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四、
おれの腫れ上がった瞼を見るなり、高橋さんは「どうしたのその顔!?」と声を裏返して駆け寄ってきた。あんまり心配そうな顔でおでこに手を当てたりするもんだから、思わずちょっと笑っちゃった。
「熱なんかないよ。大丈夫」
「ああ、本当だ。じゃあどうしたの? 誰かにいじめられた?」
「ううん。放課後、図書室で本読んでて」
「本!? なんの!?」
帰り道で必死に考えた言い訳は、高橋さんの声を再び裏返すのみにとどまらず目玉が落ちる寸前まで目を見開かせた。まあ、おれっぽくないもんな。
「……奇跡の人」
「なんでまた」
「途中まで教科書に載ってるんだけど、続きが気になってさ。サリバン先生は偉大だね」
おれはそこで話を切り上げて階段を上がったんだけど、高橋さんが目をまん丸に見開いたままおれの背中を見ているのが分かった。
苦しい言い訳かなと思ったけど、信じてもらえたみたいだ。真面目に授業を受けてたら、嘘を吐くのが上手くなった。
部屋に入って、すぐにジャンパーと制服を脱いだ。タンスからジーパンとトレーナーを出して着替えて、ジャージ袋を開ける。
袋からジャージとTシャツ、それに、先生のカーディガンと、腕時計と、名刺入れとボールペンを出して机に並べ、それから少し悩んで、カーディガンとボールペンと腕時計と名刺入れをリュックへしまい直した。
いやに胸がどきどきする。でも、これは恋のどきどきじゃない。これは、罪悪感のどきどき。たぶん、犯罪者のそれ。
トイレでべそをかくだけかいて、ようやく涙と鼻水が枯れ果てた頃。授業はまだ終わってなかったけど、今さら体育館へ行くってもんでもないだろうと思って教室へ戻り、誰の顔も見たくなくてそそくさと帰り支度をまとめた。
カーディガンだけはどうしても返しておきたいと思って、カウンセラー室に寄ることにした。こんなのを持ち歩いてたら先生の言う通り、本当におれはフェロモンに振り回されて泣いたり喚いたりするだけのバカなんだって思われそうで嫌だったから。
一応ノックをして、返事を待ってみた。だけどいつまでも先生の声が聞こえて来なくて、留守なんだって分かってから胸をなで下ろしてドアを開けた。
先生がいつも座ってる事務椅子にカーディガンをかけておこうと思って、そこまで歩いて行った。
机の上はきっちり片付いていた。ペン立てにはいつも先生が使っているボールペンや鉛筆、定規やサインペンなんかが差さっていて、あとは名刺入れと、書き物をするのに邪魔で外したのか茶色い革のバンドの腕時計が置いてあるだけだった。
いつも先生がおれの薬を数えたり、連絡帳を書いていた机。
先生はここに座って、おれのことを考えてた。
そんなのがずっと続けばよかったのに、次にまた発情期が来てもきっと、あの時みたいにはおれたちはうまくやれない。
そんなことを考えてたらまた悲しくなってきて、じわっと目が潤んで頭が痛くなった。
視界がひどく滲んで、その時はそれを泣いているせいだと思ってたんだけどそうじゃなかったみたいで、気がついた時にはおれはもう先生のボールペンと腕時計と名刺入れをポケットに入れて雪道を歩いていた。背筋が震えたのは、寒さのせいばっかりじゃない。
困ったことにおれは自分が一体どこを歩いているのかすら分からない場所にいて、でも唯一持ち歩いてるお金──生徒手帳に富岡さんが挟んでくれた千円札は入ったままだったから、知らない間にバスに乗ったとかではなさそうだった。
だから、交番で学校までの道のりを聞いて、結構遠かったけどなんとか歩いて帰って来た。
施設に着いた頃にはもう日が暮れかけていて、いつも学校が終わったらまっすぐ帰ってくるおれが遅くなったもんだから高橋さんが玄関に転がり出て来た。それから高橋さんは慌てふためいて心配そうに声を裏返したり目を丸くしたりしていたわけだけど、おれはしっかり嘘を吐きとおした。
それからはいつもどおり部屋で宿題を片付けて、夕飯を食べて風呂に入って、十時には布団に入った。毎日同じことの繰り返し。ぼんやりしてれば、自動的に終わっていく。
