カーコラム「WRCメモワール "カルロス・サインツ初出場の1990年のアルゼンチンラリー 納得いかぬ転倒の原因は?」
1988年コルシカからグループAのセリカGT-FOURによるWRCチャンレンジを始めたトヨタだが、より本格的にチャンピオンを目指し、WRCに全戦出場を始めたのは90年からだった。
当時のWRCは現在と違い、全戦出場義務はなく、出場費用がかかりそうなヨーロッパから遠いエリア、ケニア、アルゼンチン、ニュージーランドなどは出場しないワークスもあった。だからトヨタは88年も89年もアルゼンチンにはエントリーしなかった。そのため、90年初出場なのである。ドライバーは若きエース、カルロス・サインツ。そして地元のナンバーワン、ジョルジュ・リカルデ。この2台のマシンはST165セリカであった。
当時のアルゼンチンラリーは、ブエノスアイレスで車検とスタート、そしてスーパーSS1があって、夜間に約800kmを走ってコルドバへ入り、そのまま早朝のSS2より始まるというハードスケジュールとなっていた。
当時のアルゼンチンは、ランチャのミキ・ビアシオン、ディディエ・オリオール対トヨタのサインツの戦い。だがサインツにとっては、母国語であるスペイン語が通じる国にもかかわらず、初出場というハンディがあった。それでもスペイン系が大多数を占める国アルゼンチン、サインツ人気は大変なものだった。事実、スタート前にテレビの特別番組まで企画されたほどである。
ラリーはカンクネンのスタートで始まり、それをビアシオンが逆転、そしてSS3からSS6までビアシオンとサインツが同秒のトップ争い。初出場のサインツは現在のような"安定・完走、2~3位狙い"ではなく、もっとアグレッシブなファイター走りだったのである。そして第2レグ、トップはビアシオンに、それをサインツが追う展開。すでにカンクネン、リカルデはリタイア、オリオールも遅れているから2人だけの勝負となっていた。
そして第2レグ最後のSS14、標高2200メートルのエル・コンドルのステージ。サインツは予想外の転倒をするのである。そこは、かなりきついコーナーだったが、なぜか速いスピードで入ってしまった。ルーフが潰れ、ボディのサイドにもダメージ、エンジンのカムカーバーにもクラックが入り、オイルが漏れ出していた。かなり重体のクラッシュである。
当時はどこでサービスをしてもよかった。しかしトヨタのサービスは、その日のゴール地点であるコルドバのサッカースタジアムの近くにいるハズだった。しかしそこにはトヨタのサービスはなかった。後に分かったことだが、マシンが予想外に重体だったため、実はガレージのあったカルロス・パスーのTTEベースで45分フルサービスを行っていたのだ。そしてセリカは生き返った。結果は、ビアシオンに続く2位をゲット。初のドライバーズチャンピオンへと一歩近づくのである。
だが、サインツとナビのルイス・モヤにとって、その転倒は納得のいかないものだった。そのため、ゴールの翌日、2人は再びエル・コンドルのステージへ行き、もう一度走ってみた。そして、問題のヘアピンコーナーにさしかかった時、なぜ転倒したのかその原因が分かった。実は、モヤがペースノートを2枚一緒にめくり、次のページを読んでしまったのである。
ラリーは事前にレッキと呼ばれる試走をして、SSコースの走り方をペースノートという文字にする。これを本番ではナビが読み上げてブラインドコーナーでも全開で行くわけだが、そのノートのページをめくり違え、本来2速ギヤで入るべきコーナーを4速で入ってしまい、その末の転倒だったということが判明したのだった。