昭和であった9 〜遊びと道具と宝物 1〜
結婚して早25年以上が経つが、実は今の家内とは3回目の結婚。
結婚したのは25年前、息子が産まれた時には私はもう40代の半ば過ぎとなっていた。
その頃は忙しかった仕事も少し落ち着き、両親の介護も少しづつ始まっていたので、あまり長期の撮影は避け、仕事場も自宅兼オフィスとなっていたので息子の成長は世の父親以上にきっちり見守ることが出来た。
まあ、同性ということもあるのだろうが、息子の子供時代と自分の子供時代の記憶を比較して、羨ましく思うことも多かった。
そのギャップは半世紀近くもあるので当たり前の話だ。
何せ、彼は生まれた時からテレビアニメがあり、溢れるほどの漫画があり、ゲーム機器やソフトがあり、身の回りにふんだんに食料があり、オモチャがあり、モノや遊び道具に溢れていた。
(前妻との間に生まれた娘の時もそうだったが、何せ私は超が付くほど多忙だったし、彼女が6歳の時には離婚してしまった…)
私は父に倣って、息子の興味には極力制限を避けた。(娘にも… 前妻は眉を顰め不満そうだったが…)
ゲームは好きなだけやらせたし、2、3歳の頃には私の仕事のお下がりのPC(確かiMacだった…私は映像屋なので相当なスペックだったと思う)も与え、贅沢こそさせなかったが、興味があることは好きなだけさせる様にした。
お陰で彼はあっという間に言葉も文字も覚え、自身の価値観を積み上げて創作の道を歩み、大学在学中にはクリエーターとして一本立ちするに至った。
私の幼少時代はようやくトランジスターが生まれた頃なので、前述したようにテレビもなくゲーム機も携帯電話も電子機器的なものは何もない。
表紙の写真のように幼児の私の大のお気に入りはもっぱら積み木とお絵描きと妄想だった(写真は幼児の頃の私…)
今になって当時と比べれば『あの頃は何もなかったなあ…』とも思うが、当時は電化製品ですら世の中に普及していないので、そんなことは考えも及ばない。
記憶を探ってみれば、私の世代は私の世代なりに様々な遊びと道具と宝物に囲まれていたのだ。
思い出そうとすれば、きりがない程どんどん蘇ってくる。
その1つ1つを書き記してみよう…(時系列でなく、ランダムです)
『グリコのおまけ』
このワクワクのグリコのおまけオモチャはいつ頃から始まったのだろう…
母に訊くと、子供の頃からあったと言っていた。
調べてみるとどうやら始まったのは昭和4年。
私が小さい頃は主に木やブリキで出来たミニチュアおもちゃだったが、就学した頃から材質は徐々にプラスチックに変わっていった。
子供が喜ぶので、よく我が家に来訪するお客さんからちょっとしたお土産で頂くことが多かった。
私は母から綺麗な小箱を貰って、そこに溜めていた。
従姉兄や兄から譲って貰ったものも加わり、相当な数だったと記憶しているが、時折ガサっと畳の上に広げては配置し、あれやこれや色々なストーリを組み立てて遊んでいたと思う。
まだモノが大切だった頃のこと、ワクワク美味しくて楽しいおまけコレクションだった。
『ろう石』
当時の子供の必須アイテムである。
白い紙やクレヨンがまだ貴重品とされていた頃だ。
子供なら誰もが、いつも『ろう石(正式には石筆というらしい)』1本をポケットに入れて持ち歩いていて、気の向いた時に舗装路上に絵を描いていた。
チョークではない。チョークよりも硬く長持ちする。蝋のような質感の天然の軟質火山岩で、石灰質が多いので硬いところであれば白く絵を描くことができる。確か私の時代には駄菓子屋で1本1円だった様に記憶している。私にとっても絶対的な必需品だったように覚えている。
『紙芝居屋』
昭和30年前後、子供たちの最も身近な画像エンタメは『紙芝居屋さん』だった。
『黄金バット』や『少年探偵団』『笛吹童子』、当時子供たちに人気だったラジオ番組の画像版もあった。
物語は続いてゆくので、数日ごとに掛け変わる出し物にはまた足を運ばなければならない。
紙芝居屋さんは自転車の後ろに紙芝居の舞台セットと引き出しのついた木製の大きな箱を積んで、地域ごといつも決まった時間に決まった場所にやってくる。
到着すると拍子木や太鼓で知らせてくれる。
子供たちは5円10円とお小遣いを握りしめ、まずはおじさんの引き出しから出される駄菓子を購入。
これが紙芝居観覧の優先権となる。
駄菓子を買った子供は前の方に、お小遣いがなく無料で観覧したい子供もその後ろの方からなら観ることを許される、というルールだった。
紙芝居なので、無声映画と同じくおじさんが弁士となりストーリーが始まる…
上手で面白いおじさんもいればそうでないおじさんもいる。
必然的に人気の紙芝居屋さんには遠くからも沢山の子供たちが集まるのだ。
駄菓子嫌いの母はあまり良い顔をしなかったが、私は大好きだった!
