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小説「記憶還り」

つまり、あなたは人生に疲れてしまい、何を見ても楽しいとは思えない。未来に希望が持てない、と。こう仰りたいわけですか。

そうなんです。そりゃ、昔は希望もあったし、人並みに楽しいと思える事もありました。
中学、高校は部活に励みながら部のマネージャーとも付き合ったし、大学に入ってからはテニスサークルと称して4年間遊び呆け、就職活動もコネを駆使してすぐに内定を取り付けました。
社内恋愛で妻と結婚し、今は妻と子ども2人を養えるようにはなった。けど、ふと周りを見渡した時に、自分が楽しいと思える物が何も無かったんです。週末の予定は付き合いでやるゴルフぐらいで、スポーツも好きなチームは特に無く、家に帰って読書や映画鑑賞をする時間もない。
このままだとただ会社と家を往復してお金を稼ぐだけの存在になってしまいそうで。

そうですね、あなたのような方は比較的存在します。いや、今やそういう人が世の中では多数派かもしれない。自分が何に驚き、悲しみ、心を揺さぶられたのかを忘れてしまった人はそう珍しくありません。感情を発露する場所を失い、外向きへの怒りを示すのみでしか世の中とコネクト出来なくなった結果、Xで「世の中を斬る」みたいなポストをする事しか楽しみを見出せない中年男性が近年激増しました。
では、翻ってあなたが人生で一番ドキドキ、ワクワクした瞬間とはいつでしょうか?
受験の時、パートナーのご両親に挨拶した時、マイホームのローンを組んだ時、色々思い当たるでしょう。
今回行うのは、催眠療法と呼ばれる心理療法の一種ですが、そう怖い事をする訳ではありません。
あなたの記憶にある最も心が揺さぶられた瞬間をあなた自身が思い出してもらうよう無意識下から誘導してもらい、あなたの夢の中でその情景を再現していきます。
こちらの装置を頭に被ってもらい、脳波などを検知させてもらいます。危険な状態に陥った場合にはすぐに治療は中止しますので、ご安心を。
それでは、記憶の奥底へ行ってらっしゃい!良い旅を!オープンユアマインド!

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私は「掛け声はどれかひとつでいいんじゃないですか?」と指摘する間もなくすーっと眠った。
気がつくとそこは実家の近くにある商店街。
ここはあのコロッケを売ってる肉屋、ここは小学生の頃によく行ってた散髪屋、今はシャッター通りになったけど、どこもあの頃のままだ。
懐かしい、懐かしいけど、私には何かの使命を感じて胸が高鳴っていた。それが何なのかまだ分からない内に、私の足は商店街の外れにある書店の前に立っていた。そうだ、私はこの書店に来るために歩いていたんだ。鼓動が更に高鳴る。しかし、何故書店に?

私は書店に入る。カビ臭いような書店独特の匂いが支配する店内。私は入ってすぐの書棚にある新刊本を手に取り、何となく活字に目を通した。勿論、文章など入ってこない。しかし、奥へ進むほどに私はあの使命感で緊張が走った。
ある一角へ着いた時、私は全てを理解した。
そうだ、私はエロ本を買いに来たんだ。
中学の頃の記憶が甦ってくる。きっかけは同級生との会話で聞いたあの話。

「あの本屋は中学生でもエロ本を売ってくれるらしいぜ」

その時は特に興味なさげに「ふーん」と聞き流したフリをしていたが、心の中では宝の地図でも手に入れたかの様な興奮を感じていた。
あの頃は誰かからの回し読みでしか目にする事は出来なかったエロ本。それが今、目の前に並んでいる。
そして、この目の前にあるエロ本は中学生の自分でも手に入れられるんだ!
しかし、周りにエロ本を買う客だと悟られては一巻の終わり。人生が終わる。そんなわけないと大人の自分は理解しているが、中学生の自分にはそう思えてならなかった。

周りに同級生がいないか、近所のおしゃべりなおばさんが通らないか、慎重に周りを見渡した。
店内にはレジにいる中年男性の店主、それと知らない女性のみ。女性は雑誌を立ち読み中で、こちらには一切目もくれない。
今ならエロ本を物色出来る!隣接する鉄道雑誌の棚を探すフリをしながらエロ本のラインナップを確認した。
投稿写真、スーパー写真塾、デラべっぴん、ビデオ・ザ・ワールド…。表紙だけでもこちらの興奮は頂点に達してしまいそうだ。
どれがいいんだ?財布の中には確か千円はあるはず。その千円で少しでも元を取れるエロ本はどれなのか?
気がついたら雑誌など無視して完全にエロ本に釘付けになっていた。

「あのー」

心臓が止まる。何だ?俺に何の用があるんだ?まさか、万引きか何かと間違われたのか?そんな素振りはしてないはずだ。一体何が?

「予約していたCanCamを取りに来たんですが」

店主の方かよ!驚かせるな!
女性客と店主のやり取りは俺から離れた場所で行われているのに、まるで真隣で行われているぐらいに聞こえた。それほど聴覚をはじめとする五感が研ぎ澄まされているらしい。
再びエロ本の棚に目を向ける。雑誌だけではなく、何やら厚めの本らしき一角があり、そこには投稿マニア倶楽部、S&Mスナイパーといった名前が書かれている。中学生の自分にも、その棚に手を伸ばすのはまだ早い事は察知できた。
あとはどの本を持ってレジに向かうか、なるべく表紙が爽やかなものが良いのか、それとも判型の小さな本を違う雑誌に隠して、流れでお会計してもらうか。このクロスワードの本で挟んで…。
いや、そもそも他の本を買う余裕などあるのか?
明らかに不自然な程、その場で立ち尽くしている俺の脳はとてつもない逡巡でオーバーヒートしそうになっていた。そこへ、

ガチャ

再び心臓が止まりそうになる。誰だ!

