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感情という落としもの
この1、2年の間、人生で最も読書をしている。
事業をしているということでビジネス書が主だが、自分自身を知ることをテーマにしたものもそこそこ多い。
なんとなくその理由がわかってきたので、少し記録してみようと思う。
僕は感情の表現が苦手だ。
他者への興味も自分への興味も比較的薄い。
心ここにあらずということが多い。
なんと言えば良いか…どこか冷めた目で見ている第三者としての自分が自分自身の上にゆらゆらしている感じ。
(くれぐれも人が嫌いという話ではない点は押さえておいて欲しい)
よく社長(妻)に言われるのが、「聞いてるの?」「やる気あるの?」「どうでも良いと思ってるの?」といった類の、いかにも仕事やる気ないペーペーの新入社員やバイトへの言葉だ。
もちろん、聞いているし(よく忘れるが)、やる気はないわけではないし、どうでも良いとは思っていない。
(ひょっとしたらペーペーなのかもしれない)
ところが僕の最初の返事の99%は「わかりません」だ。
(首を絞められて「それ本当に言ってるの?」と迫られて初めて何とか答えを絞り出す)
自分事がどこか他人事なのだ。
小学生の頃に通っていたソロバン塾の先生に言われた言葉は今でも鮮明に記憶している。
「一級の試験に受かる子たちにはやる気がある!ガッツがある!試験に落ちても何クソ!と立ち上がる根性がある!」
「でも、宮川くんにはそれが感じられない…が、きっと内なるガッツがあるんだろう!」
(一応ソロバン一級でした。暗算も。)
内向的で無口だったし、内なるガッツなど微塵もなかった。
少なくとも、ソロバン塾の先生には僕の感情がわからないという印象だったようだ。
子供の頃は与えられた課題はとりあえずやるが、「自由にやる」ということが非常に苦手で、自由研究とか工作、美術は興味どころか意味がわからなかった。
とはいえそれらを放棄すると負の報酬を得ることだけは確かなので、嫌々何とかカタチにはしていた。
「なりたい職業は?」という、よくある質問なんて絶望的に嫌いだった。
幼いながらに、世の中にどんな職業があるか知らないし、知っていたとしても具体的にどうやるのかなんてわからないし、なんてバカな質問なんだと思った。
(小学校の卒業文集のなりたい職業には、隣の席の友人と同じでとりあえず「大工」と書いた。まったく興味はないし、ただ怒られたくないから空欄を埋めた)
やがて。
ほとんどの人たちと同様に社会に出て、それほど多くはないと思うが、いろんな人と会い、経験し、学ぶなかで、いわゆる社会的常識なるものが少しついた。
だから傍目には普通だと思われることが多いが、「内なる自分」は今も自分の上を漂っている。
客観的に自分を見るとか、感情はどうやって生まれるとか、人とうまく付き合っていくとか、そういう本を読みながら、「あぁ、なるほどな」という発見の日々。
つまらなそうな顔をしていても(実際には本当につまらないかもしれないが)、楽しいことは楽しい、嬉しいとかいう風に思うことももちろんある。
それを自分の上で一歩引いて見ているだけなので、本体(僕自身)にはきちんとした感情はある。
一体自分は何がしたいのか?
どういう人間なのか?
多分、今現在の僕にとってはこれが人生のテーマなんだろうなと思う。