『ゴム鉄砲』
当時子供のおもちゃには結構手作りのものもあった。
これは、割り箸と輪ゴムを組み合わせて作るゴムの鉄砲。
飛ばす弾も輪ゴムである。
スタイルは色々あって、各自工夫して自分なりのゴム鉄砲を作っていた。
最初はティピカルなものから始め、上級ともなれば銃身の長い強力なものや、連射銃も作ることが出来た。
大体どの家にも『切り出しナイフ』という工作用のナイフがあって、割り箸や竹ひごをカットしたり、木を削ったりすることは子供の日常だった。
もちろん、子供のことなので手元が滑ってズバッと結構な深手を負うことも当然ある。
でも当時の子供はそうやって怪我をしながら道具の使い方を覚えていくのだ。
大体年上の近所のお兄ちゃんからご教授頂く。
「危ないからやめなさい」と嗜める大人は誰もいなかった。
『ブンブン独楽』
これも手作りおもちゃだが、簡単。
大きめのボタン1個とたこ糸があればOK!
ボタンの穴2つにたこ糸を通し、輪にする。
端を両手で持って糸をよじる様にぐるぐる回しタイミング良く引っ張り続けると、回転がどんどん上がり、ブィンブィン音を立てながら勢いよく回転し出す。
結構面白い!
勢い余って糸がブチ切れたり、ボタンが砕けることもあって顔を直撃したりして、舐めてかかると痛い目を見ることもある。
それもまた楽しかった!
『糸巻きタンク』
手作りもののゴム動力タンク。
写真のように割り箸と糸巻きと輪ゴムで作る戦車に見立てたおもちゃ。
切り出しナイフで糸巻きの淵に溝を切り込むと、滑りにくくなり、カタカタと動きがリアルにもなる。
動力の輪ゴムを増やしたり、滑り止めを塗ったり、色々工夫するとさらに性能が上がる。
母から糸巻きを貰うと、よく作って遊んだ。
構造が簡単なのに意外と良く出来ていた。
『切り出しナイフ』
ゴム鉄砲でもちょっと触れた木製の鞘付きの小型のナイフである。
真っ直ぐな片刃が付いていて、砥石で研ぎやすく出来ている。
当時はどの家にもあって、子供も5、6歳になって鉛筆削りやちょっとした工作が必要になると親から1本は買い与えられていたと思う。
紐や縄を断ち切る。紙や竹ひごや小枝やちょっとした木材を削ったり切ったりあらゆること使える万能ナイフだ。
もちろん、脅しや喧嘩の時にちらつかせる不届きな子供もいたと思う。
簡単な構造だが切れ味も鋭く慣れるまではケガも多い。
武器に使えば致命傷を与えることも可能な刃物だ。
だが、道具とはそういうものだ。
危ないと思えばどんなものでも危ない。
『バカとハサミは使いよう』で、道具は使い方を会得することで人生を豊かにする。
切れ味が悪くなれば、親の砥石を借りて研ぎ直し、油でメンテナンスしまた鞘に納めておく。
道具というものは何なのかを教えてくれる道具だった。
私や当時の全ての子供にとっては初期の宝物だった。
『犬のパペット人形』
今はもうないのでなるべく近い写真を探した。
要するに指人形型の犬のぬいぐるみだった。
ぬいぐるみの類には殆ど興味を持たない私だったが、ある日玩具店で物凄く欲しがったそうで、買って貰ったらしい。
私はその経緯は全く覚えておらず、いつも箱に布を敷いて大事にしまっていた。
夜寝る時には箱から出して片手にはめ、いつも必ず一緒に寝ていた。
大阪の幼児の時から、東京の確か小学校3年生くらいまでだったと思う。
大切な大切なパペットだったが、名前は付けなかった。
「もう、こんな汚い人形と一緒に寝るのはやめなさいっ!」
あまりに汚くなったので母親に取り上げられ、捨てられてしまった。
『ベーゴマ』
写真のベーゴマは現在私が持っているもの。
手元にベーゴマがないとちょっと寂しく、見つけると何十年も経った今だについつい買ってしまう。
ベーゴマは本当にハマった!
