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仙の道 14

第六章・佼(3)


あの日以降、成和会からのアプローチは何もなかった。飯場はいつもの平静を取り戻していたが、荒木、戸枝、礼司の3人は、念のため暫くの間現場の作業から外されることとなった。

3日後の午後のことだった。暇を持て余した礼司と戸枝は、いつものように外でキャッチボールをしていたが、礼司のボールをキャッチした戸枝が、突然怪訝な表情でフォームを止めてしまった。目を細めて、礼司の肩越し遥か向こうを見つめている。

「イサオさーん!どうかしたんですかあ?」戸枝が見つめる後方を振り返って見ると、敷地の入口からこちらに向かって歩いてくる1人の老人の姿が見えた。

「ゼンさーんっ!」礼司のすぐ近くまで来た戸枝が大きな声で呼び掛けると、遥か向こうで老人が手を振った。
「おい、礼司くんっ、ゼンさんだよ。ゼンさん帰ってきたんだ。行こうぜ。紹介するよ」戸枝は子供のように満面の笑顔を浮かべていた。

神谷善蔵は礼司が想像していたよりも、ずっと小柄な老人だった。
着古した作業ズボンの裾を折り、すり切れたズックに薄手の防寒ジャンパー、薄汚れた布製の古い大きなショルダーバッグを肩から斜めに掛けていた。白髪頭は整髪もせずぼさぼさで、やせ形の細面には深い皺が目立つ。見た所70代といった感じだろうか。細い優しそうな目をさらに細めて戸枝の姿に微笑みかけ、かくしゃくとした足取りで近付いてくる。

「おう、イサオ!なんだお前え、元気そうじゃねえかあ。貸金稼業から足洗って、どうだ?さっぱりしたろう?」風貌に似合わず、張りのある大きな声だった。
「何だよ、ゼンさん、何処行ってたんだよお。俺、折角久し振りにゼンさんと一緒に暮らせると思ったのによお…来てみたら、一足違いでいなくなっちゃってんだもんなあ」
「いやいや…はは…ちっと大仕事があってよ、これがなかなか力仕事でな。悪かったな。こっちがごたごたしてるこたあ分かってたんだけどよ、それどこじゃなかったんだよ。勘弁してくれ。いや、俺も歳だねえ、ま、実際歳なんだけどよ。今度ばっかりはちいと堪えたぜえ…」
「そういえば、ゼンさん…すこし痩せたんじゃない?一体何やってたの?」
「ま、その話はまたあとでゆっくりな…お、君が例の坊やだね?」善蔵は後に控えた礼司に視線を移した。
「あ、そうそう。俺と一緒に来た礼司くん。礼司くん、噂のゼンさんだよ」
「初めまして…礼司です。あ、あの…春田礼司です。お会いできるの楽しみにしてました」
「私、神谷善蔵と申します…そうか、君かあ…いや、そろそろイサオが連れて来てくれると思って何年か待ってたんだけどね、肝心要の時に行き違いになっちまって…本当に申し訳なかったね、まだ慣れてないのにいろいろ頼りにしちゃってさ。でも、あれだろ?葉月が上手く捌いてくれたんだよな?」
「ええ…あの…どういうことですか?僕がイサオさんとここに来ること、何年も前から分かってたってことなんですか…?」
「大体のとこはな…ま、その辺はイサオ任せだしよ、果報は寝て待てって感じだな…」
「じゃやっぱり、ゼンさんがここで会うことになってる人って…礼司くんのことだったんだ…なんだよ、早く言ってくれりゃ、さっさと連れて来てやったのによ」戸枝は不服そうに首を傾げた。
「そりゃあ、俺にも分かんねえのさ。いろいろややこしい事情があってな…ま、言ってみりゃ神の領域みてえなもんだ。しかしよ、もう出るか今出るかと思ってたらよ、本当に湧いて出やがった。待った甲斐があったってもんだ。でも、どんな奴が出るかと思ってこうやって実際会ってみたらよ、今時の普通の若もんじゃねえか…びっくり仰天だよな。はは…恐れ入谷の鬼子母神ってとこだ。はは…おうイサオ、こちとら駅からずっと歩いて来たんだ。もう喉がからっからだあ。いつまで立ち話させる気だ。中でひと息入れさせろや。相変わらず気が利かねえよなあ…もちっと年寄り大事にしてくれねえかな。はは…おい、ところでゆう坊は事務所か?」
「あ、ああ。いるよ」
「じゃ、ちょっくら顔出すか。また世話んなるからな」善蔵はそう言うとすたすたと事務所に向かい始めた。
「あ、あの、お荷物お持ちします」礼司が慌てて駆け寄った。
「ははは…いいってことよ。そこまで老いぼれちゃいねえよ。さっきのは冗談だ。ありがとよ。わはは…いや目出たし目出たし、あははは…」善蔵は礼司の肩をポンと叩き、機嫌良さそうに笑うと、そのまま足早に行ってしまった。

