noteといふものヲ(その1 日立編)
男もすなる noteといふものを女もしてみむとするなり。
(写真は、葛飾区の水元公園)
新型コロナのおかげで、3月から在宅勤務で、なかなかストレスフルな毎日が続いているので、憂さ晴らしというわけではないけれど、振り返るために日記代わりに、noteをはじめてみた。
はなむけに、私の生い立ちから。
(この写真は最近の写真)
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高度成長期の終わりかけ、オイルショックの頃にこの世に生を受け、団塊ジュニア世代のピークとして、常に狭き門を潜り抜けてきた。
社会人1年目には、証券会社や銀行が倒産するという、まさに氷河期世代。
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父は土佐のいごっそを絵にかいたような男。
エンジニアを志望し、学校を出るとともに、茨城の日立に住むことになる。
母はこれまた、土佐のはちきんを絵にかいたような豪快な女。
先生一家の末っ子で、国語の教員として高知で働こうかと思った矢先、お見合い話が来て、東京の近くに住めると思い、ワクワクして茨城に嫁ぐ。
(写真は、父親が定年まで勤務した、日立製作所海岸工場本館)
南国生まれの両親には、茨城の環境はあまりにも過酷だったようで、定年延長するも、満期の65歳を待たず退職して、早々に高知に戻ってしまった。
寒い冬に短い夏はたしかに、私もあまり好きじゃなかった。
企業城下町であったため、周りの大人も茨城出身者が少ないところで育ったこともあり、茨城にあまり愛着はない。
むしろ、盆暮れに訪れる高知に郷愁を感じるのは当時からだ。
茨城プロパーの子供に、なまっているとからかわれたりしたが、今思えば、浮いた存在の少年だったのだろう。
そんなわけで、私にとっては暗黒の茨城時代だった。
ただ、、日立駅からまっすぐ伸びる平和通りの桜は大好きだった。
高校が、この通りの近くにあり、当時はバブル経済の真っただ中で、素敵なブランドショップも立ち並んでいた。
(いまは、シャッター商店街だけどね)
バブル崩壊とともに、この地を去り、大学へ行くこととなる。
<その2へ続く>