「べき」という言葉遣いを辞めたらステージが変わったお話。
さて、いきなりですがみなさん、今日何度「べき」って使いましたか?
たとえばこんなのはどうですか?
「子供は生むべき」
「大学には行くべき」
「真面目に生きるべき」
いやいや、それだけが全てじゃないでしょ。
なんで正解みたいに言うのよ?
余り強い言葉を使うなよ。弱く見えるぞ。
ではこのあたりは?
「大人になったら独り立ちするべき」
「男はモテるべき」
「人には優しくするべき」
「子供を産んだら育てるべき」
「家族は仲良くすべき」
「運動はするべき」
「働くべき」
これならアグリー半々くらい?もっといるかな。
さらにこの辺はどうですかね?
「仕事は結果を出すべき」
「時間は守るべき」
「欲しいものがあるなら頑張るべき」
この辺は、結構みんな同意してるんじゃないかなー。
そしてここでおもしろいのは、上の方の「べき」論はちゃんちゃらおかしいと笑い飛ばすバランス感覚の持ち主であっても、下の方の「べき」論を無意識的に前提としていて、これとは違う「べき」論を持ってる人と会話ができていない。
そういうぼくも「仕事は結果を出すべき」と思っていて、「仕事は楽しむべき」という風に考えている人とよく噛み合わない議論をしていたりする。会社やチームとかだとこの辺の信念体系をある程度統一させておいたほうが目的を達成しやすくはなりますね。
というのが前段。
本題はこっから。
仕事における在るべき姿
自分の仕事って「こう在るべき」ってありません?
無意識かもしれないけど、たとえば、
「仕事早くやるべき」
「MTGは生産的にやるべき」
「クライアントの期待を超えるべき」
みたいなやつ。
自ら試行錯誤して掴んだものや、尊敬する先輩からの教えだったりを取り入れて作った「自分の仕事はこう在るべき」という信念。
仕事に対してまじめであればあるだけ強固なものができあがる。
その信念に従って仕事をする限り、
「◯◯さんは、こういうときにこういう風に仕事をしてくれる」
という信頼が生まれ、仕事の成果は上がっていく。
素晴らしい。
それは一種の理想を創ること。
ちょっとここで、「できるビジネスマン」の「べき」を並べてみようと思う。
「仕事は価値を出すべき」
「生産性高く働くべき」
「仲間は大切にするべき」
「量・質・スピードで驚かすべき」
「締切は死んでも守るべき」
「信頼は積み重ねるべき」
「結果を出すべき」
「成長すべき」
「社会を次に進めるべき」
・
・
・
という感じかな?
こういう「できるビジネスマン」いたら、きっとすごく頼りになるんだと思う。
だけど1つだけ、
本当にそれだけかな?
「べき」を疑う
「べき」というのは、ある種、理想に対する願いなんだとおもう。
だからこそ「べき」と使う時ものすごいエネルギーが出ることがある。
何かを達成したいときに、信念を固めて、突き進むのは美しくさえある。
だけど、その「べき」にどれだけ納得感あろうとも、美しかろうとも、あくまで1つの信念にすぎない。唯一無二、絶対普遍の真実なわけではない。
これだけ変化というものが日常になっている現代において、「べき」を固定させ続けるのはあんまりよくないんじゃないかな。
「べき」ってやつは、強烈な成功体験や失敗体験とセットで、学び深いものになっている事が多いから、そこを疑うのは結構難しい。
だから単純に自分が
「〜べき」
って言った時、ちょっと立ち止まって
「本当にそうかな?」
って考える癖をつけてみる。
たとえば、
「仕事は価値を出すべき」
→「本当にそうかな?」
→「価値を出さなくていい場合があるとしたらどんな場合だろう?」
→「たとえば、自分がめっちゃ楽しいときとか?」
→「でもこれって結果としてより多くの価値出そうだな」
→「だったら、「価値を出すべき」と「楽しむべき」は矛盾しないな」
→「むしろ「価値を出すべき」ということでプロセスの充実度を下げるかも」
→「使わないほうがより良くなるかも!」
みたいなことをやる。
そうすると、新しい考えに思い至ったり、2つの対立すると思っていた概念がより高次元で1つになったりする。
僕は色んな人に出会ったおかげで
「弁護士はこうあるべき」
「ビジネスマンはこうあるべき」
みたいな囚われから上手く抜けられ、日々楽しくなっていきました。
これを自分で起こすために、「べき」に「本当にそうかな?」を取り入れたら、思いの外良かったので、「お、それもいいね!」と思う人がいたら是非ともやってみてくださいー。
そして、
こんな「べき」に囚われてたわ!
みたいなのあったら教えて下さいね。
僕の気付いていない無意識の「べき」があって、それについて考えてみたいので。
おあとがよろしいようで。