消雲堂綺談「崖の上」
あれは、妻が乳がん手術をする少し前のことだったと思う。千葉県のKという街の古いアパートに住み始めた頃の話だ。
かつて有名な時計メーカーの工場があったという場所を通ることから、その時計メーカーの名前がついている街道沿いに僕たちが住むアパートが建っていた。
街道をはさんだ反対側にあった写真店の庭には大きな桜の樹があり、タコの足のようにウネウネと四方に伸びた太い枝には毎年、物凄い数の花を咲かせていた。
樹齢はおそらく百年以上に違いない。僕は桜の巨木にその場所を守護する霊的なものを感じていた。
桜の巨木の裏は住宅地になっていて、その向こうには急峻な崖があり、崖下の谷底には広大な空き地が広がっていた。
崖の上の住宅地には20戸ほどの古い住宅が建ち並び、谷底の空き地が見下ろせる駐車場があった。夜にこの駐車場に立つと、谷底の空き地が真っ暗で巨大な穴に見えて恐ろしかった。
その日、僕たちは、妻が勤めていた近所の大きなスーパーまで買い物に出かけた。崖の上の住宅地の中を抜けた方が近いので、僕たちは崖の上の住宅地の狭い道を歩いて行った。
2時間ほどスーパーで買い物をしたり、書店で立ち読みしたりダラダラと時間を潰した僕たちは、帰りも住宅地の中を歩いた。外はすでに暗くなっており、僕たちは住宅の灯火だけの薄暗い中を歩いた。
しばらくして谷底を見下ろせる駐車場まで来ると、駐車場にある下水のマンホールの蓋の上に小学生だと思われる一人の可愛らしい少女が立っていた。少女は真っ暗な谷底を崖の上から見下ろしているようだった。
「真っ暗な中で、あの娘は何をしているのだろう?」僕は妻に向かって首を傾げた。
「近所の子供だよ。親に叱られて家出した気になっているだけだよ。私も子供の頃に同じようなことがあったもん」と妻が笑った。
しかし、その少女の後ろを通りすぎて、振り返った時には少女の姿は消えていたのだった。
それからしばらくして、谷底には少しずつ洒落た住宅が建ち始めた。現在では谷底だった土地には住宅が密集し、テレビでコマーシャルを流すほどの新興住宅地となっている。
今でも気になるのはあの少女のことだ。
自分の棲処である谷底の土地が住宅地として開発されることに嘆き悲しんでいた狐狸の類いが、少女に化けて自分たちが長く生きてきた棲処に別れを告げていたのかもしれない。