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【活動録】8月6日
こんにちは。カムクワット読書会です。
本日はひさしぶりに渋谷で読書会を開催しました。
一名の方が急用のため参加できなくなってしまったため、一対一で実施しました。
坂上秋成「陽炎のほとり」
今回の課題作品は『文學界2022年8月号』に掲載された坂上秋成さんの「陽炎のほとり」でした。
過激ないじめ描写に心を折られながら、主人公と浜内といういじめ被害者が心を保つための姿勢に注目しながら読みました。
いじめは悪いことだけれども
いじめは良くない。大半の人がうなずくと思います。しかし、その中にはいじめをしなかったと胸をはって言い切ることができる人は何人いるでしょう。
目を背けてしまいたくなる過去、あるいは目の前のことであっても、自己正当化の技術を駆使してその事実を無視してしまうことは誰にでも起こりうることです。
この作品のいじめっこたちは読者が見せつけられる一面は心がないような悪者ですが、後輩思いのクラスの人気者という一面をもっています。
彼らは彼らなりの自己正当化によって、主人公たちをいじめているのです。
いじめられる側が悪いのか
では、いじめられる側に原因があるのでしょうか。作中でも被害者二人が他人の気をたてる行動が描写されています。性格も決して人当たりが良いわけではなさそうです。
それはいじめられる理由となるのでしょうか。これはもちろん違います。誰にも誰かを傷つける権利はないと思います。
何となくですが、わたしのこのような考え方は、『空の境界』や『戯言シリーズ』の影響を受けているような気がしました。戯言だけど。
わたしであること
いじめの描写に目を奪われてしまうのですが、本筋はいじめられている二人の生きざまだと思います。
母親に心配をかけまいとしていじめの痕跡を隠そうとする主人公と、「神様」の言葉によって自分を律している浜内は、それぞれに異なる形で彼ら自身であると思います。
それは、誰かに強制された「あるべき」姿ではなく、「ありたい」姿なのだと思います。つまり理想の自分です。
もちろん、いじめによる屈辱で傷つくこともありますが、それによって理想を歪められることの方がより屈辱なのかもしれません。
理想を抱いて溺死する
物語の転機は浜内がいじめる側にまわったことでしょう。過激化するいじめの重荷に加害者側が耐えられなくなったためでしょうか。いじめっこ二人は主人公と浜内に対して、それぞれに相手をいじめるように勧誘します。まるで囚人のジレンマゲームのようですね。
浜内は神様の言葉に従っていじめる側にまわりました。それは猛烈な勢いでした。
それに対する弁明は、いじめが終わったのだから正しいことをしたという自己正当化でした。
彼は砕けた理想が無垢であるという幻想を抱いて生きていきます。
主人公が浜内の神様にみた憧れは、虚構のゆらめきであり、虚構を信じられなくなったら消えてしまいます。
浜内のノート
神への祈り、数字を書くことが祈りだった。そのノートが主人公の手によってバラバラになり、川に沈んでしまうラストが鮮烈でした。
浜内の黒い石
祭壇のような仰々しいものを想像していたためか、主人公は浜内の部屋に拍子抜けしたような描写がされています。しかし、気になったものが「つやつやと輝く大きな黒い石」が描写されていたのですが、これに関する言及がなく、物語は閉じられました。
わたしも、参加者の方もこれは気になったのですが、何か元ネタがあるのかもしれませんでペンディングしてしまいました。
何か知っている方がいらっしゃいましたら、ご教示いただけると幸いです。
おわりに
いじめは非常に話しづらいテーマでした。意識しないで話していると、正義の視点からの言葉が出てしまいそうになるからです。
この作品のすごい点の一つが、「いじめって悪いことだよね」と主張していない点にあると思います。
わたしもできるだけその思いで話せていたら嬉しいです。
次回について
川野芽生さんの『無垢なる花たちのためのユートピア』を課題作品に、渋谷で開催予定です。
一部、作品が無料公開されているので、興味がある方はそちらを読んでみてからでもご参加いただけると嬉しいです。
それでは、良い週末を。