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七、

 週末は全国的にかなり冷え込むようで、滅多に雪の降らない首都圏にまで積雪の予報が出ていた。

 ラジオからはしきりに「今年はホワイトクリスマスになりそうですね」というコメントが聞こえるが、生まれてこの方雪のないクリスマスというものを経験したことがないので全くピンと来ない上に、こう猛吹雪に見舞われてしまってはムードも何もあったもんじゃない。

「しっかし、すごい吹雪ですね。ホワイトクリスマスっていうか、ホワイトアウトクリスマスって感じ」

 けれどそんなことを言いながらも助手席の青木は、クリスマスケーキのCMソングなんか時折口ずさんでいてかなりご機嫌だ。うろ覚えらしく、同じフレーズばかり繰り返しているが。

「電車もかなり運休してるみたいだな。明日は少し弱まるといいんだけど」

「そうなんですか? まあでも、この雪じゃ仕方ないか。予定通り大学に行くのかどうか、工藤さんに早めに聞いてみた方がいいかも知れないですね」

 意外とあっさりしているな。と思ったけれど、先日の様子からして考えてみれば私に気を使っているのかも知れない。

「体調の方は大丈夫そうなのか?」

「はい。今んとこは。予定だと発情期は火曜からだしここんとこずっとズレなく来てるから大丈夫だと思うんですけど、でも直前って発作起きやすいから予め頓服飲んでおいた方がいいかなーとは思ってます」

「そうか。……ちゃんと考えてるならいいんだけど」

「なに。おれのことそんなに心配?」

 えらく可愛らしい声音でそんなことを聞かれ横から顔を覗き込まれて、今度からは後部座席に乗せようと決意する。危険運転まっしぐらだ。

「当たり前だろ。だってこっち来てから電車で遠出するの初めてじゃないか。天気は良くなさそうだし、週末だから人出も多いだろうし、心配だよ」

「大丈夫だよ。工藤さんついてるから」

「そんなことまであてにされちゃ、彼女だって流石に荷が重いだろう」

「でも、任しとけ! って言ってたよ。あの人、高校行ってから空手始めて全国大会行ったんだって。すごいよね」

「全国大会!? それはすごい……」

 どんな理由でも人を殴るやつはみんな嫌い。と言っていた彼女が、まさか空手に興味を持つとは思わなかった。武道である空手と単純な暴力とを同列にみなすことはできないが、何か思うところがあったのかも知れない。

 いつも買い物に行くショッピングセンターだとメンズファッションの選択肢がかなり限られてしまうので、二駅先のアウトレットモールまで足を伸ばした。

 ヨットハーバーを一望できるカフェテラスは年がら年中カップルで埋め尽くされているが、今日は横殴りの雪で海なんかこれっぽっちも見えやしないのでカップルの姿も見られない。

 いろいろ考えたけど結局絞りきれなくて。と青木は言って、彼へのクリスマスプレゼントはやはり着て来たニットに合わせた細身のパンツになった。

 けれど青木のリュックサックは中学生の時からずっと使っている物なのを思い出して、服が今風でも鞄がこうくたびれてちゃあ格好がつかないと思い、彼が試着室で裾を調整してもらっている間にこっそり新しいリュックを買って包んでもらった。

