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東京万景 綾瀬新撰組外伝 「東京拘置所」

写真は、綾瀬川に架かる伊藤谷橋から見た東京拘置所。

僕はよく常磐線の綾瀬駅まで仕事に出かけます。綾瀬駅周辺は足立区ですが、綾瀬川を越えると葛飾区の小菅になります。綾瀬と小菅は隣同士ですが、この地域だけは足立区と葛飾区が入り乱れているのです。

この地域には奇妙な縁があります。その昔、新宿区の北新宿で同棲していた女性が、綾瀬に住む男性と関係しまして、彼女は僕を無視して新宿から綾瀬まで通うようになったのです。その女性とは、それ以前に神奈川県の川崎に住んでいた時にも、そういうことがありましたので、「ああ、またか」といった感じで、特に恨むとかそういうことはなかったのですが、僕も若かったので「浮気したな、訴えてやる」なんて言ってエライ剣幕で怒ってしまったのです。今考えると本当にバカみたいな話です。彼女にとっても、その方がよかったのです。結果的に彼女は良い道を選んで幸福に暮らしているようです。

さて、綾瀬というか小菅になりますが、ここには仕事をいただいている企業さんがあります。僕が出版社勤めをしているときに取材をさせてもらったり、広告を出稿してもらったりという関係で、出版社を辞めてからも引き続いてお世話になっているのです。

綾瀬駅を降りて駅の高架下の飲み屋街を東に進み、綾瀬川の手前で高架下を出て、さらに東にある東京拘置所を目指して歩きます。整備された綾瀬川の土手をのぼると綾瀬川が見えます。川には伊藤谷橋という橋が架かっています。この橋から東を見ると巨大な東京拘置所が見え、それは人工的な山のような印象がありました。その眺めは異様でした。今では拘置所の隣には、国の合同宿舎「小菅住宅」が建っていますので、異様さは緩和されましたが、昔は拘置所だけが見えました。

坂口安吾が「日本文化私観」で、小菅刑務所のことに触れています。安吾が茨城県の取手に住んでいた頃のことです。少し引用してみます。

この町から上野まで五十六分しかかからぬのだが、利根川、江戸川、荒川という三ツの大きな川を越え、その一つの川岸に小菅(こすげ)刑務所があった。汽車はこの大きな近代風の建築物を眺めて走るのである。非常に高いコンクリートの塀がそびえ、獄舎は堂々と翼を張って十字の形にひろがり十字の中心交叉点に大工場の煙突よりも高々とデコボコの見張の塔が突立っている。
 勿論、この大建薬物には一ヶ所の美的装飾というものもなく、どこから見ても刑務所然としており、刑務所以外の何物でも有り得ない構えなのだが、不思議に心を惹かれる眺めである。
 それは刑務所の観念と結びつき、その威圧的なもので僕の心に迫るのとは様子が違う。むしろ、懐しいような気持である。つまり、結局、どこかしら、その美しさで僕の心を惹いているのだ。利根川の風景も、手賀沼も、この刑務所ほど僕の心を惹くことがなかった。いったい、ほんとに美しいのかしら、と、僕は時々考えた。

坂口安吾「日本文化私観」青空文庫から転載

安吾が書いたこのエッセイは、昭和17年のこと。小菅刑務所は、大正12年の関東大震災で倒壊しましたが、その後、昭和4年に新造されました。安吾はこの建物のことを書いているのです。

小菅刑務所の歴史は紆余曲折があります。

東京拘置所は巣鴨(池袋のサンシャイン60が建っているところです)にありましたが、戦後にGHQに接収されたので小菅刑務所を東京拘置所としました。接収された巣鴨の東京拘置所は、GHQにより巣鴨プリズンと名称が変り、戦犯を収容、A級戦犯の東条英機らを処刑します。昭和33年(1958)に巣鴨プリズンを閉鎖、解体。昭和46年(1971)に小菅刑務所が正式に東京拘置所となりました。巣鴨プリズン跡地には、昭和53年(1978)にサンシャイン60が建てられました。

安吾の美的感覚を動かせた小菅刑務所の管理棟は、日本の近代建築20選(DOCOMOMO JAPAN選定 日本におけるモダン・ムーブメントの建築)に選定されています。この管理棟は現在も残っていて、東京拘置所の中にチラリと見えます。

1997年に改築工事開始、2003年に中央管理棟、南収容棟が完成、2006年に北収容棟が完成、現在の姿に至ります。

今でも常磐線の車窓から小菅刑務所(現在の東京拘置所)は見えますが、頂上にヘリポートを配置した近代的なものに変わっています。安吾が惹かれたモノとは違うのですが、僕個人としては素晴らしい建築デザインだと思います。

ちなみに東京拘置所には、ピアノ騒音殺人事件、連続企業爆破事件、連合赤軍事件、池袋通り魔事件、埼玉愛犬家殺人事件、前橋スナック銃乱射事件、マブチモーター社長宅殺人放火事件、秋葉原通り魔事件などの死刑囚たちが収監されています。

かつては、大久保清(41歳没)、宮崎勤(45歳没)、連合赤軍の永田洋子(死刑執行前に脳腫瘍にて獄死65歳)らが収監され、刑も執行されました。

東京拘置所。内部には小菅御殿の遺構があるそうです。

「下山事件」

さて、東京拘置所一帯は、戦後連合国軍占領時代に起きた大事件の舞台にもなりました。昭和24年に起きた3大鉄道事件と言われるひとつの「下山国鉄(現在のJR)総裁事件」です。GHQ(中でも資本主義の大国であるアメリカ、イギリス)は、ソビエト連邦(現在のロシア)や中国および北朝鮮などの世界の共産主義化(赤化)に恐怖していました。

