なぜ創作に価値が生まれるか
芸術とはなにか
最近、立て続けに美術に関する新書を読んだ。その中で言及されていたプロフェッショナルとしての創作論について、本記事ではまとめてみる。
わたしは美術館が好きだが、美術方面の知識はほとんどない。何となく油絵を好きだと感じているため、絵画の企画展に行くことが多い。
美術館では、解説でその作品が生まれた背景を説明しているため、ぼんやりと芸術の潮流らしきものを感じるものの、なぜそれが価値を持っているのかは考えていなかった。
絵画であれば、その佇まいや歴史によって価値が生まれたことは理解できる(もちろん、生前に価値が発生しなかった画家は多いが)。
しかし、現代アートになると、理解に苦しむ点が多い。そもそも、その作品を欲しいと思えないのである。欲しいと思えないとは、それにお金を支払う価値がないと感じているということだ。
なぜ価値を感じないか。そのもの自体に感情を揺さぶられづらいからかもしれない。
絵画であれば、色彩の美しさや筆致の荒々しさ、モチーフから想起される物語など、さまざまな価値基準を見出せる。
一方で、現代アートは創作過程に意味を込めているものが多くある。その作品がつくられた意図を理解しなければ、それはわけのわからないものでしかない。
これはピカソの絵を「小学生でも書けそうだ」と言われた場合と同様に、誰がどのような意図をもって創造されたかに力点があるのだろう。たとえば、旧来の手法を刷新するためのキュビズムやシュールレアリスム作品と、素人が適当に描いたものに類似点があっても、その価値には天と地ほどの差がある。
価値は創造しなければならない
参考文献に挙げた二冊で共通しているのは、「芸術が売れない」ということに対して、「売ろうとしていない」という点がある。
美しい絵画を無名の画家が描いたとして、一体どれほどの値段がつくか。運がよくパトロンが見つかる可能性は、限りなくゼロに近いだろう。
そこで、思考の転換が必要となる。山本が言うように、価値のないものに価値をつけることこそが創造なのである。
そもそも、絵画というものそれ自体は、キャンバスと画布、絵具等の値段を原価として考えると、数億円にもなることは不思議なことである。そのことを貨幣を用いて山本は説明している。
貨幣はそれに価値を付加している国家がなくなれば無価値になる。同様に芸術作品も、それに価値があるという共通認識がなくなると、現在のような価値は失うだろう。
では、いかに価値を創造するか。それこそが創作であり、お金を稼ぐプロフェッショナルであると定義している。
《世界で一番ゴッホを描いた男》というドキュメンタリー映画がある。中国でゴッホの贋作を生業としている男性が、本物のゴッホの作品を観るために美術館へ訪れる。自身の贋作はよく売れると聞いていたため、美術館のどのようなスペースに展示されているか期待するが、実際には美術館外の売店で雑に売られている。
創作を学ぶために真似ることは大切かもしれないが、真似たものを創作としてしまうのは剽窃になってしまう。
また、何かに似ている作品は「オリジナリティ」に欠け、ある種の愛好家の間ではもてはやされる可能性はあるが(二次創作や異世界転生など)、その外へと価値を波及させることは難しくなる。
創作の天国と地獄
好きなことを好きなようにやって評価される。これを理想かもしれないが、実際はそうはならない。多くの画家が生前に評価されなかったのも、ここに原因があるかもしれない。
では、プロフェッショナルはどうするか。
プロフェッショナルは批評されうるような創作を行う。そこには地獄のような苦しみが伴う。
もしも、創作を趣味として行うのであれば天国である。大多数の評価を気にしないのであれば、井の中で褒められる作品を好きなように描ける。
しかし、ひとたび外へ出ようとすると、さまざまな視点からの批判にさらされる。その結果、好きなものを嫌いになってしまうかもしれない。それが挫折である。
マンガ『ブルーピリオド』で「なぜ絵画なのか」という問いかけがある。それは、その絵が上手いか下手かではなく、どのような意図をもってその作品を世に放ったかという理由を問いかけている。
カメラが登場し、ベンヤミンが「複製技術自体の芸術」について論じたように、現在はさまざまな技術の発展により「芸術とはなにか」が強く問われている。
文芸における価値とは
上記は美術方面の言及だが、同様の問題は文芸にも問われている。
誰もが文字による発信ができる時代において、私小説はどこまで可能か。
多様な社会問題があるなかで、自分事の問題を取り上げることと他者としてその問題を描くことの価値判断。
AはAであると主張するには、Aである理由を肉付けしなければならない。その理由付けが創作であり、地獄への入り口である。
ネット世界の情報が玉石混交と言われて久しいが、残念ながら出版されている書籍も玉石混交である。ひとつのマスを狙い撃ちした自己肯定するだけでは、それはある種の同人活動の一環でしかない。
創作者の言葉を他者へと届けるために必要なこと、それこそが創作である。
参考文献
横尾忠則『老いと創造』講談社現代新書
山本豊津『アートは資本主義の行方を予言する 画商が語る戦後七〇年の美術潮流』PHP新書