昨日まではそういうのを一つ一つきちんとこなしていくことがすごく気持ちいいっていうか、そうすることでおれは生きるってことに自信をつけながら過ごしていたような気がするんだけど、今日から突然、そんなのが全部つまらない。全然張り合いがない。全部、先生のせいだ。
だから朝起きて血圧と熱を測って、フェロモンの検査をして、全部平常値だから学校へ行かなきゃならないのがすごく面倒。ちょっとでも熱があったりフェロモンが多かったりしたら、腹痛いとか頭痛いとか言って休めるんだけど。
「理人。だらだらしてないでさっさと食え」
富岡さんが目の周りに皺を寄せて、厳しい口調で言う。今朝はパン食。トーストと、コーンスープと、ベーコンエッグとグリーンサラダ。
「パンとスープとサラダだけじゃ──」
「駄目だ。偏食してると発情期重くなるぞ」
おれが言うのを遮ってから、富岡さんは背中を向けて薬棚を開けた。
「りっくん、それちょうだい」
するとすかさず、隣に座って飯を食ってた達哉がトースターから出してきたばかりの食パンを手におれに耳打ちをする。
「悪い。助かった」
おれは達哉の持ってるトーストの上にさっとベーコンエッグを滑らせて、達哉はそれをもう一枚のトーストで挟んでむしゃむしゃ食べ始めた。
達哉はさっきも自分のベーコンエッグを同じようにして食べてたから、もうパンを四枚も食べてる。
「朝からガッツがあっていいなあお前は」
「逆に、りっくんはよくそれだけで昼までもつよね」
「腹は減るけど、そんなに一気には食べらんないよ」
「無理にでも食べてればその内食べられるようになるよ。胃って広がるからさ」
そんなことを言ってる間にも達哉はベーコンエッグサンドを瞬きの間に口の中へ押し込んで、デザートかって量の食後の薬も一口で飲み干して「行って来ます!」と食堂を飛び出していった。
達哉は見かけこそおれと一緒でちびすけだけど、性格はおれと違って負けん気が強いっていうか、あんまり卑屈なところとかがなくて元気だ。同じオメガで、同じように貧弱なとこはあるけど、中身は全然違う。当たり前のことだけど。
達哉に手伝ってもらって朝飯を片付けて、やだなあ、やだなあ。と思いながらちんたら支度をして、また富岡さんにせっつかれながら施設を出る。
一回サボると途端にハードルが下がって、このままどっか行ってやろうかとも思った。でもいくら発情期じゃないって言ってもただ歩いてるだけでじろじろ見られるくらいだし一人でどっか行くのも怖いなと思って、しょうがないから学校へ行った。
学校は今日も相変わらず。クラスの奴らも先生たちもこすっからいのか度胸がないのか分かんないけど、おれをドラマの主人公みたいにはいじめたりしない。
人の顔をじろじろ見たり、見てるくせに無視したり、聞こえるように笑ったり、嫌味をちくちく。
そうするのはきっと、それがほんとは正しいことじゃないっていうのをみんな分かってるからだ。分かっててもやらずにはいられないんだろう。それは、おれがオメガだからだ。そういう役割が当たっているからだ。
そしてそういう〝正しくないこと〟をしてしまうことすらも、全部こっちのせいになる。そこまで含めての〝役割〟だ。人をおかしくするフェロモンを出してるから悪い。フェロモンって、ずいぶん便利なんだなって思う。
授業の間の休み時間には、何度かカウンセラー室に行ってみた。カーディガンや腕時計を返そうと思って。
一回め、先生はカウンセラー室にいなかった。留守の部屋に入ったらまた何か持ち出しちゃいそうで怖くて、ドアの前で引き返して来た。
二回め、今度はいるみたいだったけど何人か三年生の女子が来てるみたいで弾んだ話し声が聞こえて怯んだ。
それでやっぱりまたドアの前で引き返して来ちゃって、あの部屋から持ち出した物はやっぱりまだおれのリュックの中にある。
だからアルファである先生のものを持ってるから気持ちが落ち着くなんてことは今は全くなくて、早く返さなきゃ早く返さなきゃってそればかりで頭がいっぱいで、授業中もずっと落ち着かなかった。
昼休みにもう一回、今度はもし留守でも物だけ置いてぱっと戻って来ようって四時間めの最中にそう決めて、昼休みのチャイムと同時に急いで席を立とうとした、その時だった。
「青木、ちょっと──」