 後からそれを渡すと青木はおもちとお揃いの翠眼をイルミネーションくらい輝かせながら大喜びして、ずっとそれを大事そうに抱えていた。

 邪魔だろうから持つよ。と言っても聞かずにずっとにまにましているので、私も向こう十年分くらいのクリスマスプレゼントをいっぺんにもらったような気持ちになった。

「あ。……先生」

 そろそろどこかに一旦座ろうか。なんて話しながらカフェテリアの前を通りがかった時。青木は足を止めて窓の外を指差した。

「あれ。今日、動いてるんですかね」

「あれ?」

 少し背を屈めて、彼の指差す先を一緒に見てみる。

「観覧車か?」

「そう」

「どうかな。風が強いと止まるっていうけど」

「ふうん……」

 と小声で相槌を打って「ちょっと聞いてみただけです」感を出している彼ではあるが、そういう時は大抵、甘えようかどうしようか考えがせめぎあっている時だ。

「そういえば、私もあれには乗ったことないな。出来たの大人になってからだし。動いてるかどうか聞いてみようか」

「え? いやいいですよ。っていうか、この天気じゃ乗ったって景色なんかなんにも見えないでしょ。外出んのも寒いし」

「いいからいいから。行こう。私も気になって来た」

 瞳の輝きとは裏腹に渋って見せる彼の手を引いて外に出た。観覧車へは屋根付きの通路がかかっていて、乗降口の手前に券売機がある。

「おお……遠目には分かんなかったけど、ちゃんと動いてるなあ。乗れるってさ、青木」

「先生、マジで言ってるんですか?」

「一周十五分くらいだって。この大きさで十五分だと、やっぱりすごくゆっくり回ってるんだな」

 有無を言わさず券売機へ小銭を突っ込む私を、青木は少し呆れたような風でいながらも、やけに嬉しそうに見ているようだった。

「……先生ってさ、たまにすっごいガキっぽいことするよね」

「そうかな?」

「そうだよ。こないだなんか切り干し大根の中のにんじん避けてたじゃん。あれぐらい食べなよね。にんじんの味なんか大したしないだろ」

「そうかあ? 味、するけどなあ」

 そんな風に、決してロマンチックとは言えない会話を交わしながら私たちは観覧車へ乗り込んだ。

 ゴンドラの中は暖房が利いていて、クリスマスらしくゴスペルがかかっている。けれど外は相変わらず猛吹雪で、確かに景色もへったくれもあったもんじゃない。

「ほらみろ。やっぱりなんにも見えないじゃん。うっすらぼんやりでも、建物の中からイルミネーション見てた方が絶対綺麗だったよ」

 対面に座っている青木はやっぱり少し呆れ声でそう言いながら、窓の外に吹き荒ぶ雪を見ている。

「ほんとだな。ホワイトアウトクリスマスだ」

「は?」

「いや、自分で言ってたんじゃないか」

 私がそう言って返すと、青木は窓の桟に肘を着いたまま私の方を見て笑い「そうだっけ?」としらばっくれた。それがなんだかやけに大人っぽくてはっとする。

「……でもおれ、先生のそういうたまにガキっぽいところ好きだよ」

「そうか? ありがとう」

「先生はおれのどういうところが好き?」

「それ、聞くかあ? 顔が綺麗なところかな」

「うーわ。身も蓋もないですね」

「嘘だよ」

「なんだよ。くだらない嘘」

 彼が言う通りのくだらない言葉を重ねて、目が合うたびに照れ笑いをして、どちらからともなく自然な流れでキスをした。一瞬のできごとだ。

「……事案だ」

「そんな死刑宣告受けたみたいな顔しないでくれます?傷つくんですけど」

 頭を抱える私をよそに、青木は少し口を尖らせただけでけろっとしている。

 というかその口を尖らせた顔をやめて欲しい。可愛い。正気でいられない。

 今すぐ地上に降りたい。いや降りたくない。どっちだ。もうわけが分からない。

「まあでも、おれも先生が思ってるほどもう子どもじゃないからさ」

「十八歳は子どもです」

「そうだけど──クリスマスイブに二人で出かけようって誘って来た女の子が何考えてるかって、それが分かんないほどの子どもじゃないよ」

 罪悪感で死にそうになりながらもキス一つで年甲斐なくふわふわ浮かれていたが、一瞬で我に返った。

「……そうだったな」

 確かに、そういう意味では青木だって年相応の──大人ではないにしても、私が思っているような小さな子どもではない。

「おれ、とんでもなくバカなことしようとしてるって自分でも分かってる。でも、先生のことが好きだって思うのと同じくらい、あの人のこと泣かせちゃいけないって思う」

「うん。……分かるよ」

「それに先生がおれの立場だったら、先生じゃなくて工藤さんを選ぶだろうなって思って。……こんなこと言ったら、卑怯かも知れないけど」

 青木は、おもねるような声音でそう言って上目遣いに私を見た。そんな責任転嫁、卑怯に決まっている。ずるくて、卑怯で、この上なく色っぽい。

「……青木、大人になったなあ」

「いや、さっきの今でかよ」

「大人になったっていうか、色っぽくなった」

「それはフェロモンのせいだろ? 発情期、近いからな」

「そうじゃないよ。……たぶん。うまく言えないけど」

 どうしてもうまい言い方が出てこなくて焦る。

 けれど、これまで彼のそばに居て感じ続けて来た衝動のある場所とは、全く別のところが確かに甘く疼いた。

「……そう? じゃあ、ありがとうございます」

 ゴンドラが地上に着いた。お疲れ様でしたー。と言って係員が扉を開け、私が手を取るまでもなく青木は冷たい雪風の中へひらりと飛び出していった。

 結局雪は一晩中降り続いたもののその勢いは明け方に少し弱まって、電車のダイヤも復旧した。とは言え豪雪の影響で事故や雪崩が多発しており、ニュースは引き続き警戒を呼びかけている。

