noteといふものヲ(その2 三島編)
大学は、暖かいところがいいと思い、西を目指す。
門をくぐったのは、日本大学の三島キャンパス。
ここで、のちに嫁さんになるチエコさんと出会ったり、いまだ交流が続く友人たちとの出会いがあり、甘酸っぱい青春の日々があった。
本来は、八王子のほうの学校に行くつもりだったが、センター試験で願書を出したら合格したので、滑り止めだったのだけど、手付金を払いに行ったら、キャンパスののんびりした雰囲気が気に入ったこともあり、縁あってこちらに通うことになった。
八王子や三島方面を狙っていたのは、モテるためにマイカーを持ちたいと思ったからで、理由はいたって不真面目なものである。
三島市は、当時から都心に新幹線通勤するサラリーマンも多く、戸建ての値段はびっくりするぐらい高かったし、いま住んでいる葛飾エリアと不動産の賃貸価格もあまり変わらないほどだった。
そのため、決して安くはない家賃だったが、学校まで自転車で5分で通える環境だったのはありがたかった。
近さが祟って?実家通学の友人たちが、『泊めて』と言ってビールとつまみをもってやってきたりして、そのまま宴会になったりと、にぎやかな日々を過ごすことになる。
毎週金曜日は、大体我が家で友人たちと朝方まで呑んで、酒臭いままに土曜日の授業。とくに1~2年は、語学の授業が1時間目=9時からあって、しんどかったのを覚えている。
専攻は国際関係。日米の文化比較を卒論のテーマとした。
アメリカからみた日本の報道を調べるうちに、マスコミに興味を持ち、記者なれればいいな~なんて思いだしたりもした。
三島は、大きな本屋さんもなくて、資料集めもままならず、週末にロマンスカーで新宿の紀ノ国屋書店に行って、一日過ごすことも多かった。
おそらく私の人生で一番影響を受けたといっても間違いない一冊の1つであるのが、この本だ。
だが、いまだに「人間を幸福としない日本というシステム」が破壊されるどころか、より強固になっているのは、怒りを通り越して、悲しくさえある。
システムか。どうやったら変えられるか?とも思ったが、田舎暮らしは誘惑も多い。
授業が終われば、バイトか焼き鳥やで熱燗ちびちび。
さもなければ、マイカーで箱根の山を攻める日々。
あっという間に4年生になって、大手新聞社を受験していたけど、うまくいっても最終面接どまり…で、断念。
どうしようかと学校の就職課に相談したら、システムインテグレーターという、主には金融や製造業のシステムを作るいい会社があると太鼓判を押された。
早速、面談に行けば、スムーズに(そりゃそうだよね)内定。
独立系IT系で最初に株式一部上場を果たした会社であるということよりも、SEGAの親会社というフレーズに焦がれてCSKという会社に入ることとした。
そんなわけで、氷河期世代ながら、あまり苦労せずに就職先を得て、名残惜しくも、この地を去ることになる。
<その3へつづく>