カーコラム「D1 GRAND PRIX誕生秘話」
今となればドリフトやD1は、クルマに興味がない一般人ですら一度はその名を聞いたことがあるほどメジャーな存在となっているが、一昔前(1995年~1998年)は、超マイナーで、迷惑行為を行う反社会的な存在として白眼視されていた。
夜の埠頭は立ち入り禁止、箱根の峠も深夜の取締り、暴走族、ローリング族と疎まれ、さらには、峠の走り屋を追い込んで潰す「潰し屋」なる凶悪集団まで現れる始末。
日活の「首都高トライアル」というVシネ作品の監修を務めた某ドリキンは、JAFに呼び出されライセンス停止にするぞと脅されたり、まるでローマ時代のキリスト教殉教者並の迫害を受けた。
しかし、ITバブルが弾けた2000年頃から状況が一変する。
熱しやすく冷めやすい日本人の常で、ITバブル崩壊と共に、電通&フジ産経グループ主導のF1ブームが終息。愚民化した大衆は、より分かりやすい、そして単純なエンタテインメントを求めた。
そこに目をつけたのがオプションを発行する三栄書房。福島エビスサーキットオーナーである熊久保氏とタッグを組み、日本初のプロドリフトドライバーによる選手権を立ち上げる。D1 GRAND PRIXの誕生である。
初期のメンバーの殆どが、CARBOY誌主催の " CARBOYドリコンGP " 優勝者。 本来は、CARBOYの版元である八重洲出版が積極的に進めるべき事業だった(実際、熊久保氏は当時のCARBOY編集長の西氏へも積極低な働きかけをしていた)が、八重洲出版はコンサバな会社、出版以外の事業への参加・投資には消極的だった。
その結果、それまで受難のドリフト界を牽引してきた王道誌であるCARBOYはいつの間にか、その地位をイカ天でお馴染みのオプションにとって変わられてしまった。
商才に長けた三栄&熊久保の強力タッグは、あれよあれよの間にドリフト界を席捲、イケメンの人気ドライバーの存在は、ドリフトとは無縁なバカなミーハー女をも惹きつけた。モータースポーツのように複雑なルールが存在しないドリコンは、女子供にもすぐに理解できることが強みである。
その結果、日和見主義のマスコミは、フジ産経グループを筆頭に、これまでのネガティブキャンペーンから一転、「数字」がとれる出し物としてモータースポーツそっちのけでドリフトよいしょキャンペーンに邁進した。
そして、ドリフトブームは今や日本発のモータースポーツとしてアメリカ、ヨーロッパ、アジアにまで輸出され、世界中のドリフトファンを熱狂の渦に巻き込んでいるのである。