 青木は、午前中の早い時間に元気に実家を出発したようだ。彼は前日に買ったパンツの上にハイネックのインナーと私のおさがり(の中でも比較的マシに見える)シャツを着て行った。ビックシルエットでこなれ感がありかえってよいのではないか。野暮ったいデニムシャツが大化けである。と、母からそんな連絡が写真付きで送られてきたのが目覚ましになった。

 ここのところ留守がちであまり猫たちと遊んでやれていなかったので、今日は一日運動会に付き合ってやると決めている。猫たちがそれに飽きたら、キャットステップの調整と増設をするのもいいだろう。どうせ猫としか暮らさないだろうと思って二年前に買ったメゾネットタイプのマンションは、未だ完成を見ぬ猫の城だ。

 一階にリビングダイニングとキッチンとトイレがあり二階に寝室と脱衣洗面所及びバスルーム。壁にははそこここにキャットステップやキャットウォーク。これが作り付けなのだから頭が下がる。

 寝ている間にベッドへ潜り込んできた三匹を撫でたり捏ねたり吸ったりしながらぼんやり携帯でネットニュースを見て、その内に食事の時間になったのでそれぞれの餌皿にそれぞれのカリカリを入れてやってから、私もシャワーを浴びて朝食を摂る。

 パンをトースターに入れて、あんこを椅子から退かせ、コーヒーを淹れて、おもちをテーブルから降ろし、冷蔵庫から金柑の瓶を出して、おもちときなこの喧嘩を仲裁して、あんこを椅子から退かせるのを諦め、カウンターで立ったままパンを食べた。

 猫のいる毎日は退屈知らずだ。小さなおもちが日毎に成長していく様は一秒だって見逃せないし、若いさかりのきなこが部屋中を走り回る様などを見ているとこちらまで元気になる。老境に差し掛かっているあんことはきっともうそんなに長くは一緒にいられないだろうが、そう思えばこそ愛しさは増すばかり。

 私にはこの子たちが必要で、この子たちも私を必要としてくれている。この生活に欠けているものなど何一つとしてないはずだ。けれど、どうしてか心に穴が空いている。

 夕方になるとまた、雪がどさどさと降って来た。青木、大丈夫かな。発作とか起こしてないといいけど。ちゃんとマスクして歩いているかな。そんなことを気にして窓の外を見ていたら、おもちが出窓へ飛び乗ってきて私の手の甲に頭を擦り付けた。

「……大丈夫。お前がいるから、寂しくないよ」

 抱き上げて撫でてやると、おもちは「にゃあ」と短く鳴いてぱちりぱちりとゆっくり瞬きを繰り返した。レイリー散乱の美しいエメラルド色の瞳には、私だけが映っている。

 その時背後で、がたん。と大きな音がした。きなこがまたリコモンか何か蹴っ飛ばして落としたかと思って振り向いたら、蹴飛ばされていたのは私の携帯電話だった。着信があって、驚いて蹴っ飛ばしたんだろう。

 画面に表示されている工藤さんの番号を見て、胸騒ぎを覚えた。どうして青木じゃなくて工藤さんが? 携帯の電池が切れたとか、そんな理由であれ。と思って電話に出る。

「もしもし。漆間──」

『先生たいへん! 青木が死んじゃう!!』

 私の名乗りを遮り、彼女は涙声で叫んだ。全身の血がさっと引いて、居ても立ってもいられずひとまずコートを引っ掴む。

「工藤さん。大丈夫だから落ち着いて。今どこにいるの?」

『──駅でっ、帰り……あの、大雪でっ、電車止まってっ』

 車の鍵と財布をポケットに入れて裸足のままスノーブーツへ足を突っ込んだ。

『人がっ、い、いっぱいいて、それで青木が……うわああああ待って待って待って待ってダメだってダメだって開けないでって!!』

 彼女が泣き叫ぶ声の後ろで、激しくドアか何かを叩く音と青木の肺を吐き出すような咳音が聞こえる。

「工藤さん。すぐに行くから青木にも伝えて。電話は繋いだままにして」

 スピーカーの音量を最大にして助手席へ電話を置き車を飛ばし、聞き出した駅へ急ぐ。きっと発作が出て、人混みでパニックに陥ったのだ。やっぱり女の子と二人だけでなんて出かけさせるんじゃなかった!