おれの机に影ができて、顔を上げたら工藤さんが目の前に立っていた。
「……ごめん、聞こえなかった。もう言ってもらってもいい?」
あんなに大きかった工藤さんの声は前田たちと一緒にいるようになってからどんどん小さくなって、今はもう意識して耳を傾けないと聞き取れない。
「うん。ごめんね。今、ちょっと大丈夫?」
工藤さんはさっきよりも少し大きい声でそう言った。けどその声もどこか張り詰めた感じがして不自然で、どうしたんだろうと思ったけど答えはすぐに見つかった。
工藤さんのすぐ後ろには前田がいて、監視するみたいに腕を組んで立っている。
「……大丈夫だけど、なに?」
「あたしのポーチ、知らないかな」
工藤さんの声は、さっきより少し大きくなった。だけど上擦って引き攣って、可哀想で聞いてられない。
「白地に黒の水玉模様のやつ。手の平ぐらいの大きさの。知らない? 鎮痛剤とか……色々、入ってるんだけど」
おれの知ってる工藤さんは、元気で明るくてざっくばらんで、こんなおれと仲良くしてくれたぐらいの、ちょっといい人過ぎるくらいすごくいい人。
だから今、きっとすごくつらい思いをしながらおれに話しかけてるに違いない。
「知らないけど──……どうしておれに聞くんだよ」
おれは工藤さんじゃなくて、その後ろに立ってる前田を睨んで答えた。本当にどこまでも汚くて卑怯で気持ち悪いやつ!
「とぼけんなよ。お前しかいないだろ」
工藤さんを押しのけて前田が答えた。座ったままのおれを化け物みたいな目つきで見下ろして、がつんと一度、おれの机を蹴飛ばす。
「昨日の帰り際からないんだってよ。お前、午後からサボってたろ。早く出せって」
「知らない物なんか出せるかよ。ていうか、そんなもん盗ってどうするんだよ」
前田はアルファのくせにバカだから、おれが手を出すのはアルファの物だけっていうのを知らないらしい。ちんこでしかものを考えてないから、嫌がらせですらお粗末だ。
でもやばい。工藤さんのポーチは知らないけど、別の人の物は確実に出てくる。
「……工藤さん。そのポーチ、どっかに置き忘れて来た覚えとかないの?」
話を振って本当に申し訳ないとは思いつつ、でもこっちもなりふり構ってらんないから一縷の望みをかけて、このお粗末な茶番からどうにか降りてくれないかなと思って聞いてみる。
「ねえ、よく思い出してみて」
──ダメだった。工藤さんは何も言わずに首を大きく横に振った。しょうがない。彼女は悪くない。でも恨めしく思うのは許してほしい。
「なあ青木。お前がビョーキなのはみんな知ってんだよ。だからさあ。自分から正直に謝って盗ったもん出せば許してやるって」
前田はいやに芝居掛かった大きな声で言っては、屈み込んでおれの顔を覗き込んだ。憎たらしいニヤニヤ笑いを浮かべた気持ち悪い顔、盛りのついた犬みたいな目つきで。
たぶんもう、おれのリュックの中かジャンパーのポケットかどこかに、工藤さんのポーチがこっそり入れられてるに違いない。
おれを吊るし上げてみんなが見てる前で持ち物検査をして、そしたらポーチが出てくる準備ができてるから前田のアホは自信満々だし工藤さんは泣きそうな顔をしているに違いない。
だからいっそ嘘でもさっさと自白して、自分でそれを出して見せた方が傷は浅いのかも知れない。
どれだけ濡れ衣だって言ったって、どうせおれの言うことなんか誰も信じやしない──けど、こいつに頭下げて〝許してもらう〟なんて死んでもごめんだ。
「病気じゃない。治んないんだから。そんなことも知らないわけ? アタマ大丈夫かお前」
がん! と大きな音を立てて、前田がもう一度机を蹴った。机の中からペンケースが落ちて、中身が床に散らばった。
「おい! やめろって! 勝手に触んな!!」
おれが椅子から降りてペンを拾ってる間に、前田は机の横にかかってるおれのリュックを取り上げてチャックというチャックを開けて、逆さまにして乱暴に振った。そうしたら、人混みの中で突然誰かがゲロを吐いたみたいな悲鳴が教室のそこここで上がった。
おれのリュックからはやっぱり工藤さんの水玉模様のポーチが転がり落ちて来たけど、悲鳴はどっちかっていうと、同じようにリュックから溢れた漆間先生のカーディガンや腕時計やペンや、紙吹雪みたいにひらひら落ちて来たたくさんの名刺にだったのかも知れない。