5、6歳の頃からだっただろうか、元々独楽回しが好きだったからだろう。
あの単純な鋳物の塊のコマが紐1本で勢い良く回ることに強く心惹かれた。
そして、奥が深かった…
単純なだけに創意工夫が半端ないのだ。
ベーゴマは駄菓子屋で購入するところから勝負が始まる。
商品棚の端っこで『指回し』し、大量の箱の中から芯のある2、3個のコマを選ぶ。
もちろん小遣いには限りがあるので2、3個がせいぜいだ。
『芯がある』というのは、中心があまりぶれていないという意味。
ベーゴマは図柄本位に簡単に型で作るいい加減な鋳物なので、芯が中心からズレているものが非常に多い。(というか普通ズレている)
さらに買ってきたコマを、家で粘土や小さな磁石を使い、指回しを重ねて芯がどっちにどのくらいズレているかを探る…
で、アタリをつけて鉄ヤスリで本当の芯を削り出していくのだ。
もちろん、純手・逆手など、より強い回し方を会得する為の練習も必要だし、紐の掛け方、結び目の作り方にも工夫がいる。
『ベーゴマ』は賭けだ。
布張りの土俵に持ち込み、相手と勝負する。
相手のコマを土俵から弾き出したり、相手よりも倒れずに回り続けていられれば勝つことができる。
勝てば相手のコマを取れるが、負ければ折角創り上げた自信の一品を奪われてしまう。
私は1歳の時に小児麻痺を患ったので右足に麻痺が残り、走ることや跳ぶことが苦手、というか子供の頃はビッコだった。
なので、普通の外遊びではかなり諸々ハンディーがあった。
しかし、この『ベーゴマ』や『めんこ』『ビー玉』『チェーン』など賭けゲームなら相手と対等に戦うことができる。
それでこういった賭け勝負は好きだった。
特に『ベーゴマ』には購入から勝負までのプロセスが多く、創造性に溢れたゲームだったように覚えている。
『メンコ』
昭和30年代では、ベーゴマと並んで賭け勝負遊びの絶対的アイテムである。
四角い厚紙の絵柄おもちゃで、基本サイズは決まっている。(大メンや丸メンなど様々な形もあるが、勝負は同じサイズのもの同士)
これを地面に置き、順番に叩きつけて、相手をひっくり返せれば勝ち。
ひっくり返ったメンコをゲット出来る。
叩きつけるコツもさることながら、めんこには蝋を塗ったり、少しカーブをつけたり加工にもコツがある。
兄はこの勝負ゲームが得意だったらしい。
まだ私が小さかったある日「メンコもうやめたから、これ全部あげる」と、煎餅の箱缶ぎっしりのメンコを貰った。
何百枚もあった!
よく見ると、一部のメンコには丁寧に加工が施されていた。
それらは彼の勝負メンコで、多分他のものは相手からゲットしたものなのだということは明らかだった。
私はそれらの勝負メンコを使って、随分と有利に勝ち進んだ時期があり、さらに増やしたコレクションは、いつの頃だったか同じ社宅アパートの年下の子に譲った記憶がある。
『フラフープ』
日本でフラフープが大流行したのは昭和33年のこと。
そのブームは凄まじかった!
フラフープを扱う玩具屋には毎日入荷毎に大行列ができ、2日間並んだという人がニュースで紹介されたこともあった。
直径1mほどのプラスチック製の輪で、最初に売り出したのは積水化学。
簡単な構造の製品である。
私の住む横浜ゴムの社宅アパートでは、会社が直ぐに自社でサンプルを製作し始めので、社員の家族たちにも山のようにサンプルが配られ、各家庭2本3本所有出来、子供たちは皆不自由なく遊べた。
会社はゴムや樹脂の加工はお手のものだったで、ブームを察知して直ぐに製造を始めたらしい。
横浜ゴム製のものは色合いがちょっとシックで重厚感があり、評判が良かった。
「儲かった?」と父に尋ねたら「おう、凄い売れてるぞー」と嬉しそうだった。
ブームは僅か1年ほどで終息したが、その間の街の様子の異常さは今も心に残っている。
あれほど空き地の多い時代だったのにも関わらず、子供もも大人も街中でフラフープを回している。
大人たちは通勤前の早朝から家のまえの道端で、始業前の学校の校庭や公園で、日曜ともなれば街中至る隙間がフラフープを回す人々で埋め尽くされた!
