大矢のカンガルー 9
第9章 大矢という人物
科学情報番組の収録が終わった翌日から、いよいよ特番の準備が本格的に始まった。竹中と梶井は、失踪してしまった三木の尻拭いに奔走していたが、もはや正治はそんなことに関わっている暇はなかった。台本も最終稿が上がり、司会者やゲスト出演者も概ね決定し、収録日は僅か10日後に迫っていた。
監修を依頼した各分野の生物学者を訪ね、動物園の協力を取付け、都内の小学校の生物クラブに参加を呼びかけ、スタジオに動物を集めるため関東圏の動物プロダクション数ヵ所に手配を依頼し、局内の膨大な映像ラボから使用可能な動物の映像を探しだし、この週末にはクイズの出題用映像の為動物園ロケを行なう…正治と大矢はまさに目の回るような忙しさだった。アシスタントの梶井や吾妻は、他の番組も兼任しているので、肝心のところで頼りにならないことが多かったし、チーフの大矢も実際に仕事をしてみると、飄々とマイペースな分落ち度も多く、イライラさせられることも少なくなかった。
正治が撮影を依頼している動物園の飼育係りとの打合せを終わらせ、技術会社を回って、深夜制作室に戻ると、大矢が一人さも深刻そうな表情で、ポツンとデスクの前に座っていた。
「お疲れっす」
「ああ…ご苦労様…」
「素材ロケの手配全部完了しましたよ。梶井さんとシゲさんは?」
「ああ…さっき帰ったよ…」
「そうですか…どうしたんすか?なんかあったんすか?」
「なんで?…」
「なんでって…なんだか元気ないみたいだから、さすがに毎日突貫工事だから、疲れちゃいました?」
「いや、忙しいのは別にいいんだけどさ…ちょっとさ…」
「あ、岩本さんからまた何か言われたんですか?」
「いやあ…そういうのも別に平気なんだけどな…」
「じゃあ、カジさんとかシゲさんとかが何かポカやったとか?…」
「いや…違うんだよ…あのさ、川村君さ、君、動物、好き?」
「好きですよ。小っちゃいころから、犬とか猫とか大好きですから…子供の頃何回も野良犬に噛まれちゃったけど、結局嫌いにはなれなかったしな…」
「そうか…俺さ、今日、スタジオに呼ぶ動物のチェックしに動物プロダクション3軒回ってきたんだよ」
「あ、お疲れさまでした。動物の仕出屋って結構郊外なんでしょ?遠くて大変だったでしょ。で、上手く揃いました?」
「ああ、一応ね。そりゃいいんだけどさ…川村君だったらどう思うのかなあ…ああいうの見たら…」
「ああいうのって、何すか?」
「動物がさ、すげー狭い檻に閉じこめられてさ、なんだか汚くってさ、臭くってさ、豹とか虎とか猿とか…必死になって狭い檻の中グルグル往ったり来たりしてんだよ…俺、ああいうの見るとグッとくるんだよなあ…」
「俺も今日動物園行ってきましたけど、動物檻に閉じこめるのって、実はあんまり好きじゃないっすね。正直言って…」
「だろだろ?俺の方なんか、動物園なんか比べ物にならねえ位ひどい環境だったぜ。動物タレントっていうから、もうちっと大事にされてるのかと思ったけどなあ…本番前には綺麗に洗っとくって言ってたけどよお…そういう問題じゃねえんだよなあ…」
「そんなひどいんですか?」
「ああ…ひでえよ…みんなよく調教されてて大人しいんだけどよ…あれじゃあ、可愛がられてるっていうんじゃねえよなあ…おどおどしててよ…囚人とか捕虜とか、そんな感じかなあ…」
大矢はその日自分が見てきた動物一匹一匹の飼育状況を細かく説明し始めた。
「つまり、あれだろ?俺達みたいに動物の撮影するもんがいるから、ああいうプロダクションがあるんだろう?」
「そうですね…偉そうに言える立場じゃないすよね…」
「だよな。やっぱこれって罪だよな。」
「そう…犯罪じゃないけど、罪でしょうねえ…」
「川村君は、平気なの?」
「俺も自分で企画書いてて、今の今まで気が付いてなかったけど…言われてみりゃ、大矢さんの言う通りだと思います。でも、仕方ないっすよね。もう乗っちゃったし、売っちゃったし…子供に喜んで貰える面白い番組にすることに専念しなきゃねえ…」
「そうだよなあ…分かってんだけどよ、今日会った動物のこと考えるとよ、やっぱ切ねえんだよなあ…」
「この間、ラボでアフリカの自然公園の動物の素材いろいろ観たんすけどね、やっぱ飼育された動物とは大違いですよ、表情とか。いいものは残ってくわけだから、その内、ちゃんと淘汰されるんじゃないですか?俺達は見せるのが仕事だから…」
