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「御霊櫃峠」

ピンボケですが、写真は父の実家付近(翁沢)から見た磐梯山。猪苗代湖は右側にあります。薩長土肥の西軍(新政府軍)は、この街道を、写真前方から写真後方にある鶴ヶ城に向けて進軍してきました。

1.

現代の福島県は大きく三つの地方で構成されている。江戸時代の旧藩の名残だ。茨城県と宮城県を結ぶ海岸沿いの「浜通り」、奥羽山脈沿いに栃木県と宮城県を結ぶ平野部「中通り」、そして奥羽山脈を越えた再深部にあるのが「会津」である。戊辰戦争時、新政府軍(以下、西軍)が会津藩を攻撃するにも、会津藩が西軍の攻撃に対応するためにも、会津を囲むいくつもの山々の峠が要であった。

鳥羽伏見の戦いで勝利した薩長土肥率いる西軍は、江戸を無血開城させると、宿敵の会津藩を壊滅させるために奥羽攻めを行った。西軍の先鋒を務めるのが土佐藩の板垣退助と薩摩藩の伊地知正治だった。彼らは、会津攻め以前に甲府城攻略を狙った新撰組(甲陽鎮撫隊)を勝沼で敗走させた実績がある。板垣は新政府軍参謀であり、伊地知も同じく参謀である。奥羽攻撃時には互いにライバル視していた。

彼らは苦戦の末に宇都宮、白河を攻略したあと、守山藩と三春藩を降伏させて味方につけた。いよいよ会津攻めという時に会津に至る峠について意見が分かれた。会津に入るには勢至堂峠、諏訪峠、御霊櫃峠、三森峠、中山峠など、いずれかの峠を越える必要がある。板垣は郡山側から猪苗代湖の南側に抜ける御霊櫃峠を越えることを主張したが、伊地知は意外にも距離的に遠い北方の本宮から母成峠を越えて猪苗代に抜けることを強く主張した。結局は板垣が折れて伊地知の母成峠攻撃を採用し、母成峠から猪苗代を経て会津に入ることに決まった。

会津藩側は白河側から会津へと距離的に近い勢至堂峠などを越えて猪苗代湖の南側の湖南地域にやって来るだろうと考えて兵の主力をそこに配置していただけに、母成峠を越えて来るというのは想定外に近いことで、峠に配置した会津藩の兵力は200名と少なかった。

そこに敗戦続きで疲弊した大鳥圭介率いる伝習隊と、猪苗代城下に宿陣していた斎藤一率いる新撰組もともに母成峠に出陣。旧幕府軍も二本松奪還に失敗した旧幕府軍も母成峠に集まっていたが、いずれも強力に武装した西軍の攻撃の前に大敗してしまう。母成峠を落とした西軍は、翌日には猪苗代を経て十六橋を越え、最後の要となる滝沢峠まで進んだ。滝沢峠には会津藩主松平容保とともに土方歳三も出陣したが、これも簡単に打ち破られ、西軍はそのまま会津城下に進軍してしまう。以降は鶴ヶ城での籠城戦になり、結果的に会津藩は西軍に降伏してしまうのである。

薩摩藩の伊地知正治は天才的な戦略家であった。それを意表を突く母成峠攻撃によって裏付けることになった。

周囲の山脈が城壁代りとなって会津は守られていたが、米沢藩に三春藩などの周囲の藩は西軍に寝返り、味方もなく孤立したが最後、猪苗代、白河、日光、越後の四方から攻め込まれれば、会津は、ひとたまりもないのである。会津藩士、旧幕府軍、新撰組、市川三左衛門率いる水戸脱走兵をもってしても、数多くある峠すべてに強力な兵力を置くことは不可能だった。自然の城壁は、まったく役に立たなかったのである。

つづく…かもしれない

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