場所取りで口論している大人たちの姿も見たことがある。
モータリゼーションが進む通りでは交通事故も多発した。
腸疾患で死んだ人もいたらしい…
嘘のようだが本当の話である。
事実は小説より稀なり…だ…
『ダッコちゃん』
フラフープ大流行から2年後のことである。
神奈川の宝ビニール工業という小さな会社が南洋の黒人の子供をイメージしたビニール人形を発売した。
目がウィンクし、腕が輪っか状でどこにでも抱きつくように出来ており、『木登りウィンキー』『くろんぼブラちゃん』という名前で売り出された。
これが当時の若い女性の目を惹きつけ、街に腕にこの人形をしがみつかせた若い女性が出現し始め、それをマスコミが『ダッコちゃん』と命名して報道すると、瞬く間に全国的な評判となり、全国のデパートや玩具屋に大勢の人が押しかけることになる。
当初2000個程度の販売目標位だったこの人形だったが、とてもとても納品が追い付かず、その品不足状況がまたマスコミのネタとなり、瞬く間にダッコちゃんブームが加熱する。
商店は予約券や整理券を発行して対応しようとしたが、結果的には260万個の大ヒットとなったので、その恐慌振りはまさに社会的事件となり、連日新聞やテレビを賑わせる。
私は当時小学生の低学年。
人形の類にはさほど興味はなかったが、母親を含め世の大人たちが『ダッコちゃん』を求めて右往左往する姿を目の当たりに見ている。
しばらく経って、我が家にも1体がやってきたが、私も兄もさしたる興味を示さないので、ようやく母親は努力が徒労であったことに気付き、間も無くその1体は私の従姉に譲られていったと記憶している。
このブームは子供として物凄く醒めた目で見ていた。
ブームというものがどのように勃発してどのように加熱するのかを観るのはとても面白かった!
ちなみに製造した宝ビニール工業は、後にこのダッコちゃんを会社のマークとしてタカラ(現・タカラトミー)と社名変更し大きな玩具企業に成長した。
『ドリンキングバード』
これは玩具であろうか、インテリアであろうか…正式には『水飲み鳥』というらしい。
確か昭和30年代の後半、我が家にもあったが、当時どこの家に行っても玄関の靴棚の上や箪笥の上に鎮座していたように思う。
調べてみると開発されたのは昭和27年、私と同い年である。
熱力学で作動する熱機関を利用した玩具で、全体は2つの小さなフラスコを繋ぎサイフォンのような構造になっていて、鳥の頭と胴体に見立てている。
頭はフエルトで覆われていて、フラスコの中には液体の塩化エチレンが着色され入れられており、常温で気化する塩化メチレンが飽和している。
頭部のフエルトに水で濡らすと気化熱で温度が下がる。
頭部の気化した塩化エチレンは凝集しその分気圧が下がると、胴体の液体が上部に押し上げられ、鳥は前傾する…
しかし、前傾した時に再び頭部がコップの水で濡れるのでまた頭部が気化熱で冷やされ、ゆっくりと同じことを繰り返すのだ。
ちょっと難しい仕組みだが、この鳥、ゆったりとずっと水を飲み続けるという仕組みなのである。
子供心には大変不思議だった!
