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父の残像 10

たった1つの座席…


祖母の葬儀後、兄が祖母の部屋に移ったので、子供部屋は私だけの部屋となっていた。
やけに広々としてしまった部屋には親戚から貰った見覚えのある古い木製のベッドが置かれている。

『ベッドはいいよな…やっぱ…布団の上げ下ろししなくていいし…』
嬉しそうに報告する子供の私の意識の傍らで、『私』は何故自分が時空から乖離し、そしてまた再びここに戻ってきたのか、その理由に想いを巡らせていた。

子供の私は『私』が戻ってきたことが余程嬉しいのか、学校のこと、友人のこと、勉強のこと、家族のこと、この2ヶ月間に自分に起こった数々の変化について矢継ぎ早に様々な感情を投げ掛けてきた。久しぶりに再開した子供に接する保護者のように、それらに応えようと意識を近づけようとした時、再びあの乖離状態が蘇ってきた。

視覚がカクカクと揺れ始め、棚の上の目覚まし時計に目を移すと、秒針のスピードが不規則に変化し始めている。
慌てて子供の私から意識を遠ざけると、症状はすぐに治まった。
そういえば、学校で『私』の意識が戻り、帰宅するまでの間にも何か漠然とした浮遊感が拭いきれていなかったのだ。何度か子供の意識と交流しようとしたが、やはり同じ症状が起きる。

子供の私は、試行錯誤を繰り返しながら何とか安定したポジションを探ろうとする『私』の様子を感じて、『私』との交流に躊躇し始めていたが、それでもすぐ傍に『私』が戻ってきたことに安心している様子だった。交流を持たなくても『私』の存在自体は感じられるようだ。

2人きり…いや、1人きりで暫くいると、何とかコツが掴めるようになってきた。

『私』はある程度の距離を保っていても、子供の私の意識の流れを感じることは出来るが、その時、子供の私は『私』の存在は感じることは出来ても『私』の意識や意思や感情を読み取ることができない。もちろん、『私』が距離を縮めて近づけば、お互い意識の交流は出来るようになるのだが、そうなると『私』の意識を時空に定着させることが難しくなり、本来ここにいる筈でない『私』が時空の外側に弾き出されてしまうのだ。

逆に、子供の私が意識の座席を完全に『私』に譲っている時なら、子供の私は距離があっても『私』の意識や感情を感じることが出来るようだ。
しかしこの場合は問題がある。子供の私は意識の座席との距離の取り方や、乗り降りがあまり自在には出来ないのだ。どうすれば良いのか上手く距離が測れず、うっかり『私』のいる座席に近付いてきてしまうこともある。そんな時に弾き出されてしまうのは『私』の方なのだ。

これに慣れるのには時間が掛かった。何度も2人で試し合い、子供の私に出来ることと出来ないこと、何が自由で何が不自由なのか、詳細に把握させる必要があった。


まだ夕食には早い夕刻、珍しく父が襖を開けて私の部屋に入ってきた。
「おう」

座席は子供の私だった。
「あ、おとうさん…どうしたの?随分早いね」
「ああ、久しぶりに仕事が一段落してな…明日から5日まで休むことにした」
「本当?じゃ、明日から家に居られるの?」
「おう、万博の後、ずっと休んでなかったからな。久し振りの休みだ。少しのんびりしようと思ってな。磯田(いそだ)さんも少し休ませてあげないとだし…」
磯田さんとは、この4月から父についている運転手だ。大柄な愛想の良い優しい人で、私たち家族にも瞬く間に溶け込んでいた。

「やった!カッちゃんももうすぐ帰ってくるよ」
「ああ、展覧会の準備で忙しいんだってな」
「そうだよ。ここんとこずっと放課後は美術室で絵を描いてるんだって」
「お前の方はどうだ?次の日曜とか、5日の日は学校休みだろ?何か予定あんのか?」
「別に…僕は何にもないけど…」
「そうか…じゃ、久し振りに、みんなでどっか旨いもんでも食いに行くか」
「いいなあ。賛成!いつ?日曜日?」
「ま、カッちゃんが帰ってきたらみんなで決めよう」
「分かった」
「それより…お前…最近はどうだ?」
「どうって?」
どうやら父は『私』のことを気にしているようだ。
すぐに座席を譲って欲しかったが、子供の私は父の久々の休暇への嬉しさで、それに気付いていないようだ。

「いや…別に、いいんだ。学校から帰って来てから、ずっと部屋に篭ってるって聞いたからさ…」
「ああ…えと…少し学校の勉強があったから…あ、そうか…あの、少し待っててくれたら…」
「いや、いい、いい。もうすぐ夕食だしな。じゃな」
そう言い残して、父は部屋を出ていってしまった。

『しまった…チャンスだったんだ…お父さん、大人の僕と話したかったんだ…折角戻ってきてくれて、お父さんと2人きりだったのに…そうだ、呼び出さなきゃ…』
動揺は激しく、なかなか座席は空かなかったが、 10分ほど待っていると、ようやく座席に着くことが出来た。