 場所も見ずレッカー覚悟で車を乗り捨て、動揺している彼女からなんとか居場所を聞き出して走る。

 が、聞き出すまでもなく私には彼の居場所が分かった。ヘンゼルが自分たちの帰路に光る小石を落としていったように、彼が通ったのであろう道筋が私にははっきりと分かる。

 二人は駅のユニバーサルトイレに籠城していた。辿り着いてみると男が二人そのドアの前にいて、罵声を吐きながらドアをがちゃがちゃやっている。いずれも若い。二人とも青木や工藤さんと同世代くらいかもう少し上に見えるが、体格はいい。

「おいお前ら! 警察呼んだからな!」

 こんな大きな声が出るのかと、自分でも驚くくらいの声が出た。ドアの向こうから「せんせえええ!」という工藤さんの絶叫が聞こえる。

 ドアをがちゃがちゃやっていたガキどものうち一人が突然駆け出したが、トイレのドアは既に傷や凹みで酷い有様だったので後ろ首を捕まえて床の上へ引き倒した。「お前ら、中の子たちに指一本でも触れてみろ。一生かけて生まれて来なきゃよかったって目に遭わせてやるからな」

 もう一人はてんでヘタレで私がそう凄んだだけでへたり込み、警察を呼んだというのはハッタリであったけれどじきに駅員が駆けつけたので、二人を引き渡して事務所へ連行してもらった。

「工藤さん、青木、大丈夫か!?」

 トイレのドア前に清掃中の札を置いてもらい人払いをして、中から扉を開けてもらう。工藤さんは扉のすぐ手前にへたり込んでいて、吐き気があったのだろう。青木は便座を抱えるようにして蹲っていた。

「先生っ、あっ、青木のっ、咳が止まんないの!」

「大丈夫。すぐ治るから。青木、薬は飲んでた?」

「飲んでた……飲んでたけど、すぐ吐いちゃったかもしれない!」

 確かに青木は、そうしている間もずっと小刻みにえづいていた。

「わかった。ありがとう。……念の為、駅員さんか警備員さんに担架か車椅子持ってきてもらえるようお願いしてもいいかな」

「わかりましたっ!」

 工藤さんは力強く頷いて、扉が開いたままの個室を飛び出していく。私は便座を抱えるようにして蹲っている青木の横へしゃがみこみ、背中をさする。

「青木。大丈夫か? 苦しい? あと、ちょっと寒いよな」

 背中をさすりながら尋ねると、それにも頷く。着てきたコートで青木を包み、その上から彼を胸に抱いて体をさする。

「先生……」

 それで少し落ち着いてきたのか、青木は荒い息とともに私を呼んだ。

「大丈夫。そばにいる。離さないからずっと。……待たせてごめん。本当にごめん」

 苦しそうにぜえぜえと浅い呼吸を繰り返している背中をさすり、彼の耳元で誓う。

 離さない。離れたってこの想いは消えていかないのだ。他のものなんか初めから選びようがなかった。それをようやくこの瞬間に私は──認める決心をした。

「うん。……待ってた」

 青木の呼吸がすうっと静かになり、彼は短い言葉で応えながらうっすら微笑んだ。その美しいエメラルド色の瞳に映っていた私の像は、彼が瞼を下ろすと共に涙と一緒に溢れて消えた。

   *   *   *

 駅員は、私の出した大声を聞いて急行したのだとヘラヘラ笑っていた。それより前からずっと助けを求めて叫び続けていた女の子の声は本当に少しも聞こえなかったと言うんですか。どういう耳をしてるんですか。と詰め寄る私はさながらモンスターペアレント化した不動明王であったと後に聞いたが、少しも間違ったことを言ったつもりはない。

 私は失神した青木とともに駅員に呼ばせた救急車に乗って病院へ向かい、工藤さんは親御さんに連絡して迎えに来てもらうことになった。結局、ひどい豪雪と暴風で列車は全線運休になり、帰りの足がなくなってしまったためだ。

 青木の失神は鎮静作用の強い薬を立て続けに飲んだことが原因のようだった。

 幸い意識はすぐに回復し、失神するほど飲んだ頓服薬のおかげでフェロモンの値も正常値以下に下がっていたので、たまにある発作でしょう。ということで診察は終わった。

 それからタクシーで駅まで戻ってきて車を乗り捨てた場所まで行くと、駐禁ステッカーが貼られていた。しかし、寸でのところでレッカー移動を免れたのは不幸中の幸いだ。

「あの、なんか……すみませんでした。すごい騒ぎになっちゃった」

 コートや頭に積もった雪を払いながら、後部座席で青木がしょんぼりと肩を落としているのがバックミラー越しに見えた。

「青木は悪くないよ。私が……周りの大人がもっとしっかりしてたら防げたことだった。本当にごめん」

「いやいや、あんなすごい発作今まで起きたことなかったし! 分かんないですってそんなの──あー、工藤さんに謝らなきゃ」

 済まなそうに頭を抱えながら大きなため息を吐いて、青木はさっそく彼女に電話をかけ始めた。私は自宅へ向かって車を走らせる。始めはさすがに実家へ送ると申し出たのだが、青木は「先生のうちへ行く」と言って譲らなかった。

