公文式で大事にしていること
2022/5教室だより
公文式は本当に面白い学習法です。
通常、塾=学力を上げることにコミットするもの。
しかし、公文式では近年、公文で育てられる能力として『内面的成長』がもたらされることをお伝えしております。
精神的な成長、例えば、やり抜く力(GRID)とか、メタ認知力というものです。
その力を付けるために、公文式で学ぶ上でどんな心構えをしたらよいのか?をまとめたいと思います。今からお伝えすることが、私が面談等で保護者の皆様にお伝えする内容のベースにあるものです。
①毎日の学習&家庭学習がベース
世の中、日々の生活の中で、勉強を『やる』or『やらない』のところで、戦っている家庭が多いと感じます。魅力的な刺激的なものが多く、子どもがシンプルに勉強を楽しいと思わない世界になってきている。ゲーム、アプリ、動画に慣れた子どもたちが、自分から学習に向かいあうようになるということは、かなりハードルが高いことであることを、私たち大人が理解すべきであるのではないでしょうか?最終的には、家庭の方針、家庭の責任です。
だからこそ、毎日学習すること、家庭でも『教室と同じように』学習することを公文式では理想にします。『きっと、できるはず』と願います。そのために、何が阻害要因になっているのか?各家庭でその環境は当然ながら異なること、そして、その環境にどっぷり浸かっている方にとっては、違和感も感じないものでしょう。
家庭でできないことを当たり前にしない、ことが大事です。できている家庭もあるものだからです。
ゆがんだ価値観等で子どもが犠牲にならないように育てようとする意識が大事です。
子育てができる期間は案外長くないのです。気付くと親がどう頑張っても子どもに響かない時期が来ます。小さいころから、子どもが自分で学ぶような生活環境を作ること、これが、『学習習慣』づくりです。
②頭を使い続けること&スパイラル方式
公文は課題に向き合う間、頭を使い続けるものでなければならないのです。途中、休み休みではダメ、『集中している』こと、多少周りがうるさくても、一心不乱に目の前の課題を解いている状況。そして、この力は弱まるものです。ゆるくダラダラ学習することが習慣化しないようにしてほしい。でも『集中しなさい』と、ガミガミ言うのは違います。子どもの自発性を強める意識が大事です。
教えてもらうことを前提に何かに頼ると、この自発性が弱まります。家庭だったり、塾だったり。『教える』ことを前提にすると子ども自身に軸足が無くなります。一見、優しく見えて、すべてやらされている、仕方なくやっているという気持ちに近づきます。
公文では、子ども自身が強くならないと前に進めない、そういう場所に置かれることで、人は強くなります。
公文で、教えるというのは表面的に分からない事を教えるというのではなく、自分で考えるためにどう教えたらいいのか?ということです。私はそれを子どもごとに接しながら考えています。
・・・一度学んだことをすぐに忘れる子がいます・・・
大体、①の家庭学習が少な目なお子さんに多い傾向です。自分で考えない傾向の子にも多いです。
公文式では、新しいことをどんどん習っていくので、一度習ったことは自分で思い出し、再現してみることで、しっかり記憶が定着します。
それをおろそかにすることで、振り出しに戻ってしまいます。
インプットとアウトプットを、繰り返すことが大事です。一回の学習の中
で、数回にまたぐ学習の中で。
また、睡眠時間が削られると、意欲や記憶力に影響します。何時に就寝させますか?日々の生活とのバランスは?客観的に考えることができるのは、保護者しかいません。大人と同じではだめです。子どもは成長するのに、多くのエネルギーを使っています。大人が想像する以上に子どもには睡眠が大事です。
・・・どういう学習をしているか・・・
ただ書くだけの、作業をするだけの学習にしない、それは学習ではないのです。学習枚数の中で、頭を使うことができているか?ということです。
なぜ、足し算のプリントは10枚なのか?1枚でも良いのなら、10倍の負担を強いる必要はありません。10枚の中で、インプット・アウトプットが実現できるから、10枚学習をする。何度も同じ問題が出てくるので、1回のプリント学習で、短期記憶では、ほぼほぼ覚えます。次の日、同じことをしたら、記憶を頼りに更にアウトプットの割合が増えます。そういう繋がり感が大事なのです。
昨日はできていなかったものが今日はスラスラとできていたという感覚、それがあれば、長期記憶にタスキを繋げます。そういう流れを教室学習と家庭学習をシームレスにすることで、作りたいのです。①と②でうまく、教室と家庭で連動できたら、どんどん新しいことも吸収して、先へ先へと進んでいけるんですよね。教室だけの学習にはしないこと、ほぼほぼ毎日学習することが、能力を高める秘訣です。
③自分の力で挑戦する~新しいところも自分で進む力
ともかく、毎日学習をし、日々自分で学び取る学習ができたなら、同時並行で育てたい能力・・・それは、自分の力で先へ進むという力なのです。
国語の力が不足していると、他の教科の伸び方に関わります。算数や英語については、分からないことを言語化せず、言語化できず、やり方だけ覚えるという方式には限界があるように思います。
ルールや法則を知り、理解し、再現していく能力が必要です。それを自分の中で落とし込む能力が国語の力と繋がっているのです。
