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少年ジェットがいた日..2
品川マンガクラブ(2)
正治と昌志が書斎で漫画ノートを見せ合っているところに幸夫が入ってきた。
「おすっ!」
「うすっ」
「やあ。遅かったね」
「うん、宿題やってた。みんなやった?」
「やったよ」
「俺、まだ」
「正ちゃんまた先生に怒られるぞ。ゲンコツグリグリって」
「あれ、イテーよなあ」
「いてーいてー」
「ジャーン!」
「あ、少年サンデー!」
「すげー!幸夫くん買って貰ったの?」
「ううん。お兄ちゃんの借りてきた。汚すなって」
郵政省の官舎に住む幸夫には、年の離れた高校生の兄がいて、なんと手塚治虫マニアだった。家に行くと、子供にとっては高嶺の花だった手塚のハードカバーの単行本が本棚にズラリと揃っているのだ。もちろん、勝手に手に取ることは許されておらず、遊びに行った時に運良く兄がいれば、手の汚れがないことを確認された上で、丁寧に扱うことを条件に読むことが許可される。
「俺、スリル博士読みたいな!」
「僕も!」
「いいよ、はい。頁折らないでね」
「やったー。サンキュー」
「ねえ、幸夫くんのノート見せてよ」
「えへへ…いいよ、ほら」
と、いつも持っているノートの頁を得意そうに開いて見せた。
「なに?これ?」
「どれどれ?なになに?」
幸夫のノートの新しい頁には、きれいにレタリングされた『品川マンガクラブ』の文字と『栄』の字を円で囲んだグラフィカルな丸いマークが描かれていて、その下に小さく『EIKOSHA』のローマ字。
「へへ、いいこと思いついたんだ。僕たちの品川マンガクラブは今日で解散するんだ」
「なんで?」
「漫画描かないの?」
「違うよ。品川マンガクラブは今日から会の名前じゃなくて、雑誌の名前にするんだ。みんな漫画を書き始めるでしょ。その漫画はこの雑誌に連載されるの」
「すっげー!」
「僕らの漫画が雑誌に連載されるの?」
「でもさ、三人だけじゃ、すっごく薄っぺらな雑誌になっちゃわない?」
「大丈夫。一人連載を二本持つんだ。1本が12ページで3人で6本。連載漫画の頁は72頁。それに目次とかコラムとか読み物とか読者プレゼント頁、作家紹介もね。大体百ページくらいには出来るよ。どお?」
「すごい!やろう!」
「やろうやろう!で、そのマークは?」
「だから、雑誌を作るんだから、僕らは出版社になるんだ。名前はね『栄光社』。雑誌の裏表紙にはこのマークをつけるのさ」
「いいねえ」
「いいねえ。栄光社。なんかかっこいいよね」
「でもさ、印刷は?」
「印刷はしない」
「どうするの?」
「みんな漫画描くときはノートをやめて藁半紙に描くんだ。藁半紙は二つ折りにして使って、1枚4ページでしょ?連載2本分で6枚ずつ描くんだ。で、全部集まったらきれいに綴じて同じ大きさの画用紙で表紙をつける。もちろん背表紙もつけるよ」
「でも一冊だけ?」
「そう。それをね、先生に頼んで学級文庫に置かせて貰うんだ。貸本とおんなじだよね。そしたらクラスの皆に読んで貰えるだろ?」
「貸本の雑誌かあ…いいかも」
「次の号が出たら、古いのは他のクラスに回してもらったりしてさ、学校中に読者ができたらいいよねえ」
「いいねえ」
「じゃ、栄光社結成だね」
「決まったね」
「ねえ、昌志くんスリル博士読もうよ」
「あ、読もう読もう」
「やっぱ、手塚治虫は上手いよなあ…凄いよなあ…」
「うん、武内つなよしも好きだけどね」
「少年ジェット?今日やるよ、テレビ。7時半」
「いいなあ、正ちゃん家にはテレビあって」
「僕はアパートの隣の家で見せてもらうんだ」
「昌志くんもご飯食べたら家に来なよ。金田くんと菅野くんも来るし」
「駄目だよ。夜は出かけちゃ駄目だから」
「そっか、しょうがないな。じゃとにかく、栄光社、みんなで頑張ろうぜ」
「そうだね。俺、ジュース貰ってくる」
「あ、そうだ!おばさんにこれ持ってって」
正治は包みの中から3つチョコレート饅頭を出し、自分の分を半分に割って、大きい方を昌志に渡す。3人はいつものように夕方までたっぷりと連載漫画のアイデア出しに没頭するのだった。
その日の夜、正治は夕食が終るとアパート裏手の坂を降りたところにある学校の裏門に友達を迎えに行く。四月の夜はセーターを着ていても少し肌寒かった。2人のクラスメートはニコニコと待ちきれない様子で街灯の下に立っていた。
「おす。待った?」
「ううん。今来たとこ。な」
茶色いカーディガンを来た背の高い菅野くんは、学校で会う時よりも小奇麗にお洒落させられている。
「うん。ついさっき着いたばっかり」
小柄な金田くんは、昼間学校で会ったときと同じ。ひじの破れたのセーターにお尻に大きな継ぎあてのある半ズボン。素足に踵を踏み潰した運動靴は泥だらけだ。何をしてきたのか、足も手も顔も煤で黒く汚れている。
「正ちゃん家って、学校の近くなの?」
「うん、すぐそこだよ。行こうぜ」
「ああ…母さんがさ、夜に人様んとこにお邪魔するんだったら、奇麗にしてけってさ、うるせえんだよな」