「……やっぱすごいなあ。工藤さん」

 電話を切って、青木は腹の底から唸るようにしてそう言った。

「びっくりしたよお! お大事にねえ! っつって、もう笑ってた」

「それはなんというか……胆力が違うな」

「青木は今までずっとああいう怖い目に合うかもって思って過ごしてきんだね。大変だったね。ってさあ……ああーもおー神か!? おれ一生あの人にアタマ上がんないよ! 今日だって結局さあ!!」

 と言って青木が悶えながら言うところによると、完全に告白されてしまう! という覚悟で挑んだ大学見学で二人を案内してくれたのは彼女の高校の先輩で、彼は何を隠そう彼女の長年の思い人であったという。

「工藤さんに一生分の恋愛相談された。自分の自意識過剰ぶりが恥ずかしすぎて穴があったら入りたい……」

「気持ちが分かるだけに私まで恥ずかしくなってきた……しかし、あんな頻繁に連絡取り合っててその……恋バナ? のひとつもしなかったのかお前たちは」

「不思議としなかったです。やっぱ学校が絡む話は向こうもおれにはしづらかったんじゃないですかね。おれもやっぱ中学の時の話とかはしづらいし」

 なるほどな。と思ってしまった。きっと彼女は、青木とのそういう蟠りを解消するために大学見学に誘ってくれたんだろう。

「お邪魔しま──うおおおおおもちっ!」

 私たちが帰宅すると、猛ダッシュで部屋の中から駆けてきたおもちが私を差し置いて青木に飛びかかった。青木はそれをぎこちなく抱きとめて、恐る恐る顎の下をかいてやっている。

「へへへ。ういやつめ」

「……おやつをくれると思ってるんだな。きっと」

「先生、妬いてるんですか」

「別に──あんこー、ただいまー、今ごはんにするからなー」

 ゆったりゆったり歩いてきては私の足首に尻尾を巻きつけてご飯をねだるあんこを抱き上げ、部屋の明かりを点けて回る。

「先生んち、すっごい! 完全に猫メインの家じゃないですか。逆に先生が猫に飼われてるみたい」

「ははは。上手いこと言うじゃないか。……どうせ一生猫としか住まないだろうと思ってさ。開き直ったらこうなってたよ」

 あんこときなこの皿にカリカリをやって、おもちにはまた青木からウェットフードを食べさせてもらう。青木の膝の上で仰向けになり両前脚でパウチを抱えているおもちがなんだかミルクを飲む赤ん坊みたいで、いつかそういう日が来たりするんだろうか。なんて一瞬でも考えた自分が恥ずかしい。

