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日記未満、小説以上

朝起きるとビリビリの紙を「ん」と渡してくる息子。なんだなんだと並べてみると「ぱぱだいすき」の文字が。5歳にしてツンデレである。よき。


そんなやまだです、みなさんこんにちは。
タイトルから中身無いことがわかるかと思います。それゆえに、このnoteを見てくれてる人は情報を手に入れようとして見てくれてるわけではない、という絶大なる安心感があります。ありがとうございます。筆が進みます。

さて、そんな僕ですが最近 #クリエイター本 というクリエイターさん向けの本を書いておりですね、割と極まってきました。

結構専門的な内容も詰め込んでるのでミスしちゃいけない...となって自分の能力不足から「あぁぁぁ!!!」ってなってたんですが、ふと「あれ、僕には頼りになる友達がいるぞ?」と思い至り、甘えさせてください!と連絡した結果、みんな快く協力してくれて、書籍のクオリティ100段くらい変わりました。普通にあのまま出版してたら回収騒ぎだっただろうな、というのがチラホラと。まじでみんなすごい。すごい。


と、友達自慢をしたいわけではなく(それもちょっとあるけど)、あれがない、これがないって思っているときには見つからなくて、持ってると思っているときには見つかる、そんなもんなんじゃなかろうかとよく思うようになりました。

「成功するためには、◯◯が必要だ」と、その◯◯を身に着けたり、手に入れたりしようとするときそれはなかなか身につかなかったり、手に入らなかったりするのに、「成功している」という前提を置いて、周りを見渡してみると◯◯になるようなものが沢山自分の周りにはあるし、なんなら自分自身もその◯◯を持っていることに気づいたりします。


たとえば僕、「作家になりたいなー」って多分昔から結構思ってたんですが、なんというか夢?みたいなものはこっ恥ずかしくて誰にもはっきりとそうは言ってないし、なんとなくこの「作家」というものをめちゃくちゃ難しいものに定義して「まず、賞はとらないだめだよね」「フィクションも書けないと」「本も出版する必要がある」「専業じゃないと...」みたいな固定観念が結構結構あったのです。

そうは言っても書くのは好きなので、mixi日記を書いて、長文のFacebookを書いて、ブログを書いて(きりくちぶろぐ)、noteをこうして書いてて、あるとき、「あれ?僕って作家じゃね?」ってふと。
というか、僕が同じように作家になりたいと考えて、同じように書いてる人見たら、その人のことを「作家」と間違いなく呼ぶんですよね。なのに自分だけはそこの外に置いて話をしていた。不思議なものです。

一旦自分のこと「やまだは作家なのではないか...?」と疑い始めてからは、自分が作家であるということを根拠付けるものを沢山持っていることを見つけ始めました。

たとえば、誰に頼まれるわけでも、誰に読ませるわけでもないのに毎日一定量の文章を書き続けていること、おもしろいことに出会ったときに「どう書こう?」って最初に考えること、自分の書いたものを褒められると他のどんな成功を褒められるよりも嬉しいこと、「作家」「小説家」「物書き」「文筆家」という言葉に敏感に反応すること、会社のVisionを伝えるためや採用のためというよりもただただ書くために書いていること、そんな多くの(自分的な)「作家」である証跡が見つかりました。
つまり、僕は作家になりたかったのではなく、作家だったのです。

そうすると、「別に賞をとってなくても素敵な作家沢山いるしなぁ」、「逆に専業じゃないほうがかっこいい作家かも」、「紙の本以外の伝え方があってよかった」、「フィクションとノンフィクションなんてとても曖昧なものだよね」、などなど、◯◯をしないと「作家」ではない、が全部「そんなことないよね」に変わったのを感じました。不思議ですね。

つまり僕は、作家なのです(しつこい)。


こういうのが至るところで起こっています。
「◯◯しないと、『  』とはいえない」の◯◯は全て必要ない。
そして『  』だと自覚して以降は、必要なものは全部持っている。今手元にあるかどうかは重要じゃなくて、これだけ多くの情報を無意識化で入手してる僕たちは、自覚後はそこからちゃんと必要なものを見つけることができるようになる、なんかそんな感じです。



そうすると、「え、あれとあれも繋がるの!?」みたいな、今まで無関係だと思っていたものたちによる繋がりみたいなものが見えてきて、日々感動します。まじで。
あのとき、あの瞬間、あの人と一言喋ったから、これ生まれたの?みたいな。

「瀬戸内のスタートアップコミュニティがあったから、ファンド生まれた」

くらいの解像度だったものが

「カレーパーティーに行ったから、ファンド生まれた」

くらいになって。さらに

「ブログ書いてたから、ファンド生まれた」
「大学編入したから、ファンド生まれた」
「目が死んでると言われたから、ファンド生まれた」
「小2でサッカーはじめたから、ファンド生まれた」

・・・みたいに永遠に遡れるし、認識できてない多くの物事のきっかけもあったんだろうなって思いを馳せることができるわけです。

となると翻って、今この瞬間の目の前に広がる全てのことがとてつもない可能性の塊だと実感するのです。今までのあらゆること、これからのあらゆることが今ここにある。なんかやばくないですか?

そう実感したとき、生まれるのは「ありがってぇ」という感謝の気持ちなんですよね。
ネテロがなんであんなに感謝ばっかしてんのか、当時はよくわかってなかったんですが、この気持ちだったのかと!(遂に、ネテロの境地まできました!)。


僕、子どもの頃からタイムリープが怖かったんですよ。
過去の自分がどれだけ頑張っても、絶対に今より悪い未来になるから。

今の自分が出来上がるまで、どれだけ多くの幸運を手に入れてきたのか、それをもう一度手に入れられる気がしないんですよ。普通に今の年齢になる前に死ぬ気がします。

その意味で、子どもの頃からうっすらとですが、このあたり感じていたのかもしれません。昔はただただ「絶対タイムリープしませんように!」という怖れにしかなってなかったんですが、これひっくり返すと、「今超いい!」ってことだって気付いてからは、おそらくタイムリープしたらしたで、そっちでもまた多くの幸運ゆえのおもしろい人生歩むんだろうなって、恐怖が消えてなくなりましたw


あれ、なんの話でしたっけ?
僕が作家だったという話ですよね?たぶん。

あーしかし、こういう文章書くの本当に楽しい。ずっとやっておきたい(といいつつ、書くのが楽しいってなるまで色んな事考える時間あったほうがいいってのもわかってはいる)。

タイトルの「日記未満、小説以上」も、ある種、こういう日記未満の文章が小説より価値がないってなんで思ってたんだろう?って気付きの発露だったりします。
あーいい時間だった。
おあとがよろしいようで。



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