「え……いやお前、マジのやつじゃん」
静まり返った教室に、そんな前田の声だけが漂った。
「マジの泥棒じゃん。引くんだけど」
それにはこっちも言い返せないから、黙って名刺を拾い集める。
名刺はワックスと埃で黒く汚れて、もう使えそうにない。カーディガンもそう。洗って返さなきゃ。黒い革の名刺入れにも少し埃が付いたけど、そっちは制服の袖口で拭ったらきれいになった。腕時計は──裏返しになって前田の足元に落ちてる腕時計は──文字盤のガラスにヒビが入ってた。
「あーあ。青木。それ、ちゃんと弁償しろよ。お前ならエンコーですぐだろ。オメガでよかったなあ」
前田は大声で言って、空になったおれのリュックを乱暴に投げ寄越して来た。おれは咄嗟にそれを腕で払い落として、先生の腕時計を握り締めた拳で奴の顔のど真ん中を殴った。
物を握り締めた拳は普段より硬くなるっていうのはマンガで読んだことがあったけど、本当だったみたいだ。頭に血が上って、火事場の馬鹿力が出たっていうのもあるのかも知れない。
いつもだったらおれのへなちょこパンチなんか簡単にかわされるし当たったってちょっと音がする程度のもんなのに、どうしてかおれの握りこぶしは奴の鼻っ柱をまっすぐ叩き、奴の鼻からはいつかのおれみたいに鼻血が吹き出した。
さっきよりも大きな悲鳴が上がって、誰かが走って教室を出て行った。まさかおれにぶん殴られて鼻血出すなんて思ってなかったんだろう。前田は顔の下半分を血まみれにしたアホ面でへたり込んでる。
空のリュックに先生の物だけごそっと突っ込んで、ジャンパーを引っ掴んで急いで教室を出た。きっともうすぐ先生が──漆間先生が、教室に来る。
「青木!」
教室を飛び出したおれを昇降口まで追いかけて来たのは工藤さんだった。水玉模様のポーチを握り締めて、べそかきながら白い息を切らせてる。見ていられない、可哀想な顔だった。でも、許せない。
「ごめん! ごめんね!!」
思えば、工藤さんがしょっちゅうカウンセラー室に来てたのはクラスで居場所がなかったからなんだろう。
「いいよ。しょうがない──」
だから彼女もきっと、おれと同じ穴の……なんだっけ。忘れた。
「──なんて言うわけないだろ。やってられるか!」
唾を吐きかけるようなつもりでそう言って、靴に足を突っ込んで逃げるみたいに早足で学校を出た。本当の気持ちだったけど、あんなこと言わなきゃよかったってすぐに後悔。でもどうしても言わずにはいられなかった。工藤さんは、友達だったから。
* * *
坂道をつるつる滑りながら駆け降りて、国道沿いにあるバス停にちょうど来たバスに飛び乗った。運賃はどこまで行っても二百十円。とはいえ小さな街だから〝どこまで〟って言ったってたかが知れてるんだけど。
終点のバスターミナルまで行けば、目の前にショッピングセンターがある。おれも病院の帰りとかに連れて来てもらったことがあるけど、いつ来てもお年寄りしかいない。平日の昼間は尚更だ。
おぼろげな記憶を頼りに、エスカレーターを上がって二階の奥を目指す。覚えてた通り、本屋さんの向かいに時計屋さんがあった。
お金がないからどうせ買えやしないんだけど値段くらい知っておかなきゃと思って、リュックから腕時計を出した。
茶色の革バンドの、アナログの腕時計。文字盤のガラスにヒビが入っただけだと思ってたけど、あの時間で針も止まってる。店先に出てるショーケースには同じのを見つけられなくて、少し緊張しながらそろそろっと店の中に足を踏み入れた。
「いらっしゃいませ。何かお探しですか?」
奥の方で置き時計の埃を払っていたスーツ姿の店員さんがすぐに声をかけて来て、おれの持っている腕時計をちらっと見た。
「あっ、あの、これ……同じのって、ないですか?」
万引き犯って思われてたらたまんないと思って、すぐに腕時計を差し出した。店員さんは「失礼しますね」と言っておれの手から腕時計を受け取って、隅々まで丁寧に見てからこう言った。
「……かなり古いモデルなので新品での取り扱いはありませんが、修理ならできますよ」
「本当ですか? どのくらいかかりますか?」