「おもち、赤ちゃんみたい」

 目を細めて青木が言う。考えを見透かされたのかと思って変な汗が出る。

「……まあ、実際まだ四ヶ月だしな。人間でいうと小学生くらいだけど、赤ちゃんみたいなもんだ」

「そうなんだ。……先生、さっき」

「ん?」

「猫としか住まないって」

 おもちにおやつを食べさせている青木が、不安そうに顔を上げた。

「この家に住み始めた時は、まさかもう一度青木に会えるなんて思ってなかったから」

 ご飯をたらふく食べさせてもらったおもちは、またヒトのように「うみゃ、うみゃ」と言って口の周りを舐めている。

「それって、おれが戻ってこなかったら先生は一生ひとりでいるつもりだったってこと?」

「そうだな。……お前以外って、ちょっと考えられないし」

 青木が立ち上がる気配を察しておもちは膝の上から跳びのき、寝床へ引っ込んでいった。昼間たくさん遊んだので、もう眠いんだろう。

「……なんで最初からそう言ってくれなかったの?」

「ごめんな。私は、なんでも時間がかかる」

「ごめんで済んだら警察いらな──」

 拗ねた顔をした青木の華奢な体を、私はようやく抱き締めることができた。

「うん。──ごめんじゃ済まないから、一生大切にするよ」

「……それってなんか刑罰みたい。嫌なの?」

「まさか」

 青木は私にしがみつくみたいにして背中に両腕を回し、口ぶりとは裏腹に恐々とした様子で私の顔を見上げている。涙で潤んだエメラルド色の瞳に、今にも吸い込まれそうだ。

「離してやれないけど、許してくれって話。これからは、なるべく格好良くいられるように努力するから──」

 言葉尻をキスに吸い取られた。青木が背伸びをしているので少し屈んで、膝の裏へ腕を差し入れ抱き上げる。

「うわっ、びっくりした!」

「ちゃんと掴まってて。万が一落っことしたらことだ」

「先生は落っことさないよ。さっき、離してやれないって言ってた」

 そんな軽口を叩いてくすくす笑う青木はやっぱり、それこそ羽のように軽い。けれども慎重に階段を上がって、ベッドの上に青木をそっと下ろしてまたいいだけキスを繰り返す。

 唇に、頬に、鼻の頭にキスをしたりされたりしている内に、だんだん青木の肌からいい匂いがしてきた。それで思い出す。

 この子はこんなにいい匂いがするからいいけれど、私はきっと猫くさい。

「……ごめん。ちょっと、シャワー浴びていいかな」

「やだ」

 即答され、胸ぐらを掴まれて強く彼に引き寄せられた。

「どれだけ待ったと思ってるの? もう限界だよ」

「なんでそんなに煽るかなあ……!」

「煽ってるつもりなんかないけど……でもそう思うってことは、先生だって早くおれのこと抱きたいって思ってるんでしょ?」

 図星を突かれて言葉が出ない。なので黙って服を脱いで、青木の服も脱がせた。

「ははは! 当たってた」

「そうだよ。当たりだよ。でも一つだけどうしても頼みたいことがある」

「なに?」

 組み敷いた彼の白い肌が、目眩を覚えるほどまぶしい。そして首筋に残る青痣が、涙が出るほど痛々しい。

「〝先生〟って呼ばないでくれ。罪悪感すごいから」

「え? じゃあ──」

 数秒間の逡巡のあと、彼はその肌を鎖骨のあたりまで真っ赤にして口を開く。

「──ほう、すけ……さん?」

 それはきっと、世界一短い生命賛歌で宇宙一尊い音の連なりだった。私の中で生命の春が芽吹き夏が咲いて秋が実ると冬が今こんなにも熱い。

「ありがとう。なんかもう、死んでもいい」

「ずるいずるい! 死ぬな! おれのことも〝りひと〟って呼んで!!」

 彼は恥ずかしそうに肌をほの赤く火照らせたまま、猫パンチで私の胸をぽこぽこ叩く。理人。りひと。かわいいひと。私の大切な人。いとしいりひと。

「──理人」

 私がそうして名を呼ぶと、理人はまるで生まれて初めて音を聞いたかのように目を瞠いて息を飲んでいた。

「……もう一回」

「りひと」

「もう一回!」

「理人。……そんなにせがまなくたって、何度でも呼ぶよ。りひと」

「生きててよかったあ!」

 理人はその丸い瞳いっぱいに貯めた涙をこめかみに向かってぽろぽろ零して、私の首元にしがみついて泣きじゃくる。その涙を唇で拭って、瞼にもキスをして、華奢な体を強く抱き締めた。

   *   *   *

 部屋中が理人の肌の、あの豊潤で甘やかな香りに満たされている。まるで蜜に浸かった金柑にでもなったように、私たちはとろとろと愛情の中に揺蕩う。

「あっ、あぁ……ほうすけさ、んっ、やっ、なんで抜くの……」

 仰向けになって膝を立て、理人は不服そうに眉をひそめた。実際問題として彼のそこは甘露煮に勝るとも劣らないほどの蜜に溢れていて、愛撫のそばからとろとろと私の指を伝っていくのが少しむず痒かったのだ。

「うん。……ごめんな。せっかく気持ちよかったのに」

 私は肘まで滴った彼の愛液を舌先でなぞるようにして舐めとり、それから手指をふやかすほどの蜜を湛えているそこを讃美するようなつもりで撫でた。

「理人のここがあんまり可愛いから、私も頑張りすぎちゃって」

「なに、それっ……あ、あっ、あぅ、やっ、うそ、なに……っ!?」

 その白くて丸い、真珠のような膝を両手でそっと開き、腰の下へ枕を入れる。少し浮き気味になった下腹部に咲いている理人の快感の証に、彼自身の蜜を絡めた手で触れた。

「やぁっ……それ、あ、あぁ、あ、へんっ、へんにしないでよお……っ!」

「変じゃない。かわいい。理人、すごく可愛いよ。私の方がおかしくなりそう」

 なりそう。というか、とっくに私はこの子に狂ってはいるのだけれど──。

「いいっ、あ、あ、きもちいい……ほう、す、け、さ……もう、いいっ、いいからあっ!」

 はやくいれて! と叫びながら、理人は達した。私だってそうさせて頂きたいのは山々だが、しかし。理人は体が小さいのである。体が小さいということは、そこだって小さいのである。自分の持ち物と見比べてみる。いくら滴るほどに濡れていると言ったって、ちょっと難しいんじゃあるまいか。

