SDGsのボードゲームをしてきて、ちょっと感動した話
縁があってSDGsのボードゲームをしてきた。
SDGs:ボードゲームとしてのデザイン:ゲームのインストのノウハウ
= 2 : 6 : 2
くらいの興味のモチベーションで、
ゲームへの姿勢としては、単独勝利のために他の地球を全部焼き払ってやるぜ!と『ぼくらの』のような意気込みで参加した。
実際にやってみると、知っているボードゲームの幅が狭くて申し訳ないのだけど、それ自体は率直に言えばゲーム性を取り払ったカタンのようなプレイ感覚だった。
ゲーム内容は、各プレイヤーに与えられた公開された目標を目指して、手元の「時間」「金」カードを、「プロジェクト」カードと一緒にゲームマスターの元へ随時持っていき、プロジェクトのアクションを実行するという流れで進行する。
アクションをするとこれら資源となるカードが返ってきたり、世界を表すゲージが増減したりする。
個々人に与えられた目標を各々が勝手に目指すと、世界がめちゃくちゃになっていくね……!というのが概ねのコンセプトだ。
素人目に、ゲーム性を損なっている部分がいくつかあった。
まず、勝利条件が曖昧である点。
次に、行動順が用意されていない点。
最後に、世界に与える影響を踏み倒せる点。
1つずつ触れる。
①勝利条件が曖昧
各々に配られる目標カードは、具体的な文章と曖昧な文章で構成されている。
「お金を1500㌦以上集めること。そして世界がお金を使える状態であること」
こんな感じ。
②行動順が用意されていない
トランプのスピードのように、手番の概念がない。全プレイヤーはゲームマスターの前に列を成し、アクションを行う。並んでいるときに状況が変わりカードが使えなくなることもある。その場合は席に戻ってまたカードとにらめっこする。
ここに挙げたのは、リアルな素早さを求めるカードゲームが好きではない、という私怨も混じっている。
③世界に与える影響を踏み倒せる
例えば、経済ゲージを上げると環境ゲージが下がったりするが、ゲージに0より下がない。よって、環境悪化のコストを踏み倒してアクションが行える。
そして、これらの一見洗練されていない要素が、巧妙にゲームの啓蒙性を上げていた。
①勝利条件が曖昧
勝利条件の後半部(世界がいい感じなこと)が曖昧なため、ゲーム中に勝利条件の前半部(お金を1500㌦稼ぐ)を満たした一部のプレイヤーは、それ以降世界ゲージの改善らしき行動に際限なく取り組まなければならない。
どこまでやれば世界がいい感じか分からない上、そうでもなければ特にすることが無くなるからだ。
SDGsのゲームだしなんとなく環境とかも見とくか……という意思も働き、強制感がなく世界ゲージの改善に取り組む空気になる。
その結果、最初はバランスを欠いた開発をしていたけれど、皆で考えた結果世界がいい感じになるよね、という想定シナリオが概ね自然に達成される。
②行動順の用意がない
ターン制ではないことで、待機時間に会話が生まれている。前述したカタン要素として、このゲームではプレイヤー間で自由にカード取引の交渉ができる。おそらくターン制では立ち話は生じないし、パスが多くノイズになる。そして、カードをじっくり読む余裕が生じてしまう。
アクションカードの中にはフレーバーとして児童労働など倫理的に怪しいとされる行動を表すものがいくつか含まれていて、プレイヤーはスピード感に乗せられてあまりフレーバーを読まずに使用し、ゲーム終了時に指摘を受ける。
③世界に与える影響を踏み倒せる
元々のゲームデザインが序盤は世界のバランスが悪くなるように作られているが、世界を一度メチャクチャにするのが最もアドが取れる行動のため、ゲームとしてプレイするほどその傾向に拍車がかかる。
①で述べたように後半戦では揺り戻しが来るようになっているため、メチャクチャになっていた世界を皆で修復する体験がより成立しやすい。
私は元ネタのある、何かを再現しようとしていて、その再現が巧妙なゲームデザインを知るのが好きだ。
例えばポケモンカードにおけるマーイーカには、混乱すると進化する効果を持つものがいる。ポケモンカードでは混乱したポケモンは逆さまになる。このマーイーカは、本編ゲーム内でのマーイーカの進化方法がゲーム機を逆さまにすることの再現だ。こういうのがすごく好き。オタクはみんなそうだと思う。
これまでゲームとしての面白さを上げることとメッセージ性は表裏一体なのではと思っていたが、このゲームではメッセージためにゲーム性を損なうことに価値があったことに気づいたとき、妙に感動を覚えた。
捻くれずに素直に面白かった部分も上げるとするなら、今回のゲームマスターはあまり強調していなかったが、後半戦で積極的に交渉が行われたことこそ最も味のあるメッセージだったと思った。コミュニケーションの断絶が世界にとっての最大の障害だ。