「だな…お前え、大人だな」
「いえ、余裕ないだけっす。とりあえずコマあ前に進めなきゃですよ」
「そうだよな…でも、ちょっと話聞いて貰えてすっきりしたわ。文句たれてたって始まんねえもんな」
「じゃあ、素材ロケの段取り組んじゃいましょうか?」
「おう」
どんな仕事にも、その仕事ごとに感性のスタンダードというものが存在する。テレビ制作の現場では、些細な問題に固執せず、こだわらずに、ダイナミックにスピーディーに物事を判断して、スケジュールを最優先させる為の感性が求められる。元々テレビ媒体はニュースソースである。時代的であることが望まれるので、実は個性的であるかどうかは、それほど要求されない。従って、少し悪い言い方をすると、大ざっぱで、無神経で、迷いの少ない感性がスタンダードとされるのである。
もちろん、こういった感性をベースにしていても、陽気で饒舌だったり、無口で冷徹だったり、なよなよのらくらしていたり、男気を一徹に守っていたり、様々な個性が存在するのだが、正治が初めて一緒に仕事をする大矢という人物の感性は、そのスタンダードから大きく逸脱していた。
普段の行動を見ていると一見大らかで無神経にも見えるのだが、変なところで異常に感受性が強い。彼の感受性のスイッチがどこで入るのか、全く予測不能なのである。
一緒に仕事をしていても、大矢は今一つ集中力に欠ける。調査漏れがあったり、発注ミスがあったり、スケジュール管理も正治が横でまめに気を配っていないと、崩壊してしまいそうになる。ただしそういった数々の失敗も、決して不真面目や手抜きから起こるものではない。本人はいたって真面目に真摯に仕事に向き合っている。多分その真面目さの有りようが普通の人とちょっと違うのかも知れない。
今回の特番の仕込み作業中にもこんなことがあった。本番までに膨大な仕込みをこなさなければならない正治と大矢には、手分けをして局内・局外を駆けずり回る日々が続いていた。そんなある日、突然朝から大矢の姿が消えてしまっていたのだ。正治との間で慣例となっていた朝一番の打合せにも姿を現さない。大矢のアパートに電話を入れても留守のようだった。仕方なく正治は、その日の午前中に大矢がやらなければならない幾つかの仕込み作業を確認し、珍しく早めに出社してきた手伝いのシゲと梶井に相談した。
「えーっ、俺そんな余裕無いよう」口を尖らせて露骨に逃げ腰を決め込もうとしたのは梶井だ。
「でも、ここで問題になったら、チーフ、薮畑さんに変わっちゃいますよ」
「何とかしようぜ。表沙汰になんないようにさ。薮さんに苛められるより大矢さんの尻拭いの方がましだよ」現実主義のシゲが協力を申し出てくれた。
「川村、お前心当たり無いの?大矢さん、どこにいるか…」
「まったく…お手上げなんです…連絡もないし…」
「まあ…あの人、読めねえもんなあ…そのうちひょっこり来るんじゃない?ああ、忘れてた、とか言っちゃってさ。何とか誤魔化せるだけ誤魔化してみようぜ」シゲにそういわれて、ようやく梶井も渋々賛同した。
こうして3人で手分けして大矢の穴を埋め、スケジュールに支障が出ないように何とか調整してみることとなった。ところが大矢は今回の仕事以外にも他の幾つかの番組の手伝いもしている。午後になると次第に大矢の姿が見えないことが問題になってきた。
「おいっ、クイズ班、おーやはどこいった?」
「あ、今ちょっと、仕込みで外回ってます」
「おーやは今日は出社したのか?」
「あ、はい。朝ちょっと…すぐに出掛けましたけど…」
「おーやは、どこにいるんだっ?」
「ちょっと、依頼でいろいろてこずってて…えと、何ヶ所か回ってる筈ですけど…」
「おいっ、おーやと連絡取れねえのかっ?」
「今ちょっと無理です。一段落したら連絡入れるって言ってましたから…」
さすがに夕刻近くになってくると、いよいよ誤魔化し切れなくなってくる。
「あの野郎…こっちの手配何にもやってねえみたいだな。何やってんだっ」
「美術の発注書、どうした?」
「おーやが持ってますよ。今日美術室に届けるって言ってましたから…」
「届いてねえから聞いてんだよ。誰かおーや探してこいっ!」
