双葉荘 8
八、別離
その後、私が双葉荘に留まったのは僅かに10日間。電気、水道、ガス、電話の解約、さらに家具の引き揚げもある。美江と話し合い、お互い暫くはそれぞれの実家に身を寄せることにしたのだ。
この1年、2人の関係をどう進めていったらいいのか、お互い探り合いの状態が続いていたので、ちょうど良い機会だった。暫く別々に暮らし、良く考えた上で2人の次のステップを見出そうということになったのだ。
外見上は仲の良い2人なので、周囲は驚いたようだったが、2人とも納得した上での結論だ。幸い、知り合いが経営する舞台美術の倉庫会社が、それぞれ実家に持ち帰るには大き過ぎる家具を全て預かってくれることとなった。
倉田との交信の機会はその後も、訪れる気配はない。時折荷物を取りに来る美江が、私にこう言った…
「ねえ、倉田さん、もう現われないんじゃない?」
「え?何で?」
「あたし、ちょっと考えたんだけど…あれって、あたしたちにあの日のことを知らせたかったんじゃないかなって…」
「誰が?…倉田さん?…」
「そうかもしれないし、殺された奥さんなのかもしれないし、もしかしたら…神様?…何か、警告みたいな…早く此処から出なさいって…頑張ってあたし達に知らせてくれたような、そんな気がするんだけど…違うかなあ…だから、向こうのことはもう見えないのかも…」
「そうか…倉田さん、全然出て来る気配ないもんなあ…そうかも知れない…」
『双葉荘』の解約は、全てを引き払う日の前日とした。寺田にとっては寝耳に水だ。美江からはこれ以上関わるなと釘を刺されていたが、どうしても最後に一言言ってやりたかった。それ程倉田には親近感を持っていたのだ。過去の他人事で済ませる気持ちには、とてもなれなかった。
上着の内ポケットに小型のカセットレコーダーを忍ばせ、寺田家のインターホンを押す前にスイッチを入れておいた。
「こんにちわ。川村です」
『ああ、川村さん、どうぞ…』
セーターにスラックス姿の寺田が扉を開いた…
「今日は冷えるねえ…ま、応接の方にどうぞ。今、家内は出掛けてるんだけど…」
「どうも、お邪魔します」
応接セットに座り、寺田と向かい合うと、その平然とした横柄な態度に再び怒りが込み上げてきたが、何とか呑み込んだ。
「で?…今日は何なの?」
「あの…これをお渡しに…」私はそう言って、手に持った手帳と封筒を手渡した。
「ああ…今月は随分早いんだねえ…仕事の都合かなんか?…」寺田はそう言うと、受け取った封筒の中を確認する…中が空なことが理解できないようで、少し首を傾げた。
「あ、来月の家賃は入れてませんよ。明日もう引き払いますんで…」
「え?…川村さん引っ越すの?」
「はい。明日。水道もガスも電気も明日付けで解約しますから…」
「いやあ…明日って…困るなあ…はは…」寺田は苦笑いを浮かべる…
「もう、全て手配しましたから。いろいろお世話になりました」
「いや、それはちょっと困りますよお。解約の意思表示は2ヵ月前、来月は契約更新でしょ?分かってますよねえ。契約書にもちゃんと書いてあった筈ですよ。更新は成立してるってことですから…私が言ってる意味分かりますよね?」
「そんなことは分かってますよ」
「じゃあ、ねえ、川村さん、ちゃんと社会のルールは守りましょうよ。参ったなあ…」
「社会のルール?…人を殺すのは社会のルールなんですか?…」
この一言で寺田の顔色が変わった…
「人を殺すって…言いました?」
「はい。26年前に双葉荘で、人の奥さん…違います?」
「いや…あ、ああ…あれは…自殺ですよ。自殺されて…」
「この手帳を見せたんですよね。4ヵ月分滞納があって…で、寺田さん、奥さんに迫りましたよね。奥さんは二階に逃げて…抵抗されて、口を塞ごうとして、つい首に手が掛かっちゃったんですよね。ポケットからハンカチを出して、指紋が付かないように引き出しから浴衣の帯を選んで、亡くなった奥さん抱えて鴨居からぶら下げて、わざわざ下から椅子を運んで、卓袱台の上に家賃の手帳を広げて…寺田さん、あれは自殺とは言いませんよ」
