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父の残像 19

仮病は成功したものの…


『私』と私は、達成できたことへの安心感からか暫くベッドの中でうとうとと微睡んでいた。

「おい、大丈夫か?」声を掛けたのは父だった。
「…う、うん、大丈夫…」
「起きなくていいから、ちゃんと寝てろ。残念だったな…修学旅行。楽しみにしてたのにな」
「…今…何時?…」
「9時少し過ぎたとこだ…」
「あーあ…みんな行っちゃったんだね…」
「ああ、お母さんが先生と電話で話してな、先生、心配してたってよ。しっかり病気を治して下さいってさ。頭が痛いんだって?」
「うん…ちょっとね…痛い…」
「松岡さんは…?」
「うん、いるよ」
「替わって貰えないのか?ほら、大人の方が病気に慣れてるから…」
「具合が悪い時は、おんなじなんだよ。身体は僕のだから……」
「そうか…ま、そうだろうな。そうだ、もうすぐお医者さん来てくれるってよ」
「そうなの?」
「ああ、ほら、通りの向こうの小林さん、電話したら往診してくれるって」
「そう…お父さんは、今日はお休みなの?」
「休日だから会社には行かないけど、あとでお母さんと一緒に磯田さんの車でちょっと行かなきゃいけないとこがあるんだ。ま、お前はゆっくり寝てろ。また、帰ったら様子診に来るから。分かったな」

医者の往診は想定内だ。
それでも子供の私は緊張している様子だったので、念のため入れ替わっておいた。


医者は『私』の口から体温計を引き抜き、眼鏡を外して目盛りを見た。
「熱の方は、概ね下っているみたいですねえ…僕、ちょっと起きられる?」
『私』は辛そうにベッドの上に身体を起こす…
医者は暫く聴診・触診・問診を続け、再び『私』を寝かせると、母に話し始めた。
「どうも眼精(がんせい)疲労のようですねえ…」
「疲労ですか?」
「ええ、眼精疲労…目の疲れですね、お勉強させ過ぎなんじゃないですか?特に頭痛がひどい感じですから…子供はね、疲労やストレスですぐに自律神経のバランスが崩れちゃうんですよ。発汗や発熱も起こります…ま、風邪ということも考えられますけど、だとすると、汗かいて熱も下ってますから、今日1日熱が上がらなければ大丈夫でしょう。一応頭痛薬と解熱剤を置いて行きますから、後で飲ませてあげて下さい。解熱剤は熱が出た時だけでいいですから…少し勉強休んで、目を休めるように、ゆっくりしてれば、良くなるからね。大丈夫、大丈夫!」
「分かりました。受験勉強で疲れちゃったのね、きっと…」
「そうそう…ま、ゆっくり休ませてあげてください」


往診が終わり、私の病状がおお事ではないことが分かると、父と母は揃って出掛けた。

暫くするとしずさんが心配そうに部屋を訪れた。
「コウちゃん…大丈夫?頭痛いの、少しは良くなった?」
「うん…少しは…」
「あんなに楽しみにしてたのに、可愛そうにねえ…何か少し食べられそう?お粥、作ったんだけど…少し食べてみる?」
「うん…少し、食べてみようかな…」
「何か食べないと、薬も飲めないしねえ…起きて食堂に来られる?熱はもうないんだろ?」
「うん、大丈夫だと思う……」

正直言って、空腹だった。仮病だから当たり前の話だ。
多分今日、少なくとも半日は何も食べられないだろうと覚悟して、昨夜の夕飯は限界まで詰め込んでおいたのだが、やはり食い溜めは出来ないものだ。


具合悪そうに食卓に着き、卵入りの粥を啜る…旨い……
「どお?美味しい?」
「うん、美味しい…」
「もっと食べる?」
「いや…もういいや…」
もちろん、もっとお代わりが欲しかったが、茶碗一杯だけをようやく食べ切った振りをした。

「偉い偉い…ちゃんと食べてりゃ、病気なんてすぐ良くなるからね。ほらそこに先生の薬とお水置いといたから、ちゃんと飲んで、今日は部屋で大人しく寝てるんだよ」
「はい…」
『私』は薬をそっとパジャマのポケットに忍ばせ、水だけを飲み干し、部屋に戻る前にトイレに立ち寄って、薬を処分した。


私は修学旅行に行かなかった…
もし行っていれば、私がここに居ることはなかった…
私がここに居なければ、医者の往診もなかった…
私がトイレに流した薬もなかった…
しずさんが私に粥を炊いてくれることもなかった…

『私』はベッドに横たわり、今日初めて明確に書き替わった過去の事実一つ一つを確認した。
修学旅行の日程表では、東照宮の見学は明日の予定になっている。
そこでの記念写真に私が参加できなければ、あの卒業アルバムの写真と辻褄が全く合わなくなってしまい、決定的なパラドックスを起こしたことになる。
多分今更私が修学旅行に途中参加するということもないだろうが、もう一日、じっくり様子を見るに越したことはない…


『私』は、夜再び微熱を発症し、翌日までは頭痛が改善されない振りを続けた。
昨夜は家族と一緒に食卓に着いたが、私の病状が今一つ思わしくないからなのか、父も母もいつもより活気がないような気がした。
かといって芝居を止める訳にもいかず、申し訳ない気持ちと空腹を抱えながら眠りについた。