どんどん状況がまずくなってゆく…これ以上は隠し切れないと覚悟を決めた頃、正治宛に一本の電話が掛かってきた。相手は生物学の国際的な権威で、国立大学の教授だった。この番組の企画当初、番組の監修と解説役に一方的に正治がキャスティングしたが、本部長の野口曰く「あー、ありゃ駄目だぞ。テレビ嫌いだからな。俺も何回かオファーしたことあるけどよ、テレビには絶対に出ねえって断られた。多分駄目だろ。ま、当たってみるだけ当たってみろ」ということだった。
案の定正治が一度会って相談したいと連絡を入れたが、あっさりと断られてしまったのだ。その教授が今更一体何の用事なのだろう…訝しがりながら正治は受話器を取った。
『川村さんですか?』
「はい、先日はどうもお電話で失礼致しました」
『いやいや…あの、大矢さんの名刺にこの電話番号がありましたんで…』
「え?大矢がそちらに伺ったんですか?」
『ええ、ええ、昨夜うちにいらっしゃって、そりゃあもう、大変お世話になりました。で、何かお礼がしたいと思いましてですね…私はテレビの御依頼は基本的にお断りすることにしてまして、先日も一度お断りしたんですが…あの…今回は特別にお引き受けしようかと…』
「えっ、本当ですか?いや、それはもう、土井先生にお引き受け頂けるんでしたら、こちらは大助かりなんですが…本当に、本当に宜しいんですか?」
『ええ、そのつもりでお電話させて頂いている訳でして…もしも、まだ他の方が決まってらっしゃらないんであれば…』
「いえ、先生以外に適任の方がなかなか見付けられなくて困っていたところでしたから…いや、助かります。有り難うございます。ところで…うちの大矢はそちらにお邪魔しているんでしょうか?」
『いや、私は今大学の研究室なんですが、大矢さんは私の自宅の方で母の面倒を看て頂きまして…いや本当に恐縮しているんですが…』土井教授の話ではこうだった…
昨日の夕方、大矢は土井教授の代わりの学術者として候補に挙がっていた動物園の園長に会いに行く予定だった。それがどういう経緯があったのか、土井教授の研究室を訪ねたらしいのだ。あいにく教授は昨夜、友人と外食の約束があり、早めに大学を出てしまっていた。大矢が訪ねた時に応対に出た研究員は、教授がてっきり帰宅したものと思い込み、大矢に土井教授の自宅住所を教えた。
教授は独身で、80を超える母親と二人暮らし、その母親は近年認知症を患っており、通常昼間は介護を兼ねて家政婦が通っていた。教授に夜のスケジュールが入った時にはあらかじめ別に夜間泊まりの家政婦を依頼するのが常だったが、昨日は教授はうっかり交代の家政婦を依頼するのを忘れてしまっていたのだった。
教授がそのことに気が付いたのは、そろそろ帰宅しようと夜も更けてからだった。慌てて自宅に電話を入れたが、呼び鈴に応える者は誰も居なかった。以前にも同じようなことがあり、母親は空腹を抱えて近所を徘徊してしまい、探し出すのに警察沙汰になってしまったことがあったのだ。教授は急ぎタクシーを拾い自宅に戻った。
果たして、自宅には誰も居なかった。近隣の思い当たる場所に連絡を入れてみたが、母親がどこかを訪れた形跡はなかった。いよいよ警察に助けを求めようかと思ったその時、「ただいま〜」と母親の声が玄関から聞こえたのだった。母親は見知らぬ若い男性に付き添われていた。大矢だった。
「あ、先生、お帰りになってたんですか?」初対面の大矢が玄関に迎え出た教授に親しげに声を掛けた。
「お母さん…一体、何処に行ってたんですか?心配するじゃないですか」
「ああ、あなたは帰って来ないし、あたし、お腹空いちゃってね、どうしようかと思ってたら、やっちゃんが来てくれたのよ。でね、一緒にお食事に行ってたの。駅前のお蕎麦屋さん。美味しかったわよ。久し振りにお酒も少し頂いちゃった。楽しかったわ」ここ最近は痴呆が進み、口数が減り、表情の変化も少なくなってしまっていた母親は久々に満面の笑顔で上機嫌だった。
「やっちゃん…って、お母さん…康夫はもう5年も前に…」
「あ、先生…お母様はそう思っていらっしゃるみたいですから…」大矢が小声でそっと窘めた。
「おたくは…失礼ですけど、どちらさまですか…?」