「善蔵さん、ちょっと飲んでるんですかね?」礼司が戸枝にそっと訊いた。
「いや、ゼンさんはいっつもあんな調子だよ。相変わらずだよなあ…どう?楽しい爺さんだろ?」
「ええ…良さそうな人ですね」

2人も善蔵の後について事務所に向かった。


善蔵は事務所のテーブルで澄江が入れてくれたお茶を旨そうに飲みながら、雄次と雑談に興じていた。やがて葉月と荒木を含め飯場に残っていた寮舎の人々も事務所に駆け付け、皆満面の笑顔で善蔵との再会を喜んだ。善蔵は常に会話の中心に身を置き、饒舌な江戸弁で皆を和ませていた。

「さて、くっだらねえ話はこの位にして、俺あ少し部屋で休ませて貰うとすっかな。スミちゃん、前とおんなじ部屋使わせて貰ってもいいのかい?」
「どうぞ。イサオくんと礼司くんが増えたから、前よりちょっと窮屈かも知れないわよ。何だったら個室の方も空いてるけど…」
「いや、賑やかな方がいいや。俺あここんとこずっと1人だったからよ。人と喋りたくてよ、口がうずうずしてんだよ」
「じゃ、先生、イサオくん、礼司くん、今日からゼンさん入るから宜しくね。あら、もうこんな時間!もうおばさん来ちゃってるじゃない。ほら葉月、夕飯の支度しなきゃよ」
「はーい」


久々の善蔵の帰還を祝って、夕食は賑やかに和やかに終わった。善蔵は食後の雑談の輪から離れると戸枝、礼司、荒木に声を掛けた。
「おう、お前えら部屋にちょっくら戻ってくれ。いろいろ話さなきゃなんねえことがあんだ。ゆう坊と葉月も連れてきてくれよ」
「あ、ああ、分かった…」戸枝は雄次に、礼司は葉月にそっとその旨を伝え、別棟の二階の部屋に戻った。善蔵は部屋の窓際にあぐらをかいて座り、荒木は私物を片付け、卓袱台ちゃぶだいを用意していた。

「ゆう坊と葉月はどした?」
「すぐ来るよ。お茶入れてくるってさ」戸枝が卓袱台の前に座った。
「そりゃ、有り難え。気が利くな」

間もなく雄次と葉月が急須代わりのヤカンと茶碗を持って部屋に入ってきた。
「おう、じゃみんなも座ってくんな」全員が席に着いて茶碗とヤカンを回し始める。

「さてと…どっから話せばいいか…」善蔵はそう言いながらゆっくり目を閉じた。
「成和のことでしょうか?」次の言葉を待ちかねた雄次が先に尋ねた。
「おう、じゃその辺から話そうか。実はここに来る途中でちょこっと横浜に寄ってよ、えい坊に会ってきたんだ」
「え?叔父貴と会ったの?組の方は大丈夫だった?」戸枝が身を乗り出した。
「ごたついてんのは知ってたんだけどよ、こっちもそれどこじゃなかったからな。収めてやんねえとまずいかなって思ってよ」
「で、兄ちゃんとこは大丈夫なんですか…?」そう訊いたのは雄次だった。
「おう、元気そうだったぞ。今んとこ相手も手え出し兼ねてるみてえだな。睨み合いってとこだ。奴等も可哀相なんだよ、板挟みだからよ」
「え?板挟みって?」
「先生の事件と関係があんだな、これが。おいイサオ、えい坊のシマに成和の連中がちょっかい出してきたのはいつ頃からだ?」
「そうだなあ…えーと…5年前位からだったかなあ…」
「あ、河丸建設と国土交通省の癒着が始まった時期だ!」気が付いたのは荒木だ。

「お父さんの会社?…」礼司の父隆司が横領行為に手を染め始めたのもこの時期だ。
「それだ。じゃ、建設会社と役人を手え組ませたのは誰だ?」
「副大臣の尾崎…」荒木が呟いた。
「尾崎の地元はどこだ?」
「確か…岐阜第2区…」
「成和会はよ、どっから浜に乗り込んだ?」
「あいつらの地盤は名古屋周辺で…あ、そうか、元々は岐阜だ…」今度は戸枝が呟いた。
「ほうらな。そういうことなんだよ。政治屋たちがよ、彼奴等こっちで便利に使うにゃシマがいるだろう?で、狙われたのがえい坊の組だな。何たって昔気質かたぎの真っ当なヤクザだ。後ろ盾も何もねえからよ」
「ま、ヤクザに真っ当もへったくれもないからな。何されたって文句は言えねえよ…」
「まあまあ、そう言うなゆう坊。ヤクザなんてもんはよ、喧嘩に負けりゃあそれでお仕舞えだ。奴等2度もこてんぱんにやられてっだろう?それも相手は街金と素人の坊やだ。分が悪いのは馬鹿でも分からあ、でもよ、ここまで来たら引くに引けねえんだよ。そこでだ、この俺が一肌脱ごうって算段だ」
「どうするんですか?」
「手打ちだ、手打ち。えい坊にゃ相談済だ。まずは成和によ、その政治家の連中と手え切らせるのが先決だ。なあに、別にどうこうするつもりはねえよ。関東から大人しく引き払って貰うだけのことよ」
「だけのことって…そんな、すんなり納得するかなあ…?」戸枝が首を捻った。

