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父の残像 22

宴のあとに…


7月9日、日曜日…昨夜から、久し振りに父が帰宅している…

昨夜、父は洋間でずっと兄と話をしていた。母としずさんは食堂で今日の小さなイベントの準備について話合っていた。私はその傍らに座り、黙って2人の話を聴いていた…
我が家に家族が全員揃っている…私はそれだけで幸せな気分に浸ることが出来た。

今日は昼から我が家で小さな昼食会が開かれる、我々家族4人と磯田さん夫婦、父の親友のミジンコこと三橋さん夫妻、そしてしずさん、久し振りに賑やかな宴席になると、みんな楽しみにしている。
今日集まるのは父の病状を知っている人ばかりなので、父も余計な気を遣わなくてもいいと安心している。

父は会う度に痩せてゆく…いつも着ていた洋服が、まるで借り物の服のようにだぶついている。
だが、父はいつになく元気そうで、父らしい冗談を言っては笑顔を振撒いてくれていた。
母としずさんが朝から台所で料理の支度に勤しんでいる間、私は父と兄にギターを聴かせた。父が大好きだったスタンダード曲『We’ll be togaether again』を弾いた…密かに練習しておいたのだ。
父は嬉しそうに目を閉じて聴き入っていたが、やがて歌詞を口ずさみ始めたので私は伴奏に回った…多少声はかすれていたが、喉は健在だった…

父は歌い終わると、「おい、コウちゃん、お前また一段と上手くなったなあ…そうだ、そのギターお前にやるよ。いいギターだからな、ずっと大事に弾いてくれよ」
「本当?本当に…いいの?」
「ああ…ちょっと早いけど、誕生日プレゼントだ。お前が弾いてくれりゃ、そのギターも嬉しいだろう…大事にしてくれよ。頼むぞ」
「分かった…」
「良かったな、コウちゃん。俺もお父さんの絵の道具、全部貰っちゃったんだ」兄も嬉しそうだった。
「カッちゃんには油絵、コウちゃんにはギター。息子2人で丁度半分こだな。いやあ、めでたしめでたし…ははは…」父は満足そうに微笑んだ…


昼からの宴席で、久し振りに我が家に賑やかさが戻った。
磯田さん夫婦は、事情を知っているだけに初めはどういう態度でいればいいものか緊張した面持ちで席に着いたが、父としずさんと三橋さんが創り上げる屈託のない陽気な雰囲気にいつの間にか呑み込まれ、我が家は絶え間ない笑い声と笑顔に包まれていった…

最後に父に「おい、コウちゃん、ギター持ってこい。さっきの弾ってくれよ」と頼まれた。
私は父のギターで再び『We’ll be togaether again』を弾き始める…やがて父が歌い始める…
「No tears, no fears…
Remember there's always tomorrow……」

父が歌い終わると、しずさんが「あたしゃ、英語はさっぱりですけど…奇麗な歌ですねえ…きっといい歌なんでしょうねえ…」と涙を拭いながら呟いた。

夕刻前に宴席は終わり、客が引き揚げると、父は少し疲れたからと言って、寝室で休んだ。


「コウちゃん、女の子から電話だよ」しずさんが部屋の外から私を呼んだ。

電話に出ると、真弓だった。
「ああ、真弓ちゃん…久し振り、どしたの?」
「川瀬くん、ヤスオがね、ヤスオの様子がちょっと変なの…」真弓は狼狽えていた。
「変って、どういうこと?…」

最近この地域から引っ越してしまった真弓は、その後の我が家の動向を心配して、度々ヤスオと電話で連絡を取り合ってくれていた。
今日もいつものように電話を掛けてみると、ヤスオは1人で留守番らしかった。
元気がないので訊ねてみると、朝から腹痛と発熱が続いていると言う。
午後になっても熱は下らず、昼に食べたものももどしてしまったそうだ。
電話で話していても、時折腹痛で会話が途切れてしまう。本人は「寝てりゃ治る」と言っていたが、どうしても心配で、思い余って私に電話を掛けたということだった。

「川瀬くん…あの、大人の川瀬くんが戻ってきたって、ヤスオ、言ってたから、大人に相談するとしたら、川瀬くんかなって思って…」
「分かった。それじゃ、俺ちょっと見に行ってくるよ」
「大人の川瀬くんにも行ってもらってね」
「分かった分かった…様子が分かったら連絡するから…じゃね」


私はすぐにヤスオの家に向かった。玄関の鍵は掛かっていなかったので、ドアを開け声を掛けた。「ヤッちゃーんっ!ヤスオー!」

階段の上からヤスオが苦しそうな様子で顔を出した。
「ああ…コウちゃん…どしたの…?」
「どうしたの、じゃねえよ…さっき真弓ちゃんが心配してうちに電話してきたんだよ。ちょっと待ってて、今上がるから…」
私は2階の階段脇にあるヤスオの部屋に上がった。
ヤスオは体をくの字に曲げて、痛みを堪《こら》えている様子だった。

「おい、大丈夫?ヤッちゃん…」
「あいてて…大丈夫大丈夫…寝てりゃあ、その内治るよ」
「だって、熱もあるんだろう?ちょっと変だよ、それ…あ、大人の俺が診てみるって…この間のやつ…ほら、診て貰おうよ。悪いとこ、分かるかも知れない…はい、ほら、手え貸して…」

