インターネットに文章を書くこと。否定とか誹謗中傷とか。
なぜ僕らは、これから先自分の人生に全く関わってこない人の否定や誹謗中傷でさえ傷ついてしまうのだろうか?
これだけインターネットに文章を書いていると、変な否定や誹謗中傷もたくさんもらう。特に最近はXやスレッズ投稿で遊んでるのでよく来る。そしてその大半は的外れ。ちょっと何言ってるかわからない。てか多分、日本の中で、「文章」をちゃんと読める人は思っている以上に少ない。しかも、その上で会ったことない人に対する振る舞いを知っている人はさらに少ない。基本的にはほとんどいないと思っておいた方がいいかもしれない。
リアルでも少ない。今仲良くしてくださってる人たちは本当にレア。僕の人生において、そういう方々と共に歩めていることは望外の幸せ(いつもありがとうございます!)。
その上で、インターネット上の批判等については、基本無視しか方法論がない。なぜなら議論にならないから。何度前提を擦り合わそうとしても、反射でしか反論がこない。意味ない。そのやり方だとうまくいかない。ということはもう無理。でも、誰にも言わないと自分の中に沈殿していく。かといって、周りの人に毒を撒き散らすのも違う。困る。
ただ最近この「ただ書く、よ。」については、批判が少ない。ちょっとだけ説明すると、この文章スタイル、読めない人が多いんですよ。僕としては文体のようなものも生まれてきてるのかなーって思うんですが、なかなかどうしてキャッチーなタイトルと太字に慣れてしまっている人は、一見何も言ってないこの文字の羅列は読みこなせない。だからかなり読者の方を選ぶ。けど、この文章の感じが好きと言ってくださる人もいる。そういうものなのかもしれない。
つまり、この書き方だと、ちゃんと読んでくれようとする人、意味がわからなかったら、いや、意味がわからなかっても自分の中で解釈を作って消化してくれる人、そういう人しか残っていない。これは実はすごく幸運なことなのかもしれない。
しかもこの書き方、一筆書きなので、ちょっと論理矛盾というか、わかりにくいところが1つのnoteの中に含まれる。普段のロジカルバージョンの頭を使う時は、思わず直しちゃうようなところがそのまま出てる。でもその雑味は、きっと個性になってる。何かを仕上げないといけない時になくなってしまうようなものこそが、AIにつくれない最後の人間らしさになる可能性さえある。
大人になってだいぶ経つ。というかあまり変わってる気はしないけど、経験みたいなものは増えていく。そんな僕でも誹謗中傷は凹む。ちょっとしたことで、1日頭をよぎってしまう。別に強くなったわけじゃない。鈍感になっただけ。
まだ慣れてない人、これから文章を書く人。インターネットに文章を書くことが怖い人、そりゃいると思う。すごく気持ちがわかる。書かなくて幸せがあるなら無理に書かなくてもいい。でも何かチャンスが欲しい時に、「インターネットに文章を書く」というのは割と誰でもできる良いアクションだとも思う。それでも怖い人は、こういうのもやってるので相談してくれたら嬉しい。
悪い感じで書いたけど、基本的には文章を書くと100件中99件はポジティブな反応か無反応です。1件が頭に残り続けるだけで。あ、ということは1件の否定はもしかしたら誰かに覚えて欲しいだけの孤独な人なのかもしれない。そう思えばその否定も可愛く見えるのかな?いや、無理か?わかんない。
実際に批判があった時は、物語の中に逃げ込む。結局その時間、自分を切り離してメタ的に人生を見ることができる時間がいる。癒しは、絶対に自分が傷付かない世界に没頭することで生まれるのかもしれない。小説がいい。しかも紙の小説がいい。僕はその中では、智だし、真兎。彼ら彼女らの人生にお邪魔できる。再び自分に帰ってきた時、さっきまで痛んでいた傷は少しだけ癒えている。