大喜利について考える 1.大喜利は芸人のもの?
筆者自身も色々な場所でその場にいる人に「大喜利やってみませんか?」と
大喜利に誘う機会があったのだが、その際によく聞く返事が
「大喜利は難しい」「芸人さんみたいに上手くできない」
「すべりたくない」というものである。
例えば将棋に置き換えてみよう。「将棋やってみませんか?」と
誘って、「ルールがよく分からない」「複雑な思考が苦手」という
理由はあっても、「羽生善治名人みたいに上手く出来ない」
という思考になるだろうか?
勿論、大喜利と将棋には決定的に違う点がある。それは大喜利が
「回答を他人に見せる」ものであり、そこには「自分のセンスを試される」
もっと極端に言えば「すべるかもしれない」という不安と隣り合わせで
あるという点。将棋で上手く出来なかったとしても、対戦相手に
鼻で笑われるぐらいの痛手で済む(一生将棋やらないだろうけど)
しかし、大喜利は大抵の場合は複数人で行い、その場にいる回答者
または観客などに回答を提示し、時には共感を得られない場合も出て来る。
つまり「すべる」事もある。そして、人間は「すべる」事を極端に嫌う。
何故嫌うのか?「すべった」瞬間とは、すなわち自分と他者の間で
コミュニケーションが成立しなかった瞬間であるからである。
コミュニケーションの不成立=他人から嫌われる。
人間は誰しも他人から嫌われたいとは思いたくない。
故に自らその可能性のある機会に飛び込みたくないと思うのも
むべなるかなである。
だがしかし、すべる事は本当にコミュニケーションの不成立なのだろうか?
全くの共感を得られない回答というのもあるかもしれないが、
大抵の場合は共感は得られなくても、ツッコミという便利なツールにより
意志のやりとりは可能である。つまり、大喜利ではすべる事も含めて、
コミュニケーションのひとつとして成立しうる。
どんなものであれ、最初から上手く出来る人間なんていない。
お笑い芸人みたいに上手くやろうなどと思っても
始めからバカリズムのような答えが出て来るわけがない。
そこに気付いていただいた上で、自然に自分が面白いと思える事を
答えていただく。実際にはハードルは高いかもしれないが、
「大喜利=お笑い芸人」という概念を一旦外してみれば、大喜利は
あなたにとって新たな楽しみとなり得るかもしれない。
勿論、それでも躊躇う方は「ボケて」「大喜利PHP」などなど
Web上で行える大喜利から気軽に試すという形でも良い。
ちなみに、大喜利も考え方やちょっとした技術、表現方法を
習得する事で他人にうけやすくなる事は可能である。
(これについては稿を改めて書かせていただく)
次回は「2.大喜利の何が楽しいの?」をお送りする予定です。
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