【#一日一題 木曜更新】 「母性」で赦されてきたもの
山陽新聞の「一日一題」が大好きな岡山在住の人間が、勝手に自分の「一日一題」を新聞と同様800字程度で書き、週に1度木曜日に更新します。
むすめとアイドルのライブ動画を観ながら、彼らの容姿の美しさを堪能した。女性も男性もすらりとしていて、ダンスもダイナミックで見とれてしまう。汗を流して精一杯ファンにこたえる彼らは素敵で、画面の前でかっこいい、かわいいと連呼した。
容姿を無責任にジャッジできる画面の向こうのアイドル。もしかしたら現代においてすごく貴重な存在なのではないかと感じている。それが美容整形でつくられた顔や体であろうと、人から憧れられる容姿を保つのはアイドルを仕事とする本人たちの努力には間違いなく、ファンのそういった声援が彼らのやる気の源になっているのだろうから(と、信じたい)。
しかし近しい人への容姿ジャッジは、数年前から風潮的にも心情的にも控えるようになった。そしてそんな習慣が自分の中で「普通」になったせいか、子どもの友人の容姿に対しても簡単には語らなくなった。もちろん子が自ら友人のことを「○○はかわいいんだよ」と言う場合もあり、そういったときはそうだねと一緒に話すし、子どもたちの言動や振る舞いを恰好いいと褒めることもある。
そんな中、どうしても違和感が拭えないのが、母親同士でよその息子さんやお父さんの容姿について格好いいと言い合うことだ。なんてことのない会話に引っかかってしまうのは、私の意識がここ数年で変わったからなのだろうと自覚している。
ある時、スポーツ観戦をしていた時に他の学校のチームのお子さんを格好いいと言った母親がいた。そして冗談か本気かわからないが、「彼の写真が欲しい」とも。私は「なんでよそのお子さんの写真なんてほしいの」と突っ込んだが、よくよく考えてみたらこれはアイドルに対するそれと変わらないんだろうかとも考えた。どうにも拭えない違和感を抱き、ある時ひとまわり下の若い友人にそのことをこぼしてみた。
「それ、逆だったらすごく気持ち悪いですよね」
年若い彼女はあっさりそれを言語化してくれた。これがもし父親の行動だったらと思うと、この世の終わりくらい気持ちが悪い。ではなぜ、母と父で対外的な印象が違うのかと考えた時、頭に浮かんだのは「母性」だった。
友人の言葉がきっかけで、子を産んでいてもいなくても、女性には母性を盾に赦されてきたことがたくさんあるのではないだろうかと途方もない疑問が浮かび、また考えることが増えた自分を面倒くさくも愛したくもなった。そして手放しで恰好いいだかわいいだと言える画面の向こうのアイドルに、感謝の気持ちすら湧いてきた。
参考文献:[新装版]母性の研究 大日向雅美著