「……なに怖がってるの。大丈夫だよ」

 一度達した理人は、胸で息をしながら私の頬を撫でた。

「法介さんのなら大丈夫。痛くても嬉しいから」

「いや、痛いのはダメだろう」

「ダメじゃない。そんなことより早く上書きしてほしい」

 うわがき。という言葉を咄嗟に頭の中で変換できなかったけれど、その意味するところに合点して暴れ出しそうになった。

「……綺麗じゃなくてごめんなさい」

「そんなこと、言うな」

 射精して力の抜けた体を抱き締めてキスをする。その赤く艶かしい舌を誘い出し、貪るように、けれどありったけの愛情を込めて繰り返し繰り返し唇を吸う。くすぐったそうに応えてくれる理人。かわいい。愛おしい。私の理人。

「初めてのつもりでいて。いいね?」

「うん」

「痛かったら言う。嫌な時も言う。絶対に無理やりはしないから」

「無理やりして欲しい時はなんて言ったらいい?」

「それは私が嫌だからしない」

「……わかった。じゃあ、優しくしてください」

 恥ずかしそうに小さな声で言って、理人は目を閉じた。もう一度キス。初めてのつもり。初めてのつもり。と自分に言い聞かせでもしているようにぎこちないキスを繰り返す。

 自分のものの先端で、蜜の溢れる彼のそこに触れる。すると理人は「あ」と短く声を上げ、少しだけその華奢な身体を強張らせた。

「怖い?」

 一時停止。先端のやや敏感な部分が感じる温かい感触が劣情を煽り突き進んでいきたくなってしまう衝動を、つばと一緒に飲み込む。

「怖くない。……してください。おれも頑張るから」

 と言って、理人は自分で少し腰の位置を動かした。

「うん。……ゆっくりするから。大丈夫」

 抱き合いながらゆっくり、本当にゆっくり体を進めていく。それでもやっぱりきつい。私の方ですら押し進めていくごとに少し痛みを感じるほどなのに、この子はどれだけ──と思って顔を見てみた。

「……っぅ、う、くっ」

 頰を紅潮させ、眉をハの字にして、口を少しだけ開けて息を震わせている。痛みを堪えているだけにしては色っぽい顔。

「大丈夫? 痛い?」

「いたい……」

「じゃあ、一回抜こうか」

「やだ……」

 固く瞑っていた目を開けて、理人は口ではあはあと深い呼吸を繰り返して両手で私の頬に触れた。

「キス、しながら、してくれたら──ちゃんと全部入ると思う……」

 と甘えた声で小さく発して頷いた理人の唇を啄ばみ、髪を撫でる。

「……全部入れちゃったら、もう抜けないけど。それでもいい?」

 理人がもう一度「うん」と頷いたのを確認して、キスを繰り返した。そうして少しずつ、少しずつ私の体の一部分が小さな彼の中に飲み込まれていくごとに、唇と唇の間から「ん」とか「う」とか、そういう短く色っぽい声が吐息と一緒に漏れていた。

「少し、動かしてもいいかな。その方が慣れると思う」

 一度唇を放し、提案してみる。こっちは入れているだけで暴発寸前なのだが、ぎちぎちと栓をするように詰め込むだけでは理人がよくなれない気がして。

「動かすの……?」

 理人は唇の端を唾液で濡らし、薄眼を開けて繰り返し、そして。

「いいよ……法介さんも……気持ち良くなって……」

 と言って逆上せた顔で微笑んだ。扇情的な笑みだ。

「理人、気持ちいいの?」

「うん……きもちいいよ……あったかい、から、あ、あっ」

「そうか。……よかった」

 少しずつ、少しずつ。と自分に言い聞かせながら、抜ける寸前まで引いて半分くらい入れて。というのを繰り返す。

「ほうすけ、さん……きもち、いい……?」

「うん……気持ちいい」

 私がそう返すと、理人は「よかった」と言って私の背中に両腕を回し、しがみついてくる。

「あ、あぁ、いい、あ、きもちいい、あ、あぁっ! もっと、ぜんぶっ……」

 そうして少しずつ、押したり引いたりの〝押し〟のタイミングで深く体を繋げていってようやく根元まで全て入り切ろうかという頃合。私を受け入れている理人のそこに、丸い突起が触れた。