寺田は顔面蒼白となって、巨体を震わせ始めた…
「あ、あんた…なんで、そんな細かい事まで…」
「一部始終をね、あなたが玄関から入って、玄関から出ていくまで、ずっと見ていた人がいるんですよ。あなたはてっきり彼女が1人だけだと思ったんでしょうけど」
「あれは…事故、事故だったんだ。殺すつもりなんてなくて…でも一体…誰が?…」
「さあ…それは言えません。私にも教えてくれるんですから、ごく近所の方でしょうね。多分周囲の方は皆さん御存知なんじゃないんですか?あまり騒ぎにしたくないんで、皆さん黙ってらっしゃってるんじゃないですかね?でも、あの家の中で、あなたのあの日の行動を全て見ていた人がいたんです」
「そ、そんな…」寺田はもう、私を直視することができず、俯く額に大量の汗を浮かべていた。
「みんな知ってますよ。もしかすると奥様も御存知なんじゃないですかね?しかし、ひどいなあ、寺田さん…そんな家を、お金を取って人に貸すなんて…せめて入居する時にでも仰ってくれなきゃ。この四畳半で店子の奥さんの首を絞めましたって…僕たち何も知らなかったから、ずっとあそこで寝てたんですよ。ということで、明日引き払います。いいですよね?」
「………」
「いや、もうとっくに時効ですから、誰もとやかくは言わないんじゃないですか?僕も人に言うつもりはありませんから、ご安心下さい。でも、もし、次に同じようなことがこの辺で起きたら…いいですか?一番先に疑われるのは、寺田さん、あなたですからね。折角刑務所に行かずに済んだ人生なんですから、あとは大人しく、余生をお送り下さい。まあ、そんなところです。ここまで申し上げても、まだご不満があるようでしたら、どうぞ請求書をお送り下さい。またお伺いしますんで…では、いいですか?これで、失礼します。どうぞ奥様にもくれぐれも宜しくお伝え下さい」
「………」
寺田はソファで俯いたままで、見送りにも出てこなかった…
最後の夜だった。荷造りのチェックをしていると、呼び鈴が鳴る…扉を開けると、沙季が立っていた。
「あの…夜分にご免なさい…何も言わずに暫く留守にしちゃったから、お詫びにと思って…あら?お引っ越しなの?美江さんは?…」沙季は一階の荷造り状態を見て驚いた様子だった。
「美江は先週、実家の方に戻ったんです。取りあえずここ引き払うんで、僕は荷造りやら何やらで今日までここに残ってたんですけど…良かった、沙季さんと話しておきたかったんですよ。どうぞどうぞ、今コーヒーでも入れますから…」
「じゃあ…ちょっと…失礼します…」
コーヒーを入れながら、沙季にはどこまで話そうかと悩んだが、取りあえず倉田の話から始める…私も美江も、この1年余り、この家で亡霊らしき人影を時々見ることを告げると、意外にも彼女はあまり驚いた様子を見せなかった。
「もしかして…沙季さんもご覧になったことあるんですか?ほら、いつか俺、話したことあるでしょ?こんな男性見たことありませんかって…」
「ええ…実は…あたしも見るんです。時々…でも、川村さんたちが気味悪がるんじゃないかと思って、あまり言わなかったの…」
「そうか…なんか、もしかしてそうなんじゃないかなって思ってました…それでね、いろいろ調べてみたんですよ。そしたら…26年前に、ここ、うちの二階で当時ここに住んでた御夫婦の奥さんが自殺されたらしいんですよ」もちろん、寺田のことには触れなかった。
「………」
余程驚いたのか、それとも既に周知のことだったのか…沙季は暫く何の反応も見せなかった。
「それで、ほら、うちの美江、そういうの嫌いだから。もうここには住めないって…取りあえず、実家の方に戻ったんです。そんなんで急遽ここ引き払うことになって、沙季さんにも早く伝えたかったんだけど、ここんとこお留守だったから…」
「ご免なさい…お友達に旅行に誘われちゃって、急だったんで、何もお知らせしないで出掛けちゃったの…」
「でも、沙季さんも気持ち悪いんじゃないですか?押し付ける訳じゃないんですけど、どこか他に移られた方がいいんじゃないかと…」