国語は自分で教えられるとおっしゃる方がいますが、ただ会話をすることや、音読をすること、漢字を書くことだけが国語力ではありません。公文で育てたいのは、『高度な読解力』です。毎日の生活の中で、大人同士がするような論理的な会話がお子さんとできているか?子どもだから仕方がないと思わず、それができていないとしたら、大人が教えられると思ってはならないと思います。
教室が置かれた環境では、多国語のお子さんに接する機会も多くあります。通常、人は母国語で考えています。母国で何歳まで過ごしていたか?また何歳くらいの会話をしてきたか?によって、能力が足踏みします。小学校低学年で日本に移住してきた外国人のお子さんを見ていると、算数Cくらいまでは順調に進んでも、その先は苦労されています。自分の頭で考えることや、言語化能力との関係性は直結しています。言葉の力は思考力、自分で考える力の元と思っています。
そして、何より育てたいのは、本人の意欲です・・・
これは、自分ができるという感触を経て、自然と培われるものです。
自分で歩もうとする気持ち、自分だったらできるという自信、そういう力が周りを変えること、自分への評価をより前向きなものにし、自分も変わり続けていくことを肌で感じてほしいのです。目に見えない大きな力の積み重ねを感じることが意欲に繋がります。『自分でできた!』という成功体験の積み重ねは、地味に大きく効いてきます。今まで自分でできたのだから、次もできるはずだ、という自信があるから、前に進もうとします。
ここで、いつも大人が関与したら、どうでしょうか?自分でやろうとする前に、いつもサポートしてくれる大人の顔がチラつくようになります。
私は、教室で多くのお子さんを拝見していると、自然に親子の依存関係の強さ・弱さ、子どもが自分で進もうとする力の強さ・弱さを感じとってしまいます。自分の足で歩いている子は、教材進度もどんどん上がっていきます。
子どもが自分で歩けるように、どうしたら自分で歩けるようになるかを考えることこそが教育の最大の目的なのではないかと感じます。自分の力で未来を切り開いて行こうとすることに一番価値があると私たち大人は思うべきではないでしょうか?
余談ですが、子どもが転んだ時、親が『きゃ~大丈夫??ケガしてない??』と駆け寄ると、子どもは大泣きするが、見て見ぬふりをすると、案外子どもは自分で立ち上がってケロッと歩き出すことは良くあることです。
子どものことは大事に育てたい、でも、それを出し過ぎず、それで子どもが弱くなってしまわないように、大人側のふるまいも考えたいところですね。
『メタ認知力』という言葉があります。
自分のことを自分だけの世界で理解しているというのは、ザ・子どもです。
自分のことを客観的に分析できる能力、将来、誰かと仕事をするという役割になれば、必ず必要になる能力です。今、目のまえにできないことがあるとして、『できない』=『ギャ~!』となるのではなく、できないことはなぜなのか?本当はできるはずではないのか、と考えること。ここまでは分かっているけど、ここから先が分からないから、先生に聞いてみよう、等、客観視しながらも、前を向いてミライをより良い方に切り拓く力です。
一見難題が出て来ても、すぐにできないと諦めたり、逃げることなく、今までできないことも、できるようになってきたのだから、今できないように見えていることはなぜなんだろう?と第三者のような気持ちで冷静に分析することができる、そういう力が、公文を続けてきた子たちにはあるのです。
そう思えないのであれば、大体は、それまでの依存関係が糸を引いています。
敢えて依存と書きましたのは、子どもが甘えることには、少なからず親の甘えさせるという意識が強いと思っているからです。子どもが甘えて親の方が仕方なく・・・という一方的な関係があるというよりも、子どもが甘えてくるという面もあり、親も甘えさせるという面もあり、どちらがどうという関係ではないと感じるからです。
甘える、甘えさせるという関係が良い悪いというつもりもありませんが、家庭や親子によって、その濃淡は変わります。薄すぎると『放置』となるでしょうし、濃すぎると『構い過ぎ』となるでしょう。そのバランスは家庭ごとに違うのは当然です。ただ、客観視することがなければ、いくらでも極端になってしまうというリスクがあります。
そして、子どもが伸びていない場合、その矛先を子どもに向けることの無いように願います。たいていは、子ども自体に非があることなど無く、そこまで導いてきた自分の責任と思い、家庭環境、言葉かけ、関わり方等大人側に矛先を向けるべきなのです。それをできないからと、何かに丸投げにしないこと。
そういう変化を子どもも自然に感じ取っています。私たち公文教室の先生も経験の中で、子どもの雰囲気が気になるなと感じたら、自分たちの姿勢や考え方が間違っているのではないか?という自責の気持ちを持つべきと学んできました。人を教えるということは、自分の至らぬ点を反省することと表裏一体です。これもまたメタ認知であることと心得ます。
子どもたちが自分の足で自信をもって歩めるように、ご家庭で悩まれたことがあれば、どうぞ遠慮なく教室にご相談ください。私もそうですが、自分のことを自分で分析することは大変難しいことです。それぞれのお子さま、ご家庭を客観的に捉えながらも、ご家庭に寄り添いながら、お子さまの成長を一緒に願いながら、どういう方向に進めばより良くなるか?を考えるのが私の仕事と思っています。東郷