「何言ってんのよ、やだわあ。やっちゃんじゃないの。あなた弟の顔も忘れちゃったの?ささ、やっちゃん、上がりなさい。あなた、今日はゆっくりしていけるんでしょ?そうだ、今夜はうちに泊まっていきなさいよ。ね、そうしなさい。今お茶入れてあげるわ」
大矢は教授に目配せしながらも、臆することなく上がり込んだ。それからは、まるで久し振りに実家を訪れた息子のように見事に振舞い、教授もいつの間にか冥土から蘇った弟を久々に迎えた団欒に惹き込まれてしまったという話だ。あれ程機嫌良くお喋りを楽しむ母親の姿を見るのは数年ぶりだったと教授は言う。
翌日にお気に入りの帯留めを修理する為、呉服屋に同行してもらうことを大矢に約束させると、母親は深夜前に安心して二人を客間に残して就寝した。
教授はやっと大矢と二人きりになることが出来、この見知らぬ若者が何者で、何の為に我が家を訪れたのかをようやく知ることが出来たのだった。実は大矢が教授の自宅を訪ねた時、母親は裸足のまま門柱の周囲をうろうろしていたそうだ。玄関が開け放たれたままになっていたのを見て、大矢は咄嗟にこの老婆を刺激してはいけないと感じたらしい。
「どうしたんですか?出掛けるんなら、履物を履かなきゃ駄目ですよ」と優しく声を掛けると、老婆はにっこりと微笑んで「あー、良かった!やっちゃんが来てくれた。昭夫がね、帰って来ないのよ。あたし、お腹が空いちゃったから、何か食べに出ようかと思って…でもあたし、よく考えたらお金持ってないし…どうしようかしらと思ってたところなの。やっちゃん、昭夫から言われて来てくれたのね?そうでしょ?」
「そうですよ。僕も夕飯まだですから、一緒に何か食べましょうか?でもその前に、一度家に入って、ちゃんと上着を羽織って、履物を履いて、戸締まりもしなきゃですよ」
大矢は本当に教授がまだ帰宅していないことを確認すると、母親の身支度を手伝い、促されるまま近所の蕎麦屋へ同行した。大矢は年寄りの扱いに慣れていた。小さい頃から同居する祖母に可愛がられて育ったからだ。教授の母親は、今は亡き思い出の中の祖母と比べると随分上品だったが、懐かしそうに目を細めて繰り返し語る昔話や、世の中の不特定多数の人々に向けられた一方的な愚痴を聞いていると、あの懐かしい祖母の姿とオーバーラップしてくる。気怠そうな老人らしい仕草や、箸をすすめる際のもどかしそうな手先の動きが愛おしかった。想像も及ばない古い時代の記憶の端を辿りながら「あなたに言っても分からないでしょうけど…」と、目を細めて浮かべる笑顔を見ていると、それだけで幸せな気分に浸ることが出来た。
教授の母親が大矢のことを亡くなった自分の息子と思い込んでいることもすぐに察しが付いた。大矢は目の前の老女の想いを壊さぬように、付かず離れず無理をしないように自分の役割を演じ続けた。自分が何の為にここを訪れたのか、そちらの役割はもう頭の中からすっかり消え去ってしまっていた。この母親に与えられる幸福感を一分でも一秒でも長びかせてあげたい…その気持で一杯だった。大矢の感受性のスイッチはこのように入ってしまうのだ。
深夜、とにもかくにも、この見知らぬ若者のおかげで大事にならずに済んだことを知った教授は、丁重に感謝の気持を伝え、忙しい大矢にとてもこれ以上迷惑は掛けられないので、番組出演の件は再考することを条件に今日のところはお帰り頂きたい旨を申し出た。
「あの…俺…もう仕事のことはどうでもいいんです。もし御迷惑でなければ、明日までお母様と一緒に居させてくれませんか?お構い頂かなくても、廊下の隅ででも勝手に寝られますから。お母様と一緒に居ると、なんだか死んだ婆ちゃんに孝行出来てるような気がして…俺、凄く嬉しいんです。だから、せめて明日の約束だけでも果たしたいんです。朝起きて、もし俺が居なかったら、お母様きっとがっかりするだろうし…そんなこと考えたら俺、仕事なんか手に付かないだろうし…お願いしますっ!」と、逆に頼み込まれてしまったそうだ。
そんな訳で大矢は今日は教授の母親を連れて浅草の呉服屋に出掛けて行ったらしい。教授も大矢の優しさに甘え、母親を委ねていつも通り朝から仕事に向わせて貰ったと言う。
