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新撰組覚書「明保野亭事件」

写真は土佐藩士の田中光顕。彼の自伝「維新風雲回顧録」には明保野亭事件に関する記録はありません。

元治元年(1864)6月10日、池田屋事件のあと幕府は、諸藩へ池田屋事件残党の捕縛を命じた。会津藩士の柴司は、京都東山にある料亭明保野亭に長州系不逞浪士が潜んでいるとの情報を受けて、会津藩士4名と新撰組の武田観柳斎ら15名の隊士と出動した。その際に会津藩士の柴司が誤って土佐藩士の麻田時太郎を槍で突き負傷させる事件が起きる。

新撰組と会津藩士たちが明保野亭に到着し、中に入ると、不逞浪士の探索を行う旨を伝えて、料亭内の探索にあたった。2階に2人の客がいたが、会津藩士と新撰組らのものものしさに驚いて逃げ出そうとした。指揮していた武田観柳斎が「逃がすな、槍で突け」と命じたので柴司がひとりを槍で突き刺した。しかし、槍で突かれた者は不逞浪士ではなく、土佐藩士の麻田時太郎であった。一説には「会津藩士の石塚勇吾が麻田と対峙している際に走ってきた柴司の槍が偶然、麻田に当たってしまった」という話もある。これは柴司の兄幾馬が残した記録である。

池田屋事件のあと、京都の治安維持について、公務執行中の誤認殺害については許容されるという特権が与えられていたようだ。当然、当時の幕府警察機関となる新撰組や会津藩士にはその特権が与えられているので、武田観柳斎が柴司に槍で突けと命じたことも認められる事だった。

しかし、会津藩は、公武合体路線で足並みを合わせている土佐藩との関係に亀裂が入ることを憂慮して急ぎ対応を検討した。事件後に奉行所同心が麻田時太郎の身柄を確保して取り調べを行っている。

一方、藩士が負傷した土佐藩士たちは明保野亭に集まり、黒谷の会津藩本陣や新撰組の屯所に斬り込むと気勢を上げた。京都奉行所は会津本陣や新撰組屯所へ厳重警戒を要請する。それを受けて新撰組屯所では終夜体制での厳戒態勢を行うなど大騒動になった。

慌てた会津藩側は、土佐藩邸まで負傷させてしまった麻田への見舞いと医師を派遣した。同時に藩の公用方、手代木直右衛門(清河八郎、坂本龍馬を暗殺したと言われる京都見廻組・佐々木只三郎の兄)も陳謝に出向いた。土佐藩邸でも会津藩との衝突を回避したいと考えており、手代木が出向いた藩邸には責任者たちが明保野亭に集まり気勢を上げる藩士たち慰留するために留守にしていた。藩士たちを解散させたあと、土佐藩邸で藩吏らが終夜体制で対策に追われた。

「新撰組始末記」を書いた西本願寺の西村兼文は、この間、千葉次郎という男が会津と土佐の間に入って丸くおさめようとするが、土佐藩側が承知しない。千葉は責任を感じて土佐藩邸の一室で切腹して死んだと記録しているが、後年、柴司の縁故にあたる会津藩の山川健次郎は、千葉次郎という男について「当時は少しも聞かなかった。何かの間違いではないか」と語った。

6月11日、新撰組屯所にいた柴司は呼び出しを受け、黒谷の会津藩本陣に向かった。途中で兄幾馬に出会い、自分に非はないことを語った。本陣で尋問を受けたあとに、新撰組隊士20名が駕籠で柴司を屯所まで連れ帰った。

麻田時太郎の方も土佐藩邸で聴取を受ける。麻田は柴の名も会津藩士であることも知らず、新撰組隊士に突かれたと話した。この聴取のあと麻田は切腹して果てるのだが、これが会津藩も厳しい判断を迫られることにつながった。麻田の切腹に関しては諸説ある。

麻田の切腹は会津藩に知らされなかったが、土佐藩邸に派遣した医師を断る姿勢から「麻田という藩士は死んでいるかもしれない。しかも自刃ではないだろうか」と考えた。それでは負傷させた会津藩としての面子が立たない。柴司に切腹を命ずるしかないと考え、藩主松平容保に切腹の承諾を伺った。この頃の容保は病床に伏していたが、身を起こして「気の毒だが、他に方法はないだろう」と言った。