何の動力も持たず、誰も何もしないのにずっと動き続けるのだ…
重量のバランスと気化しやすい液体、サイフォン構造、さらに毛細管現象による物理学的な玩具だ。
仕組みについて父に訊いたのだが、何度詳しく説明されても子供の私には難しくて理解出来なかった。
永久機関なのかと訊いても熱環境によるものなので永久機関ではないと言う。
ドリンキングバードは1サイクルの動作に1分程もかかるので、じっと見てはいたいのだが子供としては退屈してしまう。
ゆっくり不思議に浸ることのできるのは呆っとした気分の時に限ったが、デザイン的にも動作も何とも愛くるしく好きだった。
『東京タワーの文鎮』
ずっと机の上に大事に飾っていたもの。
初めて東京タワーに登ったときに買って貰った東京タワーのレプリカ文鎮である。
東京タワーは大好きだった。
日本の成長のシンボルが身近にあることも誇らしかったし、フォルムも好きだった。
父の会社は新橋にあって、社屋は東京タワーの直ぐそば。
当時芝公園内東京タワーの真下に会社の福利厚生用のプールがあって、夏休みの間はよくそこに泳ぎに行った。
プールサイドに寝っ転がると東京タワーがそびえ立っていて、東京タワーは生活の一部のような気がしていたのだ。
なので、自宅にいるときもいつもこの文鎮を眺めていたかった。
『Oゲージ』
1/43~48縮尺の鉄道模型。
軌間は32mmあるので、現在のHOゲージやNゲージよりも大分大型である。
我が家には父の戦前少年時代のO ゲージがあった。
兄も私も鉄道おもちゃはそれで遊んでいたので、玩具屋で売っている鉄道玩具はあまりにもちゃちに見えて、線路遊びはもっぱらこれだった。
今は頻繁に訪れる南阿蘇の山小屋に置いてある。
かといって私は鉄道マニアでも模型マニアでもないので、あくまでも思い出の品として時折引っ張り出しては一応動くようにはメンテナンスしている。
私が小学校高学年になった頃、世はHOゲージのちょっとしたブームが訪れた。
本当にごく僅かだが、学校の友人たちの中に鉄道模型を買って貰った者もおり(当時としては子供に買い与えるには物凄く高価なものだったので、普通の子供には高嶺の花だった)その子が我が家にこれを見にきたことがあった。
ジオラマ制作を勧められたが、この狭い自宅の子供部屋に何故そんなものを作りたいと思うのか意味が分からなかった…
しかし、この父のOゲージには線路パーツも沢山あり、時折引っ張り出しては自由にレールを組んで、その重厚感を味わいながらよく遊んだ。
『ブリキのロボット』
ブリキのロボットは父の子供の頃からあったと聞く。
SF漫画好きの私は自分のロボットがどうしても欲しかった。
ゼンマイ仕掛けではなく、電飾の付いた電動のものが欲しかった。
確か小学校2、3年生の頃、両親がその願いを誕生日に叶えてくれた。
足底はローラーではなく両足それぞれに十字形のローターが仕込まれており、体を左右に揺らし、両腕を交互に動かしながら前進する理想的なロボットだった。
胸にはいくつかの電飾が点滅し、巨大ではないが程よい大きさのお気に入りだった。
以来、電動ロボット所有仲間が出来、時折お互いの家に集まって、それぞれのロボットを見せ合ったり、戦わせ合ったり、競争させたりしてよく遊んだ。
私のロボット…名前は『ロブ』と命名。
群を抜いて力が強く、重心も安定していて自慢の性能。
とても楽しく、自慢のロボット『ロブ』を何年もとても大事にしていた。
やがて、『ロブ』は壊れて動かなくなった…
引っ越しを機に捨てることとなってしまった。
当時の記憶を追いながらネットで画像を調べてみたが、『ロブ』と同じ形のものは見つからなかった。
『ブリキのモノレール』
これはある日突然叔父がお土産に買ってきてくれたもの。
ぶら下がり型のモノレールだった。
モノレールというものは手塚治虫のSF漫画や少年雑誌の未来の都市のイメージ画像でしか見たことがなかったので、思いがけずとても嬉しかった。
かなりちゃちな作りだったが、モノレールのおもちゃは珍しかったので、かなり大事に遊んでいたように記憶している。
ちなみに、東京にモノレールが走ったのは東京オリンピックの昭和39年。
確かこのおもちゃを貰ったのはその3年ほど前だったと思う。
『幻灯機』
就学と同時くらいに物凄くせがんで買って貰った幻灯機。
プロジェクターである。
上から電球をセットしてレンズを通して投影するブリキ製の単純なもの。