「費用は分解して故障箇所を確認してからの見積もりになりますが、こちらのブランドの物ですと三万円からになります。期間は大体一ヶ月ほどと見て頂ければ」
腕時計を返してもらって、思わずうなだれる。三万円。どうしようもない金額だ。こづかいは貰ってないし、ポケットの中にはあと七百九十円しか入ってない。それこそ本当に、エンコーでもするしかないような金額。
「お父さんの腕時計かな?」
うつむいて壊れた腕時計を眺めてたおれの目の高さに合わせるみたいにして、店員さんは少し屈んでそう尋ねてきた。
「……何かの弾みで壊れるのは仕方がないことだから。正直に話して、今度はお父さんと一緒においで」
黙ったまま目を泳がせてるおれの顔を見て、店員さんは察したようにそう言った。それができたら苦労しないよ。と思ったけど確かにそうするほかにはないわけで。だから「わかりました」とだけ言って、店を出てきた。
ついさっき昇ってきたエスカレーターをとぼとぼ降りて、なんだかどっと疲れた気がして一階の真ん中にある広場のベンチに腰を下ろした。
途端に腹の奥に慣れた痛みが走って気が重くなる。予定より少し早い。あんなに毎日心待ちにしてた発情期だけど、来て欲しかった理由がなくなった今はただただ気が重い。
先にここで根を生やしておしゃべりしていたお年寄りがちらちらおれを見る。
学生が珍しいのか、それとも、年寄りでもオメガの匂いが分かるのか。どっちにしろ鬱陶しくて、下ろした腰をすぐに上げた。
今が何時なのかは分からないけど、外はまだ明るい。二月になって急に春めきだした日差しがガンガン雪を溶かしていて、歩道も車道もシャーベット状になった砂混じりの茶色い氷つぶでぐしゃぐしゃだ。ズボンの裾が濡れて重たい。
何やってるんだろうおれ。よく分からない。一体何がしたいのか、これからどうするべきなのか。……嘘だ。本当は分かってる。
おれは今すぐバスに乗って帰って、指導員さんに学校をサボったことと、漆間先生の時計を壊しちゃったことを話して一緒に謝ってもらわなくちゃいけない。
でも、分かってても気が重くて、なかなか帰る気になれなくてしばらく外をうろうろ歩いてたけど、日が傾いて寒くなってきてからはバスターミナルの待合室にあるベンチに座って、石油ストーブでズボンの裾を乾かしながら延々とバスを見送り続けている。人の出入りでドアが開くたび寒くて、ネックウォーマーを学校に忘れてきたことに気付く。
「きみ──これから塾とか?」
夕方、帰宅ラッシュが始まったのか待合室にもずいぶん人が多くなってきた。
だからその人がおれにかけた声も、少し途切れがちに聞こえた。
「それとも誰かと待ち合わせ?」
「別に……そういうわけじゃ」
グレーのスーツの上にベージュのコートを着たおじさんはおれの横、膝がぶつかるくらいの近くに座る。
「じゃあ遊びに来たんだ」
整髪料の臭いがつんと鼻を突いて、少し気持ち悪くなった。──いや、違う。気持ち悪いのは整髪料の臭いじゃなくてこの人の臭い。ベータっぽいし普通に考えて予防接種は終わってるんだろうけど──そうか。おれが発情期だからだ。
「お腹空いてるよね。何か食べに行こうか」
「いいです。腹、減ってないから」
このおじさんのアタマをおかしくしてるのが自分の出してるフェロモンであることに気付いて、おれはなるべく相手を刺激しないようにそっと座ってる場所をずらしてから立ち上がった。けど。
「いいっていいって、気にしないで。何がいい? 焼肉とか?」
「ほんとにいらないです。肉、嫌いなんで」
「そっか。じゃあ回転寿司にしようか」
猫撫で声と全然結びつかない力で腕を引っ張られて、尻餅をつくみたいにしてまた椅子に座らされた。何を言ったって全然話の通じなそうな──実際、話は全然噛み合ってない──人の目はやっぱり怖くて、じっと体を強張らせてされるがままになってることしかできない。
「じゃあもう、休憩行く? きみ、いくらでさせてくれるの?」
言われてる意味がとっさに分からなくて、反射で顔を上げた。
「先生──」
そうしたら話の通じない目をしたおじさんの肩越しに漆間先生と目が合って、ぽろっと口から声が零れた。
おじさんが縮み上がるようにしておれから手を離して振り返ったのと、見たことないくらい怖い顔をした先生がおじさんの肩を叩いたのがほとんど同時だった。
