大喜利について考える 2.大喜利の何が楽しいの?
さて、私が人に大喜利を勧める以上、
「大喜利の何が楽しいのか」についても説明しなければならない。
まず、大前提として大喜利とは何をするものなのか。
「笑点」における口頭での回答形式と、その後流行したフリップ形式の
大喜利では答え方に違いこそあれ、行う事は
・司会者から”お題”が提出される
・回答者が答える。
この二つに集約される。
ここでいう”お題”とは何か。クイズの”問題”とは何が違うのか。
決定的な違いとして、クイズの”問題”はひとつ、または複数の
”正解”が存在するような問いかけである。
大喜利の”お題”には一般的に正解が存在しない問いかけである。
ゆえに、無限に回答は存在しているし、”正解”は存在しない。
そのような問いかけに回答者は自分なりの回答を考え、発表する。
大喜利の回答は”面白さ”を指標としている。
”面白さ”は主観であり、その主観は一人ひとり千差万別である。
つまり、百人がお題に答えた場合、百通りの答えが存在する事となる。
”面白さ”という感性は一般的な会話においても時折使用されるが、
日常生活においてその感性をフルに利用する場面はあまり存在しない。
「”面白い”という方向で脳みそを回転させる楽しみ」は、ある種
非日常的な行為でもある。
非日常的な体験という意味においては人狼やリアル脱出ゲームといった
昨今流行りのブレインゲームにも近い。
人狼では人を騙したり、人を堂々と疑うという日常生活では
タブーとされる行為がルールにおいて許されるゲームである。
人を騙すために悪知恵を働かせたり、人狼を見つけるために
他の参加者の言動を疑ってかかるという行為は日常ではまず
行えないような”体験”である。
リアル脱出ゲームでは疑似的に非日常の世界に自分を送り込まれる
演出をされた上で、パズル的な謎を解き、ゲーム自体に仕組まれた謎を
解き明かす事になる。参加者はただ単にパズルの書かれた本を解く事とは
明らかに違う”体験”をしながら脳を回転させる事に楽しみを見出している。
翻って、大喜利はどうか。
日常において、”面白さ”のベクトルにのみ頭を働かせ、かつ自分の表現に
よって人を笑わせる場面は、お笑い芸人でもない限りあまり存在しない。
例えばネタを書いて発表したり、何かしらの芸を練習して人前で
発表する事には膨大な時間を必要とするし、当然技術も必要となる。
しかし、大喜利は恐らく最も最短で笑いに到達する事が可能な
笑いの取り方である。
「お題が出る」「それに答える」というシンプルな構造上、
言語が共通する人間なら誰でも参加可能であり、およそ
ルールと呼べるものは少ないので理解しやすい。
技術に関してもネタを演じる事に比べたら遥かに簡単である。
(一種の作法と言えるようなものは存在するが、これは別項に回す)
つまり、自分の表現で笑いを取るという”非日常的な体験”が
大喜利では誰にでも可能なのである。
「誰にでも笑いを取るという”体験”が出来るブレインゲーム」
として、私は多くの皆様に大喜利を勧めたい。
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