双葉荘 2
二、出会い
暫く曇天や雨天が続いていたので心配したが、『双葉荘』への入居当日、横浜の空は朝から晴れ渡っていた。3月の年度末時期を控えて、私も美江も仕事が立て込んでおり、週末はほぼ塞がっていたので、初旬の平日に二人合わせて休みを取った。ほんの一駅の距離だ。運送屋の手伝いを借りて荷物の運び込みも午前中にはほぼ片付いた。
美江と二人駅前で昼食を済ませると、まずは挨拶に隣を訪ねる…扉横の呼び鈴を押すと、30そこそこといった、我々と同年代、セーターと長めの緑のスカート姿の女性が扉を開けた。
「あ、どうも。朝から騒がしくて申し訳ありませんでした。今日隣に越してきました川村と申します。どうぞよろしくお願いします。これ、あの、つまらないものですが、ご挨拶代わりに…」そう言って用意した菓子折りを手渡すと、彼女は親しげに笑顔を浮かべた。
「まあ、わざわざご丁寧に…こちらこそ宜しくお願いします。暫くお隣空いてましたから、これでちょっと安心です。うちは一人が多いんで…」少し地方訛りが窺えたが、明朗で人付き合いの良さそうな女性だ。
「え?そうなんですか?ご主人のお帰りがいつも遅いとか?」
「いえ、主人は勤めが遠くなんです。ここにはたまにしか戻って来ませんので…」
そう言えば、寺田夫妻を訪ねた折には、隣人の話は一切聞いていなかった。
「うちも共働きですから、日中は二人とも居ませんけど、夜は二人とも帰って来てますから、何かご不便があったら、何でも仰ってください」美江が申し出ると、彼女は屈託なく目を輝かせる。
「まあ、嬉しい。あるんですよ、そういうこと。あたし、凄くうっかりだから…ご迷惑掛けるかも知れませんけど、嫌いにならないで下さいね…ふふ…あら、ご免なさい。お引き止めしちゃって。お片付けとか大変なんでしょ?また、ゆっくりお話して下さいね。あの、あたし、沙季、八井沙季っていいます…」
「あ、私は美江です」
「夫の正治です。よろしくお願いします…」
その後、近隣数軒に挨拶を終え、最後に寺田家を訪ねた。寺田夫婦は待ち兼ねていた様子だった。
「朝方からお荷物お入れになるって聞いてましたから、午前中にはいらっしゃると思ってましたのよ。お昼お召し上がりになって?」玄関に立った夫人は明らかに気分を害している様子だった。
「はい、合間を見て駅前の方で済ませました。ご近所にも一応挨拶しておりまして…これ、ほんのご挨拶代わりですが…」最後の菓子折りを差し出す…
「まあ、そんなことはうちでやりましたのに…」夫人はそういいながらも、差し出された菓子折りを受け取った。
「まあまあ、ちょっと上がっていきなさい…」寺田氏の口調は前回以上に上からの口調だった。
「いえ、まだ片付けが残ってますから…」
「そう?ご一服されていったらいいのに…じゃあ、あなた?」
「ああ、そうだな。ちょっと待ってて下さい」主人はそう言って一旦奥に入り、小さな手帳と封筒を持って戻ってきた。
「今月の前家賃は不動産屋の方から受け取ってますから、次回からはこの封筒に入れてお持ち下さい。あ、くれぐれもお釣りのないように。で、これは領収書代わりの記録帳です。3月分はもう領収印を捺してありますから。今月末からは家賃をお届けにいらっしゃった折に領収印を捺させて頂きます」と、寺田氏は封筒と手帳を私に手渡した。
「あの…不動産屋さんからは振込と伺っていましたけど…」
「あら、そんなことは契約書には書いてませんよ。それに、お宅は直ぐ近くなんですから、銀行や郵便局に行くより便利なんじゃないかしら」
「まあ、月に一度くらいは顔を見せなさい。そしたらお互いの様子も分かるでしょう」
「はあ…」
何とも嫌な気分だったが、もう引っ越してしまったのだからどうしようもない。まあ月に一度の付き合いと限定されたのだ。それ以上の付き合いをしなければいい。そう考えて納得することにした。
午後一杯を掛けて何とか二人が生活できる程度には片付けが終わった。外はもう陽が暮れ掛かっている。今日のところは夕食も外食にしようと相談していると、呼び鈴が鳴った。
「やだ、大家さんじゃないでしょうねえ…あの人たちの顔見るの嫌だわ、あたし…」美江がそう呟きながら、玄関の扉を開けると、隣の沙季さんが盆を持って立っていた。盆の上には筑前煮を入れた器と皿の上に大きめの握り飯が幾つかと漬物が乗っている。
「あのお、お片付け一段落したら、召し上がらないかなって思って…きっとご飯作ってる時間もないんじゃないかなって…ちょっと、出しゃばっちゃいました?」