「あ。理人……わかるかな」

 根元の突起の部分を擦り付けるように左右に少し腰を揺らすと、陶然と中の感触に感じ入っていた理人が「んっ……?」と可愛い声で返事をして目を開けた。

「……あと、少し?」

「うん。これが入ったら、全部」

「これ? これって……あ、あぁ、うわっ、あっ、おっき……ひゃあああっ!?」

 ぷつん、とその部分の肉襞を押し込むようにして私の全てを彼へ捧げると、届いた奥の部分に何か感じ入るものがあったのか、理人は背中を反らせて高い声を上げた。

「あっ、ああっ、あっ、そこっ、だめっ、あっ」

「だめ? 痛い?」

「ちがっ、あ、もっと、もっとして、そこに……そこっ」

「気持ちいい?」

 感電でもしたみたいに腰のあたりをぶるぶる震わせながら、理人は二度三度と大きく頷いた。汗でしっとりと濡れた体が艶かしい。たまらずその細い腰を掴んで、ぐっと奥の方を目指して突き上げた。

「あぁっ! すごい、すごい……あ、あっ、あぁっ、嬉しいっ……」

 理人もまた私に掴まれた腰をくねらせて、のびのびとその快感の中を泳いでいた。幸せそうに跳ねる彼の体を抱いて、私も何度も喜びを打ちつける。

「理人……りひと、愛してるよ。愛してる……」

「あああ……法介、さ……あ、お、おれも、好き……あ、あっ……生きてて……生まれてきて、よかったっ……」

 キスをして、お互いの肩やら耳やらへ見境なしに歯型をつけて、私たちは獣のように求めあった。

 理人のそこは、ついさっき入るの入らないのともめていたのが嘘のように私の欲望の形そのものになり、まるで特別に誂えた鞘のようですらあった。

「ふぁ、あ、あ、ほ……すけさ、あ、あ、して、して、おれ、のこと、とくべつ、に──」

 その内に理人はしきりに左のうなじを気にしだしたので、その意味を咀嚼しなおすようにして噛み付く。

 特別に。とくべつ。大丈夫。とっくのとうに特別だ。間違いない。疑いの余地など一つもない。理人のうなじ。青痣だらけの首筋。雪の中にすみれの花が咲いているようできれいだと思った。

「ああああっ、あぅ、あっ……はぁ……」

 理人はもう一度射精した。幸せそうな顔。私も幸せだ。からだ中が幸せでいっぱいになって、明るくて気持ち良くてその気持ちの全部が噴き出した。

「すごい……いっぱい……」

 息を弾ませて、理人は丸い瞳でそう呟いた。

「うん。……出てる」

「あ、すごい……こんな、こんななんだ……知らなかったなあ……」

 私の激情が爆ぜて彼の体の内側に精が吐き出される、その脈動を彼はそんな風に息を詰まらせながら表して、泣きながら笑った。

「おれ、特別なんだ……信じられない」

「……うん」

 体はぐったり横たわっているのに、理人の瞳はきらきらと輝いていて眩しいほどだ。 

「いつかそれも、当たり前だと思ってもらえるように頑張る」

 体を繋げあったまま腕の中に閉じ込めるように強く抱き締めて、その体温を確かめる。理人の体。温かい体。ここまで強く生き抜いてきた体。

「……法介さん。ちょっと、苦しい」

 腕の中の理人が、きまずそうにそう言ってクレームをつけてくる。

「ごめんごめん。愛が強く出すぎた」

「とかなんとか言って。冷静になってからまた『事案……っ!』とか言ったらおれ怒りますからね」

 そう言って理人は、ぷいっと顔を逸らしてしまう。

「ほんとに信用ないな」

「当たり前でしょ。なんなんですかその鋼のような理性は。ぐるぐるぐるぐる遠回りして、最初っからこうしてればよかったんですよ」

「それは本当に悪かったと思って──」

「だったら、責任持ってぎゅってしててください。ずっと」

 理人は照れ隠しなのか、少し怒ったような口ぶりで私の首を引き寄せる。

「……そうだな」
 そんな理人を今度は、抱き潰さないように、優しく包み込むように抱き締める。

「きっと、どれだけ抱き締めたって足りないんだろうな」

 抱き締めても抱き締めても、きっと足りない。もういいって言われてしまったら、それはそれでショックだろうけども。

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