『私』は前回と同じようにヤスオの心に近付いていった…相当な痛みを堪えているのか、心全体の形は大きくうねりながら変化を繰り返している…
内側に入り込んで全体を見回してみる…浮遊する沢山の発光体…その中の一部が発光を弱め、褐色に色褪せてきているのが分かる…
『私』はその場所に向かって慎重に移動して行く…
内蔵…腹部…下腹部…弱まっている発光体群のほぼ中心に一際黒ずみ歪んだ球体がある…
その状態が周囲の球体にも急速に影響を及ぼしつつあるのが分かる…近付いてみる…これは…腸だ…小腸と大腸の境…
『あ、盲腸だ!』
『私』は急いでヤスオの心を離れ、私の心の中に戻ると、大急ぎで座席を空けて貰った。

「やばい、ヤッちゃん…これ、虫垂炎だぞ…」
「ちゅうすい…なに?…それ…」ヤスオは苦しそうに痛みを堪えて訊ねた。
「盲腸だよ!盲腸炎!すぐに病院行かなきゃあ…ねえ、お父さんとお母さん、どこに行ってるの?いつ帰るの?」
「…うう…何処行ったか…知らない…和さんと3人で、横浜の方…現場だって…遅くなるから…晩ご飯、置いてった…一人で食べとけって…いてて…」
和さんとは住み込みで働いている工務店の従業員だ。
まだ4時半…どうやら両親の帰宅を待っている余裕はなさそうだ…

「ヤッちゃん、ちょっと電話借りるよ」『私』はそう言うとすぐに階下の電話から119番通報で救急車を呼び、隣の乾物屋の夫婦に事情を話して立会いを頼んだ。

ストレッチャーに乗せられ救急車に運ばれるヤスオが力なく『私』に話し掛けた。
「コウちゃん…俺、どうなるの…?」
「大丈夫だよ。隣のおばさんが一緒に行ってくれるから。盲腸なんて大した病気じゃないから、すぐに治っちゃうよ」

救急車を見送り、何とか事を収めた『私』は、後のことを隣の御主人に任せ、何事もなかったかのように帰宅した…
少し不自然とは思ったが、折角の父との団欒を乱されたくなかったので、この一件は敢えて家族には報告せず、真弓にだけ電話で経緯を伝えておいた。


父は翌日早朝に磯田さんの車で病院に戻った。
「コウちゃん…また一人でこっそり来てくれ…」車まで見送りに出た私の耳元に、父は周囲に聞かれないようにそっと囁いた…
父には伝えていなかったが、どうやら『私』が戻っていることに気付いたようだった…

「じゃ、あたしも行ってくるわね。お夕飯までには戻るから…野村さん、宜しくお願いします」
「はいはい、お夕飯の用意もしておきますから、奥さん、ゆっくり御主人に付いててあげて下さい。旦那さんもお大事に…また来週も待ってますからね」


父を見送り、兄と食堂で朝食を摂っていると、玄関に来訪者の対応に出ていたしずさんが私を呼びに来た。
「コウちゃん、康夫くんのお母さんが来てるよ。あんた昨日康夫くんのこと助けたんだって?ほら、玄関でお礼が言いたいって待ってるから…」

ヤスオの母親が笑顔で玄関に立っていた。
「コウちゃん、有り難うねえ!助かったわあ…昨夜帰ってきたら、お隣の旦那さんからすぐ病院に行けって言われて、もう本当にびっくりしちゃって…」
「ヤッちゃん、どう?」
「あたしたちが病院に駆け付けたら、すぐに手術しなきゃ駄目だって言うのよ。ほら、救急病院…環七(かんなな)の向こうの…あの馬鹿、2日前から我慢して隠してたんですって。病院嫌いだからさ、あの子…手術は上手くいったんだけど、もう少し遅かったら面倒なことになるとこだったって、お医者さんから怒られちゃったわよ」
「そうか、大丈夫だとは思ったんだけど…」
「それで、昨夜は入院の支度とかいろいろあって、夜中までドタバタしてて…で、後でお隣の奥さんに聞いたらさ、救急車呼んでお隣に知らせたの康夫の友達だって言うじゃない。感心してたわよお…多分盲腸炎だから救急車呼んだって、留守で大人が誰もいないから立ち会ってくれって、コウちゃんが頼んでくれたんだって?あんた、でも…どうして盲腸だって分かったの?」
「あ、ああ…あの…前にテレビでやってたから…」
「もう…おばさん一生コウちゃんに頭上がんないわよ。お母様、お父様の病院にいらっしゃってるんだって?コウちゃん家だって、いろいろ大変なのに…」
「昨日、真弓から電話があったんだよ。ヤッちゃんの様子が変だから見に行ってくれって…」
「真弓ちゃんって、小学校で一緒だった辻谷さん?」
「そう」
「それで来てくれたのね。じゃ、辻谷さんの方にもお礼言わなきゃだわねえ…ま、本当に助かったわ。あの馬鹿、友達には恵まれてんだねえ…あ、あたし病院に行かなきゃ…また、落ち着いたらゆっくりお礼に伺うからって、お母様にも宜しく言っといてね」
「はい…」


真弓と待ち合わせて、ヤスオの病室を訪ねたのは、それから3日後だった…


第23話につづく…

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