「わあ!嬉しい!今ちょうど片付け終わって、もうこんな時間だからどっか外に食べに行こうかって相談してたとこだったんですよ」
「お、旨そうですねえ…腹減ってたんですよ…いいんですか?本当に…」
「ええ、どうぞ。良かったわ…何だかかえって御迷惑だったらって…ちょっと心配だったんだけど…」
「とんでもない。助かるわあ。ね、沙季さんは?もう召し上がったの?」盆を受け取った美江が訊ねた。
「あたしの分はうちの方にとってあるから。それはお二人で召し上がって下さい。お口に合うかどうか…あたし、田舎育ちだから…」
「じゃあ、良かったら、ここで一緒に食べません?」
「そう、そうしましょうよ。ね、良かったら…ほら、ようやく片付いたし、お茶くらい入れますから。なあ?」
「そうしましょうよ。あたしたちもきょうはこれでお仕舞いにしようって思ってますから…」
「そう?…ふふ…じゃ、そうしようかな…」沙季は嬉しそうに微笑んだ。
隣人、八井沙季は不思議な女性だ。地方出身だからだろうか、オフホワイトのブラウス、セーターの色合い、少しフレアのついたスカート…着ているものも髪形もどこか一時代前の香りがする。言ってみればレトロな雰囲気の女性だ。
少し小柄で、細くもなければ太くもない。人目を引くような美人ではないが、愛らしいという表現がぴったりだ。屈託なく笑う時の口元のえくぼが何とも言えない愛らしさを強調する。決して若作りではないので、三十代の女性の落ち着きや小皺や物腰もきちんと同居していたが、多分十代の頃はアイドル的な可愛らしい存在だったと察することができる。
出で立ちや物腰もそうだが、彼女の性格や興味も浮世離れしている。現実的で具体的な話題にはあまり興味がないようだ。この界隈の野良猫がどんなに面白いか、夏の暑い日の夕刻の海風の独特の香り、色彩の取り合わせや、どんな音色が好きかなど…
食事をしながら2時間余り様々な話をしたが、彼女がいつ頃からここに住み、どのように寺田夫妻や近所の人々と付き合っているのか、どんな店で買い物をしているのか、ここで暮らすに当たって、どんなことに気を払っているのか…何一つ聞いていないことに気が付いたのは、彼女が引き揚げて暫く経ってからだった。
「面白い人ね…沙季さん」二階の四畳半に置かれたベッドの上で美江が呟いた。
「不思議な人だね…旦那さんってどんな人なんだろうな?」
「さあ…少し年上だって言ってたけど…」
「どんな仕事してるのかとか、次はいつ頃戻ってくるとか、どんな人だとか…何にも言ってなかったな…」
「あたし、ああいう人好きよ。人の噂とか批判とか全然興味なさそうだし…良かったわ、面白い人がお隣で…」
美江はそう呟くと、疲れたのだろうか安心したように眠りに落ちたようだった…
こうして私たち2人の『双葉荘』での新生活が始まった。ここでの生活は、前のマンションの環境と比べれば、まさに天国だ。
朝、カーテンを開けると窓から溢れるように差し込む陽光、窓を開ければ周囲の木立を揺らしながら爽やかな風が部屋を吹き抜ける。もちろん洗濯物もベランダで直ぐに乾く。横浜港を遥か遠くに臨んでの夕景も美しい。夜が更ければ徘徊する野良猫の足音が聞こえるほど周囲は静かだ。
天気の良い休日には丘の上の広い百葉公園を散歩する。百葉の商店街はどの店も安価で食材も豊富だ。2人で居ても楽しいし、1人の時も飽きることがない。心配していた寺田夫妻からの干渉も殆どない。というか、彼らは何故か決してこの双葉荘には近付こうとしていない様子だ。若年の我々に遠慮しているのだろうか。
隣の沙季さんとの付き合いも良好だ。とは言え、彼女と頻繁に顔を合わせることはない。せいぜい週に一度くらいの頻度で立ち話をしたり、挨拶を交わしたり、初日の時の様にお菓子や総菜を持って我が家に訪ねてくることもある。普段は一体何をしているのか、壁一枚を隔てていても殆ど物音を聞く事はない。静か過ぎてこちらが心配になってしまう程だ。
いつだったか、夜、隣から男女の会話が聞こえたような気がした。きっと久々に御主人が戻ったのだろうと思って、会えることを楽しみにしていたが、そのまま我々と顔を合わせることなく、勤務のある地方に戻ってしまったようだった。
次に彼女が我が家を訪れた時、折角戻られたのだったら、挨拶をしたかったと訴えたところ、「あの人、人見知りだから…ごめんなさい…」と、詳しい事情には触れて欲しくなさそうだった。何か特別な事情があるのかも知れないと、それ以降は御主人の話にはなるべく触れないように心掛けた。
