目標の到達先が決まっていないことには、振り返りも何もない。
行きたい未来が決まっていないことには、PDCAも改善も、自己効力感の向上も感じることができないのではないでしょうか??
PDCAにも、改善にも、自己効力感の向上にも、それぞれ定義があります。
そういう意味では、「定義」、ふわっと言うところの「決める」って大切なことだと思います。
「決める」は、正解があるものとないものとがある。
「決める」を考えると、別に異論をはさむ必要のないものがあります。水が1gだったり1ccだったり、沸点が100度(99.974度)だったり。1cmなんていう長さも。こういう絶対的な尺度はそれでよくて、別の事柄「私のシアワセ」なんて絶対的な正解などありません。
だから、自分の中の正解を言語化する、思考を放棄するといった結果になります。
「幸福度」という観点からはどちらも正解に思いますし、「長期的に持続的に幸福感を味わいたい!」となれば、前者のほうがおすすめな気がしています。
正解のない「決める」は骨が折れるがその分実入りも大きい。
私の根っこには、「今よりちょっとでもマシな未来」という刷り込まれた信念が存在していて、それを私も肯定的に受け止めていて、同じ生きるなら何か1mmでさえマシにしたいなという気持ちで日々います。
すると、1mmでも進んだ感じがしたとき、幸せを感じます。
「進む」と「戻る」は目標地点が定まった上で決まる。
「進む」は時の流れと同じく絶対的なところです。
この場合は、「進む」の反対は「止まる」。
しかし、何か目的地があるとたんに、目的に向かって「進む」なのか「戻る」なのか分かれてきます。
自分のシアワセを感じるために、わざわざ目標地点を決めないといけないという面倒くさそうな営みをしている。
「シアワセになりたいー」
というふらっと湧き上がる気持ちは、こうして思考を重ねる旅路の始まりにつながっていきます。
考える先にある、シアワセ。
考えて、定義して、シアワセを感じる。その過程で、たくさんの人の想いがそれぞれなことが分かってくる。
自分の中で大切にしたいものと重なってシアワセが増すこともあれば、違っていて、「お互い大事だよね」と尊重しあう経験もできる。
そうすると、シアワセを感じようとする道中にたくさんのものが見つかる。
そしたら、
「そうだ、私は道中もシアワセを感じたい人なんだ」
って、新しい定義が見つかる。
そんな自己発見を楽しむ毎日。
時の流れは速いけれど、比べれば牛歩のようにノロい私の歩みも、両方とも大切にしておける心の余白を常に持っていたい。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?