『急だったんだから。仕方ないさ』席に着くとすぐに『私』は私を慰めた。
『お父さんがこんな時間に帰って来るなんて、部屋に入って来るんだってめったにないし…嬉しくって、全然気が付かなかった…俺…駄目だなあ』
『きっとまたチャンスがあるさ。5日まで家にいるって言ってたから、どっかでまた2人きりになった時は、ちゃんと話したいことが結構あるな…』
『頑張ろう…』
『とり合えず俺は引っ込もうかな…』


久し振りに賑やかな食卓だった。父も母も兄もめったにない一家団欒に嬉しそうだ。
「ねえ、明日はどうすんの?お父さん…」
「え?明日はお前、学校だろ?」
「うん。そうだけど…土曜日だもん、お昼には終わるよ」
「カッちゃんは?」
「僕は放課後、美術部だな。もうすぐ展覧会だしさ」
「展覧会はいつなんだ?」
「9日と10日の土日。お父さん来られる?」
「おう、来週の土日だったら、出張もないし、時間空けて必ず観に行くから、頑張れよ。どうなんだよ、調子は…」
「うん。静物の方はもう完成してるんだけど…自由課題の方がちょっとね、難航してる」
「そうか。絵はよ、受けようと思って描いちゃ駄目だぞ。自分の好きな絵を描きゃいいんだからな。賞なんて狙うなよ」
「分かってるよ。でもそれが一番難しいんだよなあ…なんか、しっくり来なくてさあ…」
「あはは…そうか、そこまで来りゃあ大したもんだ。楽しみだな。絶対観に行くぞ」
「ひゃあ、プレッシャー!」
「お前は、どうよ?最近ギターの調子は…」
「ああ…あんまり触ってないかな…」
「なんだよ…勿体ねえなあ…あんだけ弾ける10歳はいねえぞ。折角の才能なんだから無駄にするなよ」
「うん、分かった…」
「私は明日はお買い物に付き合って欲しいわ。日曜日は混むでしょ?」
「そうか。分かった。じゃ、そうするか…日曜はカッちゃんは大丈夫なのか?」
「日曜はキャンバス家に持って帰ってやるつもりだから、大丈夫だよ」
「よし、じゃ、日曜の晩飯、皆で旨いもんでもどっか食いに行くか?」
「やったあ!いいよ!」
「何処がいいかな?何が食いたい?」
「私は外で食べられるんだったら何でもいいわよ。お夕食の支度しなくていいだけで幸せ!」
「俺、ステーキがいいな。ちゃんとしたやつだよ」
「僕も!僕も!」
「よし!じゃあ、予約取っとくか…日曜は皆で銀座のステーキハウスだ」
「やったあ!」

記憶にある懐かしい光景だ。『私』の子供時代、最も輝かしい一頁だったかも知れない。我が家が最も裕福で、我が家に最も活気があったあの頃の象徴的なワンシーンだ。もちろん『私』は傍観者に甘んじなければならなかったが、家族全員が幸福感で結ばれたこの瞬間を実像で再び見ることができて、胸が熱かった。


翌日、学校の帰り道、ヤスオは懸命に私に話しかけ続けていた。
「じゃあさ、大人のお前はどこにも消えてないんだよな」
「うん…でも…この間の時とはちょっと違うんだよ」
「でもよ、時々は入れ替われるんだろ?」
「まあ…俺が上手く出来ればなんだけどね…」
「俺、もう一度大人のお前と話したいな。今日とかさ、遊びに行っちゃ駄目なの?」
「うーん…お父さんとお母さんは買い物に行くって言ってたし、いいんだけど…俺ももっとちゃんと話したいしな…帰ったら相談してみるよ」
「今、出来ないの?」
「ぱっとは難しいんだよねえ…俺だって、前みたいにいろいろ話すのは結構難しいんだよ。後でさ、電話するから。ね」
「じゃあ、待ってるからな。絶対電話してくれよ」
「分かった…じゃあね…後でね…」


帰宅すると、父と母が外出の準備をしていた。
「あら、コウちゃんお帰りなさい。丁度よかったわ、お父さんとちょっと銀座まで買い物に行ってくるからね。お留守番お願いね。お台所にチャーハン作ってあるから、あなたのお昼ご飯。自分でよそって食べておいてくれる?」
「分かった…」
「何か旨いもん買って来てやるからな。楽しみにしてろよ」
「うん…分かった」

父と母はそそくさと出掛けて行った。

早速台所に行ってチャーハンを頬張った。子供の私はチャーハンを食べながら、途中で何故か突然座席を空けてくれた。
『旨いな、お母さんのチャーハン…』
『よかった!入れ替われた…ご飯食べてたら、何だか気分が落ち着いてきて…そうだ、ヤスオのこと…どうしよう…』
『ヤスオとは話してもいいな。いろいろ心配したんだろうし…』
『お父さん…大丈夫そうだよな。元気そうだし…』
『元気に見えるけど、俺に何か話したそうだったな…ちょっと気になるなあ…』
『今日はしばらく、こうしていようかな…』
『ヤスオと話するまでは、こうしてて貰おうかな』
『こうやってれば、また消えていなくなっちゃうことはないんだよな』
『今のところは…こうしてれば何とか大丈夫そうだな。でも…状態は変化するみたいだからな。この先は…どうなるか…』
『とり合えず…しばらく僕はここにこうしてよう…』

第11話につづく…

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