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綾瀬新撰組「猪苗代湖」

まだ明けきらぬ早暁、土方は予定通りに斎藤一、島田魁、久米部正親をつれて福良から猪苗代湖岸に出た。斎藤たちは福良の農民から借りた大八車にたくさんの竹竿を積んでいる。

小栗上野介から預かった御用金は、江戸の五兵衛新田に駐屯していた時に小菅の銭座で溶かして棒状に加工し、長さ三尺ほどに切り詰めた百本ほどの竹竿の節をくり貫いてその中に仕込んである。それを大八車に積んで、近藤や土方らと分れて会津に先行させた斎藤一らに運ばせていたのだった。

猪苗代湖岸には、あらかじめ村の漁師に借りた木船二艘を係留してある。四人は船に御用金を仕込んだ竹竿を分けて積んで、それぞれ斎藤一、島田魁、久米部正親を乗り込ませて湖上に出る。土方は島田魁の船に同乗した。

湖岸から五分ほど漕いで沖合に出る。

「もう、この辺でいいだろう。それぞれ10本ずつ残して湖に沈めるんだ」土方が言うと、大男の島田が「はい」と言って船に積んだ竹竿を湖水に放り込んだ。斎藤の船では久米部が担当した。節を抜いた竹竿は、御用金の重みで簡単に沈んだ。竹竿を少し残して湖に沈めると土方が「斎藤君、沈めた場所を覚えたか」と言った。

斎藤は「はい、これを目印といたします」と言って、まず、大きな石を沈めた。石には長い縄紐が結ばれている。石の重みで縄紐がするすると湖水に吸い込まれていく。「おお、かなりの深さだ」島田が大きな体を前屈みに曲げて湖水を眺めて感心した。しばらくすると沈む紐が止まった。

斎藤は、その紐を、竹竿を組んで作った小さないかだの中央に固く結んで余った紐を小柄で切った。御用金を仕込んだ竹竿と同じ長さに切り揃えた数本の竹竿を小さないかだ状に組んだものを目印としたのだ。

「斉藤君、僕に何かあれば、この御用金を頼む」土方が斎藤を見て言った。
それを聞いて斎藤は驚いた「土方さん、御用金は会津藩にお渡しするのではないのですか」
「もう会津藩は終わりだ。死が近い者に金を渡しても役に立たない。この金でスネルあたりから武器を買おうとしても間に合わない」
「はあ」
「金は生き残る者のものだ。我々、新撰組のものだよ」きっぱりと土方は言った。表情は爽快さに満ちていた。
「あ、ここに残った20本のうち10本は会津に来られている小栗様の奥方に差し上げてくれ」
「はい」

小栗の奥方というのは小栗上野介の妻、道子のことだ。小栗は新政府軍によって捕縛される前に道子を会津に逃がしている。その後、小栗は榛名山の麓にある隠遁先の東善寺で、新政府の東山道軍によって捕縛され、利根川の支流・烏川の水沼河原(現・群馬県高崎市。榛名山の麓)で斬首された。

道子は妊娠中で苦労の末にやっと会津に辿り着くと、容保のはからいで会津藩の野戦病院(日新館だといわれる)に保護されていた。道子はそこで、出産。国子と命名された。

道子は明治2年(1869)春まで会津に留まり、東京へと戻った。帰るべき場所がない小栗の家族の世話をしたのは、かつての小栗家の奉公人であり、小栗に恩義を感じている三野村利左衛門だった。三野村は日本橋浜町の別邸に小栗の家族を匿い、明治10年(1877)に没するまで終生、小栗の家族の面倒を見続けた。その間、小栗家は忠順の遺児・国子が成人するまで、駒井朝温の三男で忠道の弟である忠祥が継いだ。三野村利左衛門の没後も、三野村家が母子の面倒を見ていたが、明治18年(1885)に道子が没すると、国子は親族である大隈重信に引き取られた。大隈の勧めにより矢野龍渓の弟・貞雄を婿に迎え、小栗家を再興した。

Wikipedia「小栗忠順」より

その後、土方は、母成峠の戦いに敗れ、十六橋の戦いにも敗れると庄内藩を頼って北上するが、庄内藩は新政府軍に与したことを知る。失意のまま仙台へ向かい、そこで榎本武陽らと合流して北海道へ向い、函館で戦死する。享年35歳。

斉藤一は土方と別れて会津藩と運命を共にする。

猪苗代湖底に沈む幕府御用金は、その後どうなったかわからない。

会津磐梯山という民謡がある。僕はその歌詞の中に御用金の秘密があるような気がしてならない。

「会津磐梯山は宝の山よ、笹に小金がええまた、なり下がる」

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