3大鉄道事件が起きた年には、国鉄が人員整理を計画していて、それに反対する国鉄労組側が、3大鉄道事件を起したとされました。松本清張さんは、GHQが偽装したと推理していますが、僕も同感です。この時代には日本中がそのような雰囲気で、多くの冤罪事件も起きていますからね。日本人は権力を持つ者に従順な民族なのです。たとえ、それがかつての敵でもね。情けない事です。

さて、下山事件です。昭和24年7月5日に行方不明になった下山定則・国鉄総裁が、翌日の6日に常磐線の下り方向の線路上で、下山総裁の死後轢断死体が発見されます。死後轢断というのは文字通り「死後に轢かれてバラバラになる」ことです。

下山総裁の死体が発見された場所が、東武伊勢崎線が交差する国鉄常磐線の線路上なのですが、これが現在の東武伊勢崎線の小菅駅と五反野駅の途中であり、常磐線が交わる地点、現在の足立区五反野コミュニティ公園あたりになるのです。この公園近くの常磐線ガード下に「下山国鉄総裁追憶碑」がひっそりと建っています。

事件を捜査した捜査一課は自殺説、捜査二課は殺人説を主張しました。最終的には他殺説及び自殺説について公式の捜査結果を発表することなく捜査を打ち切られました。

「綾瀬新撰組」

旧水戸街道(正面)から続く小菅御殿(東京拘置所)への御成道。異様に広いことに気づかれると思います。拘置所直前には小菅稲荷神社があって、神社から小菅御殿に通じる地下通路があると言われています。

さて、一気に江戸時代の話になります。

江戸時代、東京拘置所の場所には、江戸洪水を防ぐ一環として利根川の付け替えなどの治水事業に貢献した関東郡代・伊奈忠司の下屋敷がありました。将軍の鷹狩りや鹿狩りの際に休憩所としても利用されました。その後、伊奈屋敷のなかに小菅御殿が建てられました。小菅御殿は、伊奈氏の失脚と共に廃止され、跡地は幕府所有の小菅御囲地となりました。その一部は籾蔵や銭座となりました。現在、銭座の跡地には西小菅小学校が建っています。

江戸時代も末期になり、大政奉還、鳥羽伏見の戦いのあと、江戸に戻った新撰組は、甲府城を落とすために甲陽鎮撫隊を結成して甲府に向いますが、甲府城は既に新政府軍(官軍)の手に落ちていて、再び江戸に逃げ帰った彼らは、京都時代に世話になった会津を目指します。

新撰組といえば流山(今の千葉県流山市)駐屯時に新政府軍に包囲されて、自分は新撰組の近藤勇だとはバレないだろうと、浅はかな考えに取り憑かれた近藤勇が出頭し(のちに板橋で斬首)た場所として有名ですが、その前に綾瀬の五兵衛新田で、隊士集めを行なうのです。

新撰組が駐屯したのは慶応4年3月13日(4月5日)からで、翌日の14日に近藤勇が、そのまた翌日には土方歳三が入りました。3月16日の時点では総員115名でしたが、松戸を経て流山に移動しようとする4月1日には総員227名になっていました。

僕はこの綾瀬駐屯時の新撰組にすごく興味があるのです。

五兵衛新田とは、現在の常磐線(地下鉄千代田線連結)の綾瀬駅から綾瀬川に沿って北に向ったところにある地域です。駅から駅前通りを渡り、少し綾瀬川方向に歩きます。駅前通りには、左に常磐線ガード下の飲食店が並び、右側には古い商店が並んでいます。初めの曲がり角を右折して北へ向うと、すぐに観音寺というお寺があります(ここには新撰組隊士の一部が寝泊まりしました)。観音寺の隣には綾瀬稲荷神社があります。さらに北に歩くと綾瀬川を貫く国道467号線が見えます。これを渡ってさらに北に進むと右手に金子家の屋敷が見えます。当時の当主は金子健十郎(左内とも称しました)でした。今では想像できませんが、当時の金子家の敷地は約1万平方メートル(野球のグラウンドほど?)、母屋は曲屋造りで、5百平方メートル(テニスコート2面分?)ありました。

新撰組といえば、近藤勇、土方歳三、山南敬助、沖田総司、井上源三郎、永倉新八、原田佐之介、藤堂平助といった多摩時代からの顔ぶれですが、この時の新撰組には、多摩時代の仲間はいませんでした。

京都で山南は脱走の罪で切腹、新撰組を脱し高台寺党を結成した伊東甲子太郎の暗殺時に伊藤に与した藤堂平助は惨殺されてしまいます。さらに鳥羽伏見の戦いで井上源三郎が戦死、京都から大阪を経て江戸に戻ると、沖田総司は結核のために甲陽鎮撫の際に戦いに参加できずに幕医・松本良順の寄宿先の浅草今戸神社で治療中、さらに綾瀬に移動する直前に盟友であった永倉新八、原田佐之介とも喧嘩別れしていました。

綾瀬は、新しい新撰組の旅立ちの地でもありました。

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