朝、体温計を片手に様子を見にきたのはしずさんだった。
「おはよう、コウちゃん、また熱がぶり返したんだって?どお?具合は…」
「うん…ちょっと、まだ、頭痛い…あれ?お母さんは?」
「なんだか…朝から御親戚のお家に行くって出掛けたよ。相談があるからって…はい、体温計」
「はい…」受け取った体温計を脇の下に差し込む…
「少しは食欲出てきた?」
「うん…少しお腹空いた…」
「そう…そりゃ良かった。何が食べたい?」
「うーん…またお粥が食べたいな、昨日みたいに卵が入ったやつ…」
「お安い御用よ、すぐに作ってあげるからね。じゃあ、熱計ったら、下着とパジャマ着替えて、食堂の方にいらっしゃい」
「はい」しずさんが台所に戻ると、体温計を37度丁度あたりに偽装して、言われた通りパジャマを着替えた。


午後になってからは、体温計の偽装と頭痛の芝居は止め、暫くこどもの私に主導権を委ねることにした。母が帰宅したのは夕刻前だった。もはや計画は完全に成功した時刻になっていた。私はすっかり回復した様子で、パジャマ姿のまま食卓でしずさんが作ってくれた白玉団子入りの缶詰めみかんを食べていた。
帰宅した母はいつになく疲れている様子だった。

「あら、コウちゃん、起きてたの?もう具合はいいの?」
「朝の内は7度くらいはあったんですけど、お昼過ぎには平熱に下ったようですよ。熱が下ったらすっかり元気になっちゃって…お腹空いたって…もう大丈夫ですよ。ねえ」
「うん。頭痛も治った」
「そう…良かったわ…」母は気だるそうに食卓の椅子に腰掛けた。

「どうされたんですか?奥さん…何かあったんですか?」いつもと様子の違う母を心配して、しずさんが訊ねた。
「大丈夫よ。少し疲れただけ。野村さん?お夕飯、お願いしていいかしら?」
「いいですよ。今日はお魚のつもりで、お買い物も済ませてますから…」
「じゃあ、子供たちの分だけでいいから、お願いします。あたし、ちょっと疲れて…食欲無いから、あっちで少し休ませてもらうわ。いいかしら?」
「まあ、あたし、お布団敷きましょうか?」
「大丈夫。その位自分で出来るから…」母はそう言って奥の和室に引き篭ってしまった。

「どうしたのかしら…お母さん…」しずさんが小声で私に話しかけた。
「分かんない…」
「コウちゃんの風邪がうつったのかしら?」
「そんな筈ないよ」
「なんでよ?」
「え?だって…僕のは目の疲れが原因だって、お医者さんが言ってたもん…」
「あら、そうなの?もしかしたら、目の病気が悪くなってるのかしら…まあいいわ。後であたしが様子聞いてくるから。コウちゃんは心配しなくていいわよ。多分、本当にちょっとお疲れになっただけでしょ。今晩はコウちゃんの全快祝いだからね。おばさんが美味しい御飯作ってあげるよ」


その日の夕飯の食卓は私と兄としずさんの3人だけだった。私は久し振りに思う存分食事ができた。突然の母の不調は、訳が分からなかった。
兄に意見を求めても、「あの人はしょっちゅう気分が変わるんだよ…」とさして気にしていない様だった。しずさんは、食後母の様子を見に行った後、明日は朝早く来ると言い残して引き揚げた。

深夜、子供の私が寝入った後、『私』はふと目を覚ました。
部屋の襖の向こう、廊下の奥の食堂から、帰宅した父と母がしきりに何か話をしている様子が窺えた。父が声を荒げる母を宥(なだ)めているようだったが、話し声は遠過ぎてその内容までは聞き取れなかった。『私』はそのまま、眠りについた。


翌朝、部屋に入ってきた父に起こされた。
「おう、お早う!悪いな、起こして…」
「あ、お父さん…おはよう。これから仕事?」
「ああ、お前、治ったみたいだな」
「うん、昨日熱が下って、頭痛いのも治ったよ。ゆうべからご飯もちゃんと食べられるし」
「そうか、良かったな」
「お母さん…大丈夫?昨夜、早く寝ちゃったけど…」
「ああ、ちょっと疲れてるみたいだな。今日もまだ寝てるけど、心配しなくて大丈夫だ。もう野村さんが来てくれてるから…そうだ…松岡さんは…どうだ?」
「どうって…いるよ。時々替わったりするけど…」
「ちょっと、また松岡さんと話がしたいんだ…」
「今?少し時間が掛かるけど…」
「いや、別に今じゃなくていい。今度な。俺が松岡さんと話してる時って、お前にも聞こえてるんだよな」
「うん、聞こえてるよ。でも…うんと遠くに離れてる時とか、話が難しくて飽きちゃった時とか…そういう時には自然に聞こえなくなる。あ、あと…僕が寝てる時は、全然何してるか知らないな…あんまりないみたいだけど…」
「そうか…出来たら松岡さんと2人だけで話がしたいんだけど…駄目かな?」
「なんで?」
「いや、ちょっと仕事のややこしいことだからな、あんまりコウちゃんには聞かせたくないんだよな…」
「分かった。っていうか、今の話ちゃんと聞こえてるから、何か考えてくれると思うよ。僕、離れててもいいし…」
「ま、近い内に、宜しくな。おっと…そろそろ仕事に行かなきゃ…じゃあ、お前もまだ病み上がりなんだから、あんまり無理すんなよ。今週は進学教室も休んどけ」
「うん。どうせ修学旅行中は、勉強休むつもりだったから…」
「そうか…じゃあな。お母さんは、そっとしといてやってくれよ」
「分かった…行ってらっしゃい」
「おう…」

第20話につづく…

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