それを聞いた柴司は見事に切腹して果てた。

柴に槍で突くことを命じた新撰組の武田観柳斎は、その後、薩摩藩との接触をはかり慶応2年の秋に新撰組を脱走したが、翌年の慶応3年6月22日に油小路竹田街道で斎藤一らに袈裟懸けに斬られて殺害された。

*追記

新撰組の永倉新八が語り残した記録に「新撰組顛末記」著者:永倉新八、編者:杉村義太郎(新人物往来社 1968年10月20日発行)がある。小樽新聞の記者吉島力が、当時小樽で暮らしていた永倉に聞き書きしたものだ(大正2年3月~6月まで小樽新聞に連載)。編者の杉村義太郎は永倉新八の息子で、亡父の十三回忌(昭和2年)を迎えて本書を編集発行したものだ。

そこにも「明保野亭事件」について書かれている。所有していたのを忘れていたので引っ張り出してきて確認した。かなり内容が異なるので、勝手ながらその部分を参考までに引用しておく。

それは元治元年の九月某日のことである。東山の『明保野』という料理茶屋に長州人二、三名潜伏しているとの密告に接し、新撰組から原田佐之助、井上源三郎、沖田総司らに新入の会津藩士や隊員ら二十名を付して召し捕りむかった。例のとおり『明保野』の表口も裏口もかためておいてかふいに屋敷さがしをやると、それとおぼしき影だにない。一同いがいの顔を見合わすおりしもひとりの侍がもの影からとびだし塀を乗り越えて逃げようとする。それとみて追いかけたのは会津藩からきた柴司。

「何者だッ、名のれ」と声をかけたが答えがない。

司はこの日永倉新八から借りた手槍を持っていたが、問えども答えがないのでたしかに長州人とみこみ、雷光(いなずま)のごとく槍をくりだして侍の横腹を突き刺した。侍は突かれてはじめて声をかけ、

「ヤアヤア人ちがいをして後悔あるな、身どもは土州の林田時太郎ともうす者なるぞ」

名のられて司はおおいにおどろき、

「これはいがい千万、なにゆえあって逃げかくれなどされしや。こちらは長州人とこころえて突きかかりしものでござる」

「アイヤその長州人はすでにすでに四、五日前にたちさってただいま拙者ひとりこの茶屋に旅宿いたしている」というあいさつ。

新撰組の連中はそのままひきあげたが柴司は帰隊ののちも浮かぬ顔色をしている。それをみた永倉がいろいろ聞いてみると、かくかくのしだいで土州の侍を突いたが、この一事で会津と土佐の問題になりはしまいか。もしそのようなことにあいならば拙者は切腹せずばなるまいと思案にくれるのである。永倉はこれを聞いて、

「ナニ新撰組は斬り捨て御免となっている。おん身はいまは会津藩の人ではない。隊の人であるから心配することはない」となぐさめていた。

とかくするうちに会津藩の公用方から、司にしきゅう帰邸するように使いがきた。藩では家老の田中土佐以下の重役が気のどくでも柴司には切腹させねばあいなるまいということに決めて、司の実兄柴秀次に右のおもむきを伝えたのである。秀次は屋敷にたち帰って司にこの旨を伝えると、司はとくに決心していたこととて兄に月代をたのみ、法にしたがってみごとに切腹してはてた。

近藤、土方、永倉なぞの隊員もおくればせに司のさいごを見とどける。それぞれ検屍もすんでから実兄の秀次が土佐の藩邸へ出かけ、

「御藩の林田氏を突けるのゆえをもって柴司はもうしわけに切腹してござる」ともうしいれると、同藩でも林田が突かれながら帰邸したのは士道にそむくとあってこれも切腹を命じられた。

かくして両人の死は会津と土州藩の感情を融和してことなきをえたが、なかにも会津肥後守(松平容保)は司の死を追惜し兄の秀次に百石の加増を賜った。近藤以下永倉らも柴司の死をもって士道の花と語り伝えたのであった。


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