過去ブログの記事から「江戸湾攻防」
寛政4年(1792)、ロシアのラクスマンが根室に来航して通商を求めた際に、松平定信が「根室ではなく、もし江戸湾に入って来られたら?」という恐怖感から江戸湾の無防備さを「房総相豆の海は殊に江戸の咽喉之地」と評しました。当時、伊豆にも房総にも三浦半島にも大きな城がなく、侵入しようとする異国船は何の障害もなく江戸湾から江戸城近くの永大橋まで侵入することが可能だったのです。永代橋から江戸城までは僅か3キロという距離です。異国船の大砲が放たれた砲弾は確実に江戸城まで届く近さなんです。
それから16年後の文化5年(1808)には英国軍艦フェートン号がオランダ国旗を掲げて国籍を偽って長崎港内に侵入して出島のオランダ人を人質にとった「フェートン号事件」が起きます。
またそれから17年後の文政8年(1825)になって、幕府はようやく「無二念打払令」を発令します。これは侵入する異国船に対して無条件で大砲を砲撃するというものです。
そして、それが実践される事件が起こります。天保8年(1837)に米国商船モリソン号が江戸湾に入港したときのことです。しかし、モリソン号は「敵愾心がない」ことを証明するためにマカオで大砲を外して、女性を乗船させ尾張と肥後の漂流民7人を乗せて来航したのですが、浦賀奉行所の砲術方は観音崎の砲台からモリソン号に向けて突然、警告もなく砲弾を浴びせかけたのです。
当時の大砲は貧弱ですから放たれた砲弾はモリソン号に届かず海に落下しました。それでも浦賀奉行所は執拗に砲撃します。幸運(?)にも1発だけモリソン号に命中しますが、船が沈没するほどの致命傷には至りませんでした。驚いたモリソン号の乗組員、はそのまま江戸湾から退散してしまったのです。
それから天保13年(1842)、幕府は「無二念打払令」を取りやめ、「天保薪水令」を発令します。貧弱な武装で攻撃すれば、強力な武器を持つ(であろう)先方に侵略の口実を与えてしまうから攻撃せずに薪や水など異国船が欲しがるものを与えて追い返してしまおうというもので、要は我が国お得意の懐柔策です。
それでも幕府は異人船の来港を恐れ、抜け目なく江戸湾防備を固めていきます。三浦半島は、古くは会津藩が防備していた(1810年から10年間)のですが、この頃には三浦半島に7280石の地所を領していた川越藩が城ヶ島に陣屋と台場を築いて担当しています。対岸の房総半島の富津崎も古くは会津藩(1847年です。会津藩は、草莽の志士たちが倒幕に傾いていく時代に、京都守護職を強制されたり、常に損な役回りばかりです。このあと1度目のペリー来航後に江戸湾のお台場を担当しますが、安政地震で多くの藩士が焼死しています)が担当していましたが、この頃には忍藩が担当していました。
この頃…天保14年(1843)には、城ヶ島と房総館山の州之崎を結ぶ線を、異国船の来航目的を確認して江戸湾からの退去を求める「乗止め検問線」と言い、さらに江戸湾の入口となる三浦観音崎から房総富津までの線を「打沈め線」と言い、異国船がここを越えると砲台から一斉砲撃を開始します。幕府は異国船をこの2つの線に囲まれた海域で侵入を阻止すると決定しました。
熊谷敬太郎さんの「江戸湾封鎖」を参照
2014年僕個人のブログより修正して転載