「お父さん、お茶淹れたから飲んできたら?」

店主の奥さんが奥の扉から現れてそう告げると、店番を交代してレジの前に座った。

最悪だ!俺がいつまでも迷っていたから、奥さんにレジを交代された!店主のお父さんなら話も通じるかもしれない。しかし、奥さんとなれば話は別。最悪の場合、「あんたどこの学校?担任は?」などと詰問された上に通報。俺の全てはそこで終わる。エロ本のために人生を終えるなんてあってはならない!
そんな事などあり得ないのは頭の片隅のどこかでぼんやり理解しているつもりなのだが、今の自分は眼前のミッションに対する急速な緊張感で全身が硬直し始めた。
とにかく、今はこの危機的状況を切り抜けなければならない。

俺は何の興味もない「鉄道の友」と書かれた雑誌を開くと、田舎を走る列車の写真を穴が開くほど見つめるフリをした。俺が鉄道好きで鉄道雑誌を読んでいるだけのただの中学生であると周りにアピールする事で、この不毛な時間を切り抜けなければ……。

数十分経っただろうか。全く頭に入ってこない鉄道コラムのページを読んでいた頃、店主が奥の扉から現れて、奥さんと交代した。

もうこのチャンスを逃してはならない。こうなったらクロスワード雑誌でのカモフラージュなど小手先の手段は無用、玉砕覚悟で正面突破するのみ。
脳に酸素が回らなくなり、頭が痛くなる。ふうっと息を吐き出して、俺はタイトルも見ずに目の前にある一冊のエロ本を手に取る。レジまでの距離が果てしなく遠く感じる。足も鉛のように遠い。まるで他の本を見に来たついでだと言わんばかりに入り口付近の新刊を確認するが、それは自分でも分かるぐらいの不自然な行動で、今の自分は誰が見ても不審者そのものだ。
レジまであと数メートル。あとはレジに出すのみ!

「おじさん、教科書くださーい」

気がつくと、俺は見た事も無い文豪の全集が並ぶ棚の前で、何かを探すフリをしていた。
手にはエロ本を握りしめたまま。こんな中学生が山岡荘八なる人の全集など買うわけ無いのに。
小学生が教科書を買い終えると、店内は店主と俺だけが対峙する空間になっていた。
さっきの瞬間に消え去った勇気よ、もう一度俺に力をくれ。
なけなしの気力を振り絞り、もう一度レジへ向かう。外は既に夕暮れを迎えている。タイムリミットの夕飯時まであと僅か。
震える手を抑え、まるで買い慣れていますとでも言いたげなフリを懸命に演じながら、俺は店主にエロ本を差し出した。

「600円になります」

機械的な言葉を発する店主の顔などまるで見ずに俺は千円札を差し出す。店主は札を受け取り、お釣りを渡すと、エロ本を紙袋に入れてこちらに渡した。

「毎度あり」

一瞬だけ店主の様子を伺い見ると、店主はまるで俺の全ての行動を見透かしていたかのように、眼鏡の奥の無機質な黒目をチラリとこちらに向け、再び手元の文庫本を読み始めた。

達成感による高揚と、未だ解けない緊張感に包まれたままサッシの扉を開いて外へ出る。書店の匂いから解放された外の空気は何と清々しいものか。
しかし、私には新たなミッションがある。今しがた購入したエロ本を無事に家まで持ち帰るというミッションが。ここで万が一あの宝の地図をくれた同級生に見つかったら、あるいは交通事故にでもあってそのまま病院に行く羽目になったら、もしくは体育教師が抜き打ちで持ち物検査を始めでもしたら!俺は一体どうなるんだ!!心臓が飛び出しそうだ!!!

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目覚めましたか?著しい興奮状態に入ったようなので、一旦鎮静化を促したのち、目覚めて頂きました。恐らく、あなたの人生の中でも貴重な体験をした時に遡れたのではないでしょうか。

はい、たしかに。しかし、これが本当に私の人生の中での最高に興奮した瞬間なのでしょうか?
そう考えると、少し情けなさを覚えてくるのですが…。

いいですか、体験の記憶というのは、その時の年齢や人生経験とも関係してきます。
同じ海外旅行だったとしても、若い頃に行くのと年齢を重ねてから行くのでは意味合いもワクワク具合も変わります。あなたがその時、その瞬間で感じた事が全てなのです。

そうですか…。でも、何となく分かったのは、あの時を越える高揚感はこの先も無いという諦めがついた。そして、自分から何かを掴み取るための努力もしていない事にも気がつけた。
あの時ほど己の感性は敏感ではないにしても、自分から何かを起こさなければ麻痺していく。何かが欲しければ、自分で動かないといけないんですよね。

来た時よりもかなり前向きになりましたね。何よりです。また何かありましたら、当院へお越し下さい。

そう告げた主治医の顔を見ると、あの時の書店の店主と全く同じ黒目でこちらを見透かしていた。

(了)

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