「うちの生徒がご迷惑おかけして申し訳ありません」
先生はものすごく低い声で、言葉とは反対にまるで敵を威嚇するオオカミが唸るみたいにそう言っておれとおじさんの間に割って入る。
そんな先生の声や形相にびびったのか、おじさんは急に目の色を変えて──普通の人のそれに戻して──先生と目を合わせないまましどろもどろ小さな声で言い訳をして、一度おれに向かって舌打ちをしてから早足でそそくさと待合室を出て行った。
「先生、あの……」
助けてくれたお礼を言おうとしたのか、それとも色んなことを謝ろうとしたのか、自分でもよく分からない。でも、とにかく何か言わなきゃって思って口を開いたはずなのに、先生の怒った顔を見たらぎゅうっと喉が締まったような感じがして声が出なくなる。
「来なさい。青木」
先生はさっきのおじさんよりもっと強い力でおれの手を引いて待合室からおれを連れ出し、すぐそばのコンビニに停まってる先生の車の助手席におれを押し込んだ。
「何してたんだ。あそこで」
「何って、別に……」
「別にじゃない。何してたんだって聞いてるんだ!」
初めて聞いた。先生の怒鳴り声。それは大きな雷鳴みたいに狭い車の中とおれの体の中で響いて、あとにやってきた沈黙が耳鳴りに感じるほどだった。
「……大きな声出したのは先生が悪かった。でも、ちゃんと答えなさい。青木」
おれが黙ったままでいるのは先生の声にびびったからだと思われたのか、先生はため息交じりに低い落ち着いた声でゆっくり話す。
「時計屋さんから学校に電話があった。おたくの制服着た生徒が来たけど、まだ授業中なんじゃないのかって」
「それで、探しに来てくれたんですか?」
おれがそう聞き返すと、先生は「そうだ」と言って頷いた。いつもみたいにおれのこと、本当に心配して探しに来てくれたんだっていうのが分かった。
「昼休みに何があったかは工藤さんに聞いた」
だけど、そんな先生の少し得意げな感じが癪に障ってしょうがない。だってこの人は、おれのことを心配はしてくれてるんだろうけど絶対に助けてはくれない。
「……先生は、おれが何をしようとしてたと思うの?」
「何って、青木──」
「濁さないでちゃんと言ってよ。前田や工藤さんがなんて言ったか知らないけど、全部知ってるんだろ!?」
先生がおれを問い質したように、おれも先生を問い質した。最後の賭けだ。先生がおれを信じてくれてるなら──おれのことを、前田のアホやあのおじさんが思ってるみたいなことをする奴じゃないって先生が信じてくれてるなら、おれも先生にたくさん心配をかけたことをちゃんと謝ろう思った。
──だけど。
「……頼むから、もっと自分を大切にしてくれ」
先生は、大きなため息を吐くようにしてその答えを絞り出した。
「はははっ」
悲しくて、虚しくて、泣けもしないから笑うしかない。どっかで現実から心を逃がさないと、本当に頭がおかしくなりそうだ。
なんて綺麗な、なんて空々しい言葉を使うんだろうこの人は。そういうものしか見てこなかったんだろう。この人におれの気持ちなんか絶対に分からない。そんな人にはおれのことなんか、絶対に手に負えない。
この人は、おれのことを大切にしてくれたんじゃなかった。きっと、昔の自分と同じ可哀想な子どもなら誰でもよかったに違いない。
ばかみたいだ。
聖職者ごっこが楽しくて仕方ないらしいこの人も、そんなこの人のことがそれでも好きで好きでどうしようもなくて、許したいのに許せなくて、だからこそ恨めしくてたまらないおれの気持ちの重さも。
「先生。自分を大切にするって、どういうことですか。一体何を大切にしたらいいんですか。気持ちですか体ですか。それってなんのためですか」
おれがそうやって矢継ぎ早に尋ねると、先生はやがてまた、いつもみたいに白々しく口を開いた。
「気持ちも、体も……青木の全部を、大切にしてほしい。青木が後悔しないために」
先生が真剣な顔をすればするほど、辛そうな顔をすればするほど、自分じゃどうしようもないくらい可笑しさが込み上げてくる。
「そう言うなら先生、おれのこと抱いてよ。後悔なんかしないしさせないから」
「だから、そういうところがお前はまだ──」