レンズ上下にフィルムの手動巻取り機が付いていて、そこにフィルムはセットする。
ソフトとなる35mm幅のポジフィルムはなけなしの小遣いで2本買った。
1本は『笛吹童子』、もう1本は『巌窟王』だったと思う。
今はもう手元にないがそれぞれのポジフィルムにはブックレットが付いていて、それを見ながらフィルムを送りながら私が弁士となる。
まあ、いわゆる紙芝居屋のおじさん役だ。
これが楽しかった。
近所の子供たちを呼んで、映写会ごっこを何度も開催した。
天気の良い日は部屋が暗くなり切らないので、シーツや毛布やタオルケットを使って光を遮っていた。
これが映像屋としての私の第1歩だったのかも知れない…
『日光写真』
映像ネタでもう1つ。
駄菓子屋で売っていた日光写真である。
日光写真とはセルロイドのネガ版と感光紙がセットになっている写真を作るおもちゃ。
セットには厚紙とガラス板が付いていて、暗がりで感光紙と好きなネガ版を選んで、天気の良い日に日光に晒す。
すると次第に感光紙に図柄がポジで浮かび上がる。
それを水に濡らして定着させる。
という写真の現像のプロセスを手軽に簡略化したものだが、感光紙の感度が悪いので、扱いやすい分焼き付けが難しい。
上手くいって水に濡らしても、暫くするとどんどん絵柄は消えていってしまうという哀しいおもちゃなのだが、何か素晴らしいコツがあるような気がして、何度も買って何度も試した。
なかなか上手くいかなくても、いつもワクワクドキドキが止まらないのであった。
『ポンポンボート』
水上おもちゃはこれが一番好きだった。
ブリキの躯体の中に小さな水タンクが入っていて、その下に蝋燭が据えられるようになっている。
タンクに水を入れて蝋燭に火をつけるとタンクから細い鉄管が後方に伸びていて、水蒸気でプクプクと水面を走るのだ。
もちろん後方に簡単な舵も付いているので、うまく調整すればタライでも風呂桶でも公園の池でもサイズに合わせて走らせることができる。
ただし小さなボートなので、風や波には弱い。
あまり大きな池で走らせると沈没したり、舵も弱い作りなのでどこかに行ってしまったりしてしまう。
でも1艘20、30円位でどこの駄菓子屋でも売っていたので、ちょっと頑張れば直ぐに次の船が買える。
何艘も買った記憶があるので、結構無茶をやって遊んでいたように思う。
『ペンライト』
これは叔父からプレゼントされた生まれて初めて個人で所有した懐中電灯。
ペンライトだった。
電池は単三だった。
いつも持ち歩いていた宝物。
何に使うのか?... 子供なので特に用途はない。
時々取り出しては付けたり消したりするのだ。
宝物とはそういうものだ。
『マジックコースター』
このおもちゃは特に大好きだった!
ハンディに曲げられた鉄製の枠に磁石の芯の付いたコマのようなプラスチックの輪を延々と転がすだけの1人遊び。
別に難しくも何ともない。
コマの移動は芯のところなので凄い勢いよくコマが回転しても移動はゆっくり…
何とも不思議な感覚で、スムーズで気持ちいい…
ただそれだけなのだ。
でもこれが大好きで、ずっと大切に持っていた。
『地球ゴマ』
昭和30年代に物凄く流行った科学玩具。
駄菓子屋では売っていなかったが、露天商で良く売られていた。
ジャイロ効果を使った不思議なコマで… ま、皆さんご存じだろう。
1920年代に日本で開発されたものらしい。
戦後、世界中に知られるようになった。
コマ好きの私には絶対に欲しいアイテムだった。
いつだったか手に入れた時はとても嬉しかった。
鉛筆の芯の上やどんなところでも回すことができ、綱渡りをさせてみたり、頭の上で回して髪の毛が絡まってしまったり…
ま、遊んだ遊んだ…
ちょっと高級感があって、おもちゃというより機械という感じが好きだった。
『足ひれ』
足の悪い私は小さな時から泳ぐのが大好きだった。
水の中にいれば自由に動き回れるからだった。
泳ぐのも潜るのも得意。
ある日そんな私に父親が子供用の小さな足ひれを買ってくれた。
これを装着した時の感動は忘れることが出来ない。
泳いでも潜ってもグングン前に進めるのだ。
自由自在!まるで水生動物になったような気分だった。
その後、中学から私は水泳部に入り、中長距離の競泳選手として中学最後のシーズンでは東京都大会で決勝に残り入賞した。
お陰で水泳はすっかり嫌いになってしまった…笑
まだまだあります…
続きは次回に…