あゆみ(通知表)
あゆみが返ってきたご家庭の保護者からご連絡をいただく時期です。
個別に面談は設けさせていただいておりますが、『あゆみ』との向き合い方について、この機会にまとめておきます。
①かなり早熟な子の『あゆみ』の一例(公立小)
早熟とわざわざ書いたのは、早熟であることを賢いと良い方に勘違いするのは良いとして、早熟で無いことで賢くないと勘違いしてしまう場合、それは害でしかないためです。
早熟であるため、公文の進度も相当に進み、4学年先、5学年先、6学年先とかなり難しい学習を低年齢でしている子のあゆみです。
完璧に何でもできるのでは?と思うが、知能はあるが、出し方も大人びてはいても、整っていない部分が当然あります。
・・・そんなものだと思います。だって賢くても、まだ子どもではある。
ほとんどがAではあるが、Bもある。
AとBの境界線、私が実際、学校に聞いたところによると、
Bは8割、上位1割がA、下位1割がC
要はあまり差が付かないように、我が子を他と比べるのが親の特性だから、差を付けたくないのかもしれない、確実に差があるものだけ、AとCを付けるという方針のよう。
そういうものなのだけど、そういう説明は学校はしてくれない。
当然学校もトラブルを避けるのは当たり前。
「なんであの子はAでうちの子はBなのですか?」と聞かれたら、困りますよね。
だから、ずば抜けていなければ、Aは付かない。
では、Aを付ける判断基準は?
時折、学校で出されるテスト(学校が作ったものではなくて、業者のドリルに付いているようなもの、カラーの上部な紙のもの)で100点がほとんど、たまに90点というような場合にはAが付く、
ただ、子どもなので、公文でかなり上の学習をしている場合には、どうしても授業がつまらないとか、同じレベルで発表をするのがイヤだというようなこだわりが出てくる、少し知ってるよ感を出すと、途端に、先生はマイナス評価を付ける。
公文が良いとは分かっていても、子どもの行動が先生の意に反すると、授業に協力的では無い子や、先生の鼻に付く子はオールAはもらえない。
そういう粗削りなところも含めて小学生。
①と②は上述したテストの結果、表面が①、裏面が②に該当する。授業点も少しは含まれるかもしれないけど、トラブルも想定して、あまりそこからは逸脱しない。
③は、授業の出席態度。簡単にいうと低学年では「手を挙げているか?」
高学年になるに従い、「先生の授業の意図が分かって授業に参加しているか?」
だから、担任の先生との相性は正直大きい。
どうしても、人なので相性合う、合わないはある。
あと、公立小の先生は、とても素敵な素晴らしい先生もいる一方、そうでも無い先生も当然いる。当たり前だし、どこまで要望を出していいものか分からない世界でもある。絶対君主というか、会社員のように360度評価をされているわけでもない、生徒保護者が顧客という意識も低い、職人に近い、それぞれの先生の個性がモノをいう世界。公文の先生も同じ、ただ、結果はある程度自分の収支に繋がるのが公文の先生だけど、学校の先生はそこまでシビアでは無いのだから、自分がしたいようにする人も多いと聞く。そうではなく、いつも切磋琢磨している先生も私が出会った中にはいらっしゃるので、本当に人による。
①、②の客観的データはクリアした上で、担任の先生がどこまで子どもを認めてくれるかというところが評価の結果に繋がる。
評定3をもらうには、多分、Aが2つ以上無いとならない。①基礎的なことはできるが、②応用ができない子だと、③の授業態度等は難しい傾向にあると思う。①はできて、③も頑張るけど、ちょっと②の応用は苦手だよねという感じだとAは取れる。
あゆみを見て一喜一憂するのが親だけど、正直5、6年生までの評価はあてにならない。もちろん、できていないよりできている方が良いのだけど、幼児~4年生までの間に何をさせて来たか?ということの方が5、6年生の評定オール3に繋がると感じる。(表は地域で色々違うと思うので、私の地域はそうなのね、と見てください。)
勘違いしないでいただきたいのが、
こういう『あゆみ』が理想だという意味で公開したわけではなく、
幼児期から学習し、相当に公文を進んでいる子でも、真ん中の評価が付くことは特に低学年では良くある、ただ、発達のカーブは人それぞれなので、一番下の評価が付かない限りは心配しなくて良い、
高学年になったら、ほぼ一番上の評価になることが望ましいが、
何より、親の話を聞かなくなる中高生に向かっていくのに『学習習慣が無い』&『基本的なこと①ができない』というのは避けたい。
そこから逃げたら、多分何も残らない。
せっかく6年間、子どもの日中の時間を掛けている学校を学びの場にするにはどうしたらいいのか?
出来る子は出来ない子に教える、もしくは大変な先生のお手伝いをする等、出来る子は出来る子の学びの場でありたい。
出来ない子は少しでも苦手なことを得意にする。
そう、公立の先生はとっても大変なのです。レベルが一緒ではない生徒たちにどう学んでもらうか。
子どもが多い地域だと、40人を一人の先生で教える。出来ない子に手を掛けはしても、出来る子は、ほったらかし。そうなるのは仕方がない。
だから、『公文式』と思う。
誰だって、できることはできるのだから、そこに時間を掛けられても仕方がない。
高学年になると、出来る子、出来ない子でクラスが分かれたり、受験組と受験しない組でクラスが分かれたり、塾によってクラスが分かれたり。
公立小でもそういう工夫が行われている。
また、だんだんと、年齢を重ねるにつれ、IQの差は埋まっていく。
低年齢、低学年の頃のIQの差を気にするくらいならば、2,3年後の将来を大事にする行動を今しておく、それは『公文式』にあります。
子どもの今だけ見て評価しないでほしいのです。特に低学年の場合、良い評価にならなくて、気にするのはまだ早いし、気にする前にやるべきことがある。
そして、親が今だけしか見ないと、高学年になった時、「どうせ私・僕できないし」というような自己肯定感の低い子ができあがります。
必ず賢くなるという信念を持って『公文式』を学び続けてほしい。
少し、学ばせるのが遅かったと思っても、まだ間に合います。
どこかで見た素敵な言葉を皆さんに贈ります。
『継続』
才能の差は小さいが
努力の差は大きい
継続の差はもっと大きい
この言葉を聞いて親ならばジンと来ると思います。
私もこれまで見て来た生徒さんたちから、できる、できないの違いは才能ではなく、努力や継続が大きいと感じています。
ただ、その努力や継続の大切さを知っているかどうかの差は、『親』『保護者』の生き方そのものだとも感じています。
簡単に諦めたり、子どものやりたいようにとする家庭や、出来ないことばかりに注目していると、子どもはできるようにはなりません。
できる子の親、保護者は、基本ポジティブです。
ちょっとしたネガティブで感情ぐちゃぐちゃにはなりません。
勉強をネガティブに捉えている、親は勉強しなかったけど、子どもでリベンジしたいと思っている場合も危険です。
勉強させるのは何のためですか?
もう一度、自分の心に問い直してほしいなと願います。
ちょっとした評価で短気にならないで、継続する気持ちを大事に。東郷