「おれ、セックスしないと発情期終わんないんです。最初っからそうです。好きとか嫌いとかいっこも関係ないんです。誰かにいいようにされてないとおれは、苦しいのがずーっと続くんです」
おれが先生の言葉を遮ってそう言うと、先生は自分が言いかけてた言葉を吹き飛ばされて忘れたみたいに口を開けたまま俺の目を凝視する。
「……最初は〝家〟から連れ出されたすぐ後、警察だか病院だかの人にされました。この前は図書室で前田に無理やりされました。痛かったし気持ち悪かったし嫌だったけどおれにはどうしようもなかったし、でもそれで発情期が終わるならいいや我慢しようと思って、ちょうどまた発情期が来たから、さっきのおじさんを引っ掛けたんです。先生がしてくんないなら誰が相手だって一緒だから!」
先生の好きな可哀想な子どもの言いそうなことは、嘘もほんとも次から次にすらすら口から出てくる。
「ねえ先生。教えてください。〝自分を大切にする〟ってどういうことですか。一体どうすることなんですか。何を守ったらいいんですか」
おれが大切にしてもらってるって思えてたのは、あの〝家〟で、きれいな野菜と水だけで育てられてた子ども時代だけだ。
それが全部嘘で、全部が汚くて全部が悪いなら、誰にも大切にされたことのないおれがどうして自分を大切にできるっていうんだろう。先生の言う〝大切〟が、おれにはもう一つももわからない。
「おれには、先生のことが好きだと思う気持ちのほかには大切にしたいものなんか何一つなかったんです。そもそもそれ以外には、おれの自由になるものなんかなんにもないし。だからこの気持ちがニセモノだっていうなら、おれにはもう何もない。気持ちも体も何もかも他人のいいようにされてずっと自由にならないなら、どうしておれは生きてなくちゃならないの?」
先生は目にたくさん涙を貯めて、両手でおれの肩を強く掴んだ。
「──ごめん」
「どうして謝るんですか」
「守ってやれなくてごめん」
「そんなこと、誰も頼んでないよ」
先生は、抱き締めてもくれなかった。
* * *
漆間法介先生へ
あと三十分で飛行機に乗らなきゃならないので手短に書きます。
短い間でしたが、お世話になりました。ありがとうございました。
それと、たくさんめんどうをかけてごめんなさい。
腕時計とか名刺入れとか、勝手に持って行ってごめんなさい。
本当はターミナルにむかえに来てもらった時に返したらよかったんだけど、
返しそびれたので送ります。
なんて、本当は返したくなかったのかもしれないね。
けれどもそれはおれのフェロモンがさせたことなのではなく、
おれの心がさせたことなのだということはどうか分かっていてください。
指導員さんからもう連絡がいっているかもしれませんが、
少し前にした発情期の精密検査の結果が出たのでお知らせします。
おれはやっぱり、先生の思う形では自分を大切にはできないようです。
そんなおれは汚いでしょうか。おぞましいでしょうか。
一体おれの何が悪かったのでしょうか。しいて言うなら生まれでしょうか。
これはくつがえせることなのでしょうか。いつかは終わることなのでしょうか。
今はまだ、何一つ分かりません。ただ、腹痛とめまいがやみません。
幸い人の手を、もとい下半身を借りずに治りょうができる病院があるそうで、
しばらくはそこでの入院生活になるようです。
少し遠くの病院ですが、元気になれたら先生に会いに行きたいと思います。
元気になれなくてもきっと白い猫になって先生に会いに行くので、
その時は白い猫になったおれを「おもち」と呼んでなでてください。
なんて、とんだ悪知恵です。
こう書けば先生はきっと、白い猫を見ておれを思い出してくれるでしょう。
勉強は苦手だけど、こういうことには頭がはたらきます。
飛行機の時間が迫ってきました。
最後にひとつだけ。
誰がなんと言おうと、先生がなんと言おうと、先生はおれの運命の人でした。
それがたとえどんな形であっても、おれの中でただひとつ確かなことです。
先生、さようなら。
先生のことが好きでした。
明日も明後日も、きっと好きだと思います。ずっと好きだと思います。
先生のことが好きだと思う心ひとつが、おれの大切なものでした。
青木理人