…美味しい…」

その様子を黙って見ていた父が話し掛けてきた。
「やっぱりお前…変だな…」
「そうなんだ…変でしょ?でも…病気じゃないよ」
「美味しいか?」
「うん。家だとなかなか飲めないから…」
「子供の内はあんまり飲まない方がいいぞ」
「分かってるよ…ずっと飲んでなかったし…」
「そうか…お母さんには内緒だぞ」
「分かってる…ねえ、それよりさ、ちょっと聞いていい?」
「なんだ?」

「あの…お父さんの仕事、最近どお?」
「仕事って、会社の仕事のこと?」
「そう…工業製品のこと…上手くいってる?」
「まあまあ、順調だな。なんで?心配か?」
「いや…どんなことやってんのかなって思ってさ…」
「そんなことも気になるのか…ま、いいや。聞きたいんなら話してやるよ。お前のことももっと知りたいしな」

どんなことにも知的であろうとする父らしい対応だ。父はゴムや樹脂加工品の開発アイテムを一つずつ説明してくれた。はじめは子供に理解できるように言葉を選んで説明してくれていたが、途中からその必要がないことが分かったようだった。

「…まあ、今のところそんな感じだな。化成会社との提携も上手くいってるから素材開発の方もこれからどんどん進んでくるな。それに合わせて製品化を企画していかなくちゃって感じかな。どうだ?分かるか?」
「うん、分かるよ。あのさ…お父さん、飛行機の空中給油の仕組みって知ってる?」
「空中給油?」
「そう、B52から戦闘機に空中で給油するやつ」
「ああ…写真で見た事があるな…」
「あれね、ホースでしょ。ホースの先に樹脂と金属を組み合わせたアッセンブルジョイント…結合装置が付いてるんだよね。軽く押し当てるだけで戦闘機の給油口にカチッとはまるんだ。はまったらどんなに高圧で給油しても一滴も漏れないし、給油が終わったら操縦席からワンタッチで外せるようになってるんだって。知ってた?」
「いや、知らない…」
「お父さんの会社ってさ、防衛庁と取引あるよねえ?」
「ああ…航空機や軍用トラックのタイヤもやってるからな」
「じゃ、防衛庁の人と良く話してみた方がいいよ。そういう高圧ホースのアッセンブルジョイントってこれからすごく大事な技術になると思う」
「でも特殊な技術だろ?」
「例えばねえ…クーラーってこれからもっと普及するでしょ?」
「家で使うクーラーか?」
「そう…あれってガス冷却だよね。ガスを圧縮するでしょ?つまり部品には必ず高圧ホースが必要なんだ。組立やメンテナンスの時にアッセンブルジョイントがあれば効率がいいよね。ガス漏れもないし…あと、ガスコンロやガスストーブってホースでガスの口と繋ぐでしょ?ああいうのももっと簡単な樹脂のアッセンブルジョイントにしたらガス漏れ事故もなくなるよねえ。日本中のガスの差し込み口が幾つあるか考えてみてよ。凄い商売になるでしょ?とにかく、油圧や空圧の技術があるところには必ず必要になるはずだよ」
「なるほど…アッセンブルジョイントか…お前それ、いつ思いついたんだ?」
「今かな…お父さんの説明聞いて…あ、これはまだやってないんだなって…思いついたって言うより、何だか知ってるんだよ」
「10歳だろ?お前…信じられないな…」
「そうだよね…僕だって信じられなかったよ。でも、やってみて。きっと上手くいくと思うよ」
「そうか…駄目元で当たってみるか…」父はそう言いながら、胸のポケットから煙草を取り出して火を付けた。
「煙草…美味しそうだね…」
「お、煙草は駄目だぞ!」
「分かってるよ。まだ子供だしね…ねえ、お父さん…」
「ん?」
「ちょっと…気になってることがあるんだけど…」
「なんだ?」
「お父さん、最近、血尿出なかった?お父さんの後にトイレに行ったらちょっと赤いもんが付いてたから…」
当てずっぽうだった。

「ああ…あれか…この間ちょっとな。多分疲れが溜まってたんだろう…今はもう大丈夫だ」
「それ、まずいよ。泌尿器は何か原因がなきゃ出血はしないから…会社の診療所でもいいから絶対に診てもらってよ。早く診てもらった方がいいよ。相談だけでもいいから…なるべく早く…ね?」
「そうか…今は別に何ともないんだけどなあ…ま、あんまり心配すんな。ちゃんと診てもらってくるから…」
「約束だよ。絶対だからね」
「分かった分かった」
「ねえ…」
「ん?」
「お父さん…僕のこと気味悪いと思ってる?ちょっと嫌いになった?」
「そんなことないよ。コウちゃんはコウちゃんだからな…ただちょっと…驚いてるだけだよ。そうだ…俺、明日からまた会社だから…何か困ったことがあって、お母さんにもだな…その…つまり…相談できないような困ったことがあったら…ここに電話していいからな」そう言って自分の名刺を一枚渡してくれた。
「ありがとう…」
「お母さんには、そのうち話すのか?」
「ううん…話さない。だって…」
「そうか、そうだな。その方がいいかも知れないな。どうせそのうちすぐお前も大人になるんだし…ちょっとの間だけは子供のままでいてあげた方がいいかもだな。俺も暫くは黙ってるよ」
「うん…そうしてくれると、助かる」
「話は、もういいか?」
「うん。ありがとう…」
「じゃ、そろそろ帰るか?」
「うん」


駅に向かって歩きながら、父は穏やかな表情で静かに考えている様子だった。時折私の顔を見ては、にっこり微笑みかけてくれた。

『私』は感慨で胸が熱くなるのを抑えられなかった。残像のような不確かで微かな記憶しかなかった父の存在が、思った以上に大きく暖かかったこと…その父と今こうして正真正銘の『私』として直接会話が交わせたこと…そして何より、父が『私』を『私』としてそのまま受け入れてくれたことが嬉しかった。

駅で父は再び切符を買い、1枚を私に渡してくれた。
「子供…でいいんだよな?…」と微笑んだ。

切符には大きく『小』の印字が押されていた…

第7話につづく…

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