『双葉荘』での快適な生活はあっという間に3カ月が過ぎた。次第に私は家にいる時間が多くなった。この頃は、舞台監督として会社での立場も確立し、本番やリハーサル以外では比較的自由に時間が使えるようになっていたからだ。香盤表作りやシナリオのまとめなど、自宅でできる仕事は自宅に持ち込んでするようになった。それほどこの双葉荘が気に入っていたのだ。
一方、美江は目に見えて仕事が多忙になっている様子だ。雑誌の売れ行きがこのところ好調らしく、キャリアからも責任の重い記事ページを担当させられるようになったらしい。朝早くから泊まりがけで取材に出ることも増えたし、隔週の発行日前には編集作業は深夜までとなり、会社に着替を持ち込んで泊まり込みとなることも珍しくなくなった。
そろそろ梅雨に入ろうという時期。双葉荘の周囲の緑は日に日に深くなり、窓から入る風にも湿度を感じるようになった。いつものように出勤前の美江と軽い朝食を済ませる…
「あなた、今日は?」
「昼間は家にいる。次の舞台のシナリオまとめて、夕方までに印刷屋に入稿しなきゃなんないからな…それから会社に顔出して、何にもなきゃそのまま帰ってくるかな…君は?」
「今日は遅くなるわ。12頁分仕上げなきゃなんないから」
「帰れるの?」
「そのつもりだけど、終電に間に合わなかったら、泊まりになっちゃうなあ。ま、その時は電話するけど…」
「そう、昨夜も遅かったろ?大丈夫?」
「うん。大丈夫。明日で一段落だから。そしたらすこしお休み取るわ」
「そっか…ここんとこずっと休んでなかったもんな」
「うん。もう少しだから、頑張る…」
いつものように美江を送り出し、食器を洗い、ゴミをまとめて外のゴミ置き場に運んだ。
『さて、じゃ、俺も頑張るか…』と、作業机が置かれた二階の六畳間に向かおうとトイレ脇の階段を上がる…細い階段は直ぐに右に90度曲がり、そのまま二階脇の廊下に続いている。階段を昇り始め右に曲がると、急に人の気配を感じた…
思わず顔を上げた…足が止まった。上から誰かが下りてくるのだ。今この家には私しかいないはずだ…二階から下りてきたのは男性だ。カーキ色の作業ズボンに近頃見ない白い開襟シャツを着ている。髪は七三に分けられているが、裾をやけに短く刈上げている。まるで昭和30年代から抜け出したような出で立ちだ。背は私より少し高い感じだから、多分170センチちょっとだろう。痩せ型で丸い古めかしい眼鏡を掛けている。
手には何本もの筆を持ち、その筆先を汚れた手で確認するように触りながら階段をおりてくる…全く前を見ていない。このままでは私とぶつかってしまう!
状況が理解できず、呆然と立ち尽くす私の寸前で、男は一瞬立ち止まり、筆から私の方に顔を上げた。男の表情がはっとした驚きに変わった。明らかに私に気が付き、私を見ているのだ…
彼は口を開けて何か声を発しているようだが、全く何も聞こえない。そして、気が付いた…彼は実体ではないのだ…半透明だ…見慣れた階段の風景が彼の身体を透過して向こう側にうっすら見えている…
これは幻影だ…何故こうもリアルな幻影が目の当たりに見えるのか分からないが、幻影であることには違いない。私は恐る恐る再びゆっくりと階段を昇り始めた。彼もまた、恐る恐るゆっくりと階段を降り始める…
そして…すれ違った…いや、私は彼の身体を、彼は私の体を通り抜けたのだ!…
さらに2、3歩進みお互いがそっと振り返る。今は私は階段の上、彼は階段の下だ。見つめ合ったまま彼の存在はゆっくりと空間の中に溶け込むように消えていった…
一体何だったのだろう?…作業机の上に原稿を広げたものの、ついさっき目の当たりにした不可思議な現象のことが頭から離れなかった。私は幽霊を見たのだろうか?…あれが幽霊というものなのだろうか?…寒気も感じなければ、何の恐怖も感じなかった。恨まれたり取り憑かれたり…そんな気配は微塵もない。
待てよ…もし、私が見たのが幽霊なら、彼が見た私は一体何なのだ?…私は私だ…私は幽霊ではない。それなら、きっと彼もまた幽霊ではないはずだ。もし幽霊でないなら、彼はきっと何処か別の次元に存在する実体なのではないか…あれは何か意味のある出会いなのだ…そう考えると、何故か自分自身を納得させることができた。
いずれにしろ何とも不思議な体験だ。もしかすると、いつかまたもう一度彼と会えるかも知れない…そう思ったが、それどころか実はこれはほんの始まりに過ぎなかった…
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