「だから俺が一肌脱ごうって言ってんだよ。元々は何処にでもある欲のぶつかり合いだからよ、こんな御時世にゃよくある話だ。別に俺が出て行く筋合いでもねえ。勝手にやってろってなもんだ。でもまあこれだけ身内が巻き込まれてちゃ、片付けねえ訳にもいかねえだろ。折角礼司くんが現われてよ、これからが山って時によ、んなくっだらねえことにいつまでも足いとられてる暇はねえってんだよ」
「そうか…ゼンさんがそう言うんだったら、上手くいくのかな。成和の連中が手え引くんだったら、俺たちも晴れて自由の身ってことだよな」戸枝は安堵の表情を浮かべた。

「成和は序の口だあ。次はもちっと手強えぞ。何たって副大臣様にお引き取り頂こうって話だからよ。役人連中も面子潰さねえように気い遣ってやんなきゃなんねえしよ。面倒臭えぞ。ヤクザなんて可愛いもんだ」
「そっちはどうするんですか?」
「まずは成和だ。成和とえい坊が手打ちすりゃあよ、向こうで勝手に動き出してくるさ。こっちでわざわざ出向くこともあるめえ」
「で、その手打ちはいつやるの?」
明後日あさってだ。向こうには直接えい坊から申し込んだからよ。ガン首揃えてこっちから乗り込む」

「向こうは受けたんですか?」
「一応な。来たら命はねえって分かってるんなら来いってよ」
「そんなとこ、のこのこ顔出して大丈夫なの?」
「何言ってんだ、お前えも一緒に行くんだよ。礼司くんも先生もだ。手打ちだ手打ち。これまでのこたあ一切合切水に流すんだ。おい葉月、お前明後日横浜に遊びに行かねえか?礼司くんはまだ新米だ。相手怪我させねえように、近くで茶でも飲んでてくれると助かるんだけどよ…」
「いいよ。どうせ仕事お休み取ってるし」
「悪いな、頼まあ。ゆう坊、いいだろ?」
「まあ、ゼンさんがそういうなら…それより、ゼンさんがやらなきゃならない大仕事って、一体何なんですか?」
「そらあ、俺の仕事だ。お前え等に話しても仕様のねえ事だしよ、ま、気にすんな。まずはお前え等の細っけえこと先に片付けねえとな。心配すんな。えい坊にもゆう坊にもその内ちゃんと話してやっからよ」

善蔵が指示した通り、それから全員で2日後に成和会に向かう段取りを話し合った。こちらから出向くのは雄次を除いた5人。朝の内に戸枝の乗用車で向うことを決め、散会となった。


就寝前、部屋に布団を敷いている礼司に善蔵が話し掛けた。
「礼司くん…お前えもいろいろ大変だったな」
「いえ、大丈夫です。あの…呼び捨てでいいですよ」
「はは…そうか…じゃ礼ちゃんでいいか?」
「あ、はい…」
「礼ちゃんが大丈夫なのは百も承知だけどよ、あれだろ?お前え、俺に訊きたいことが山ほどあるんじゃねえか?」
「ええ。あの…僕は一体…何なんでしょうか?」
「あははは…何だよ、ずばり来やがったなあ。でもよ、口でちょいちょいって説明出来るようなこっちゃねえんだよ。こまっけえことが済んで少し落ち着いたらよ、ちゃんと教えてやっから、ま、心配すんな。俺がやろうとしてる仕事には、お前えが絶対に欠かせねえってことだけは覚えといてくれ」
「はい…でも、僕のことが分かる人がいたっていうだけで、凄く安心してるんです」
「分かる分かる、その気持ち…礼ちゃん、お前さん、いくつだい?」
「20歳ですけど…」
「そうか…若くて良かったな。そりゃお前、イサオのお陰なんだぞ。俺なんてよ、気が付くまでに50年近くも掛かっちまったんだぜ。ま、人それぞれなんだろうけどな」
「善蔵さんは…お幾つなんですか?」
「その話も、また今度な。いろいろまとめて教えてやっからよ」
「はい、お願いします…」礼司は深々と頭を下げた。

第15話につづく…

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連載小説『仙の道』では表紙イラストを、毎回一点イラストレーターであり絵本作家でもあるカワツナツコさんに描き下ろして頂いています。

カワツナツコさんの作品・Profileは…
https://www.natsukokawatsu.com





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