『先程、家政婦から連絡が入りまして、大矢さん、ちゃんと母を自宅まで送り届けて頂いたそうで…いや母も楽しかったととても上機嫌の様子でした。それで、大矢さんに代わって貰って、少しお話したんですけど…少し謝礼をですね、させて頂きたいと申し上げまして…昨夜母が御馳走になったお食事代も受け取って頂けなかったし…でも、大矢さん、また遊びに行かせてくれればそれでいいと仰るばかりで、番組出演のことも、気にしないで下さい、そんなつもりでお母様と一緒に居させてもらった訳じゃないって、取り合って頂けないんですよ。私も困ってしまって…で、せめて今回の出演だけは引き受けさせて頂こうと思いまして…しかし、テレビの方ってユニークな方が多いって聞いてましたが、大矢さんはまた特別ですねえ。いや、感服致しました。お帰りになりましたら、また是非母に会いに来てやって頂きたいと、くれぐれも宜しくお伝え下さい』
早速正治はこのことを本部長の野口に伝えた。もちろん多少脚色を施した。
「野口さん、大矢さんが土井先生口説き落としましたよ」
「本当かっ?出演してくれるのか?」
「ええ、今御本人から連絡が入りました。昨夜大矢さん、お宅に押し掛けて、一晩掛けて口説き落としたみたいです。なんか、お母様にえらく気に入られたそうで…」
「そりゃお前、大手柄だぞ…あの人はNHKにだって出なかったんだから。おいっ、岩本っちゃんっ!大矢が大手柄だぞっ!あいつ、やる時ゃやるなあ…」
「んー?何々?おーやのボケがどうしたって?」岩本PDがアシスタントの薮畑を従えて本部長席にやってきた。
「ほら、生物学の土井さん、お前らも前の特番の時、どうしても口説けねえって相談に来たろう?」
「あー、あの先生は駄目だ。なにしろ有名なテレビ嫌いだからな」
「ところがどっこい、大矢がよ、口説き落としたんだってよ」
「本当かなあ…俺の時なんか、門前払いでしたよ。あいつ吹いてんじゃねえかなあ…」薮畑が野口の驚きを窘めた。
「いえ、さっき御本人からわざわざお電話があって、正式に引き受けて頂けるとのことでした」替わって正治が薮畑を窘めた。
「信じられねえなあ…」薮畑は納得できない様子だった。
「どうやら、本当みてえだな…ヤブ、負けを認めろ。大矢もああ見えてなかなか侮れねえぞ」岩本にそう言われて薮畑は悔しそうに表情を歪めた。
以後は野口の誇張も加わえられ、制作室では、一日姿を消していた大矢が土井教授の自宅に押し掛け、土下座に土下座を重ねて力ずくで出演を承諾させたという噂で持ち切りになってしまった。事の成行を知っている正治も、それを敢えて訂正はしなかった。
夕刻、しょんぼりした様子で大矢が制作室に戻ってきた。その姿をいち早く見付けた正治とシゲが直ぐに駆け寄った。
「川村…ごめんな…昨日さ、園長さんとこに出演交渉に行ったんだけど…何だか、俺、気が合わなくってさ…威張ってて、嫌な感じなんだよ…金ばっかり要求してさ…で、もういいですって…ああ、俺ってこの仕事向いてねえかもなあ…んでさ…このまんまじゃやべえと思って、お前が断られた土井教授のとこに行ってみたんだけど…俺…それももう、どうでも良くなっちゃって…」
「大矢さん、土井先生から昼間電話があって、引き受けて下さるそうですよ。大矢さんに凄く感謝されてましたよ」
「…そうなの?俺、もういいって言っちゃったから、後で考えたら、やっぱお願いすりゃ良かったって、後悔してたんだよ…」
「それも、おっしゃってましたよ。でも、お礼に是非引き受けたいって…」
「それに、俺…今日やんなきゃいけないこと、全部忘れて…一日何も仕事してねえんだ」
「大丈夫。俺とシゲさんと梶井さんで全部フォローしておきましたから」
「それより、大矢さん、宮城班の美術発注書持ったまんまでしょ?」シゲが周囲に聞こえないように囁いた。
「あ?ああ…そうだった…それも忘れてた…」大矢はそう言って鞄の中から発注書を取り出した。
「俺今すぐ、美術部に行ってくる。まだ間に合うから」シゲは発注書を奪い取ると急いで部屋を出て行った。
「とにかく、全てOKですから。俺もどこまで庇い切れるかヒヤヒヤでしたけど、大矢さんが土井先生口説き落としたってことで、全部チャラになりましたからね。上手く話合わせて下さいよ。野口さんなんて大感激してるんですから…大矢さん、大手柄ですからねっ」
こうして、大矢は何とか特番のチーフの座を守り続けることが出来たのだった。
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