「そうねえ…でも、うちは主人がここ気に入ってるから…今度、戻ったら相談してみるわ…大家さんにはお話したの?」
「ええ、今日…そういう事情があったんなら、何故入居前に言ってくれなかったのかって…ま、そんなこと言ったら誰も入居しないでしょうけどね…」
「大家さん、何か言ってました?…」
「何も…大分うろたえてたけど…」
「あたし…あの人、嫌い…」沙季から他人の悪口を聞くのは初めてだった。
「好きな人なんていないんじゃないのかな?…でも、沙季さんとは折角仲良くなれたのに、凄く残念だけど…」
「本当ねえ…あたし、お友達少ないから、残念だわ…明日は美江さん来るのかしら?」
「一応、最後の運び出しだから、朝確認しに来る筈だけど…」
「良かった!じゃあ、美江さんとも会えるわね」
「いや、ほら…美江の実家は隣駅だから…これからだって、ちょいちょい会えますよ。あ、そうだ、美江の実家の方の電話書いときますね。あいつ、沙季さんのこと心配してましたよ」
「そう…ありがたいわあ…」そう言って、沙季は寂しそうに微笑んだ…
「すいません、助かります…はい…えーと、冷蔵庫と洗濯機と洋服ダンスと食器棚、ちょっとでかいけど…どっか邪魔にならないとこにまとめといて頂ければ……はい……ええ、それだけです。あとのものはもう全部実家の方に運んじゃいましたから……運び込みは運送屋さんの方に頼んであります。場所さえ空けといて頂ければ……ええ、1時間半位だって……はい、申し訳ないです。2、3日中には顔出しますんで……はい、ありがとうございます。助かります……ええ、大丈夫です……あはは……わかりました、その内ゆっくり……じゃ、よろしくお願いします」
舞台美術倉庫の社長に連絡を入れ、美江と2人で運送屋のトラックを見送った。
全ての家具が運び出され、2人は広々となった一階の板の間を見回す…そこはまるで、倉田家のダイニングの光景を彷彿とさせた…
「家具がないと広いね…」美江が呟く。
「2年前に見に来た時、広いと思ったもんなあ…」
「でも、良い処だったわよね…」
「そうだな…場所は申し分なかったな…ま、しょうがないさ…」
「沙季さん…戻ってこないね…」
「昨夜はいたのになあ…ここで暫く話したんだぜ…君に会えるの楽しみにしてたみたいだったのになあ…どうする?もう少し待とうか?」
「さっき、お手紙書いて、ポストに入れといたから、いいわ。どうせ近くだから、また会いに来るわ。それで、結局倉田さんとは会えずじまい?」
「ああ…もしかしたら、君の言った通りなのかも知れないなあ…俺たちがここ引き払うこと決めた途端に、現われなくなっちゃった…どうしてるのかなあ…」
「そうねえ…でも、仕方ないわよ。あたし達じゃどうしようもないんだから」
「そうだよな…」
「そうだ…ねえ、あのテープ、あたしに預けてくれない?」
「あ、寺田の?」
「そう。あれ、預からせて。もしあなたに何かあったら、警察に届けるんだから。保証人お父様だったから、あなたの実家の住所、大家さん知ってるでしょ?」
「大丈夫だよ。聞いただろ?そんな度胸のある奴じゃないし、そんなことしたってあいつには何の得もないんだから…」
「人って追い詰められると、何しでかすか分かんないじゃない。念のためよ、念のため」
「そうか、いいよ…ほら」私はカセットレコーダーからテープを取り出し彼女に渡した。美江は受け取ったテープを大切そうにバッグに仕舞うと、私を見つめた…
「あたしたち、いよいよ別居だね…」
「ああ…いい機会かも知れない…暫く離れて、よく考えてみるよ」
「ねえ、週に1回位は会おうね」
「そうだな。仕事の相談もあるし、まだ離婚した訳じゃないんだから、ちょいちょい連絡する」
「ねえ、もう1回、抱きしめて貰っていい?」
「ああ…君がいいんだったら…」
美江は実家に帰って行った。最後の戸締まりをして、鍵を封筒に入れ、寺田家のポストに放り込んだ。坂を降りる途中立ち止まり、遥か向こうに見える横浜港の水平線を眺める…冷たい風が頬を鋭く刺した…
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