「ふーん、そうなんだ」
「おい、金田。お前、人ん家行くのにちょっと汚な過ぎるぞ。顔ぐらい洗ってこいよ。気が利かねえな、本当によ…」
「ごめんな。気がつかなくってよ」
「いいよ別に。テレビ観るだけなんだから」
金田くんはすっかり意気消沈し、しょんぼりと遠慮がちに二人に付いてくる。
「俺さ、少年ジェット、最初のほうしか観てないんだ。今日は誘ってくれて有りがとな。なんかドキドキしてんだ」
「ここだよ。近いでしょ」
「へーえ、奇麗なアパートだな。お前ん家ってお大尽なの?」
「ううん。社宅だもん。お父さんの会社から借りてるだけ」
「へーえ、でもよ、すげえよなテレビがあんだから。なあ」
「うん…」
金田くんはまだ申し訳無さそうに、階段を上がりながら服の汚れをあちこち払っている。
「ここだよ、上がって。ただいまー、連れてきたよー」
ドアを開けて二人を迎え入れた。台所で母親が迎える。
「えーとねえ、同じクラスの菅野君と金田君だよ」
「あら、いらっしゃい。夜なのに大丈夫だった?お家遠いんでしょ?」
「こんばんわ。お邪魔します。これ、お母さんが持ってけって。今朝うちの鶏が産んだ卵です」と菅野くんは紙袋を渡す。
「まあ、美味しそうな卵ね。助かるわ。有り難う。こちらは金田くん?」
「こんばんわ…」
「あらあら、金田君は随分汚れてるわねえ。そこのお風呂場で顔と手と足と洗ってらっしゃい。正ちゃんタオル出してあげてね」
すかさず菅野くんは小声で「みろ、馬鹿。みっともねーな、本当によ…」と、囁く…
タオルを用意した正治が「こっちだよ。ほら」と、金田くんを促して風呂の湯を洗面器に汲んであげる。
風呂場の簀子の上で金田くんは足を洗いながら、遂にめそめそと泣き出してしまった。
「大丈夫だよ。気にすんなよ。早く洗って向こう行こ。少年ジェットもうすぐ始まっちゃうよ」
金田くんがようやくタオルを使い終えると、台所で所在なさそうに立って待っていた菅野くんを連れてテレビの置かれた居間に移動する。
六畳の居間には同じ社宅に住む二人の男の子、それに正治の兄の克雄の3人がテレビを見つめて座っていた。
「広樹くんと武彦くんもさっき来たんだよ」
「えーとね、同じクラスの菅野くんと金田くん」
「いらっしゃい。」
「どうも」
「ども」
「その辺に座んなよ。もう始まるとこだよ」
母親が人数分のジュースとビスケットを運んでくる。
「はいどうぞ。みんなもう少しテレビから離れて座りなさい。目が悪くなるわよ」
全員がジュースを片手に少しテレビから離れて座り直すと、いよいよ番組が始まった...
ジェットの愛犬シェーンが吠える。
つづいて少年ジェットの後ろ姿が下半身だけ写しだされる。
振り向いたジェットの手元の拳銃。
画面手前の風船が次々と撃ち割られてゆくと、向こうに拳銃を構えた少年ジェットの姿が…
タイトルと同時に子供たちの声で「僕らの英雄少年ジェット!」、テレビの前の正治たちに鳥肌が立つ。
「シェーン!行こう!」と、高い柵を跳び越え、未来的装飾のスクーターに跳び乗る。
モウモウと煙を上げるスクーターの排気パイプに、主題歌の前奏が始まる。
都会の陸橋をさっそうと走り抜ける少年ジェットと愛犬シェーン…
テレビから流れる主題歌に合わせて正治たちも声を揃えて歌う。
「勇気だ 力だ 誰にも負けない この意気だ ヤア! 白いマフラーは 正義のしるし その名はジェット 少年ジェット 進めジェット 少年ジェット エービーシー!」
「エービーシーじゃないよ、ジェーイーティー」と克雄がたしなめるが、そんなこと皆はお構いなしである。
主題歌に続いて、ジェットとシェーンが河辺で穏やかにくつろいでいるシーンが映し出される。
そこに冒頭ナレーションが入る。
正治たちも声を揃えてお馴染みのセリフを唱える。
「明るく元気で正しい心。少年ジェットこそまことの少年の姿である。いかなる困難・危険も越えて、少年ジェットは今日もゆく!」
再び克雄が「まことの少年がオートバイ乗ってピストル撃ちまくるかよ」と一言。
みんながゲラゲラと笑う。今度は無視されなかったので、克雄も満足そうだ。
[昭和34年1月、当時手塚治虫と並んで人気の高かった武内つなよしの原作で少年漫画雑誌に連載が始まった『少年ジェット』は、SF的な背景の少年探偵ストーリーで、瞬く間に全国の漫画少年の間で大評判となり、同じ年の3月からテレビ放送が始まった。この年の間に日本のテレビの普及率は一気に20パーセントを越え、少年ジェットはまさに日本のテレビ普及期の象徴的ヒーローとして、日本中の少年たちの心に深く刻まれることとなる…]
少年ジェットが終ると、皆は早々に帰っていった。
正治はいつものように隣の子供部屋に布団を敷き、入浴を済ませ、漫画雑誌を持って寝床に入る。私立中学に通う兄の克雄は、まだ勉強が残っているようだ。
読み慣れた漫画を数頁も辿ると、もう眠気が襲ってくる。ウトウトした意識の中で、宿題のことを思い出した。
『ああ…明日のグリグリは痛いだろうなあ…』