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六、
青木は昔からの習慣で「いつもは遅くとも六時までには起きる」というのを聞いていたのだが、遅くに一度目を覚まして話し込んでしまったせいか、翌朝はなかなか起きて来なかった。
しかし、あの部屋で寝起きをするというのがどのようなことであるかを彼に伝え忘れていたのは、数多ある私の失敗の一つだった。
私はそれを、二階から聞こえてきた「ぎゃーっ!」という彼の叫び声で思い出す。
「しまった!」
天井を見上げ「きなこね」「やったなあいつ」とぼんやり言い合っている両親を尻目に手にしていたコーヒーサーバーを食卓へ置き、慌てて二階へ駆け上がった。
すると、頭に寝癖を作った青木が両腕できなこを抱えて部屋から出てきたところに鉢合わせる。
「先生! 猫降ってきた!!」
思った通りだ。キャットタワーは昨夜の内に車のトランクへ片付けたけれど、カーテンレールかどこかによじ登って飛び降りたきなこが寝ている青木の腹の上にでも着地したのだろう。
当のきなこは青木に捕まり両前脚を突き出した格好で不服そうな顔をしているが、五キロの毛玉が降ってきたらそりゃあ「ぎゃーっ!」とも叫ぶというもんだ。
「ごめんごめん! 怪我ないか?」
「ないけど! でも猫降ってきたよ!?」
まだ寝ぼけているのか、青木は繰り返しそんなことを言って目を白黒させていた。
そんな衝撃の起床体験をしたのち、青木は身支度と一通りのバイタルチェック──十四歳の頃から毎朝欠かさず行なっているという。頭が下がる──を手際良く終え、調子が良さそうだったので昼過ぎに二人で買い物に出てきた。目的は主に青木の生活用品と、我が家の食料品の買い出しだ。
「先生のお母さんがさ、なんでもおれの好きなもん作ってくれるって言ってたんですけど」
あまり洒落ているとは言えない私のおさがり(しかも、彼の体にはかなり大きい)を着た青木は、助手席で恐縮そうに言った。
「おれ的には唐揚げとけんちんって相当クライマックスだったんですよね。それ以外って言われると、おいなりさんぐらいしか思い浮かばなくて困った」
「いいじゃないか。おいなりさんだって。何か問題でもあるのか」
「だってなんか、作り甲斐なくないですか? 油揚げにご飯詰めるだけだし。きっと、手をかけた物おれに食べさせてやろうとしてくれてると思うんですよね。だから申し訳なくて」
あの「触れたらキレそう」だった青木が人に対してそんな繊細な心遣いを! と驚きを禁じ得ず、角をひとつ曲がり損ねる。
「いやー……私は全然そんなこと気にしなくていいと思うけど。そう言えば青木、昔からわりとシブめのっていうか、素朴な和食が好きみたいなところあったよな」
「好きっていうか……まあ、精進料理食っとけば間違いないでしょみたいなとこありましたからね。あと、洋食って牛乳とかバターとか使ってるの多いじゃないですか。あれダメなんですよ。食えなくはないけど、乳製品っておれすぐ腹下すから」
「そうなんだ。じゃあ、それは気をつけないといけないなあ」
大回りをして辿り着いた駅前の立体駐車場に車を入れて、バスターミナルの向かいのショッピングセンターへ。少し前まではテナントもガラガラで単なる高齢者の社交場といった印象が強かったのだが、親会社の買収に伴って大幅に改装され、今では若者の姿も随分見られる。
「うわあ……昨日もちらっと見たけど、ほんっとに変わったなあ」
青木はエスカレーターから身を乗り出し、吹き抜けのホールを見下ろしながら感嘆の声を上げた。今日はホールの催事場で、クリスマスオーナメントのセールをやっている。
「おれのいた頃なんてここ、ジジババ広場って言われてたのに。それが今じゃクリスマスマーケットだってさ。すごいね」
「あー。そうだったそうだった。よく考えたらなかなかの言われようだよな」
あの日青木が学校を抜け出してここへ来たことを報せてくれた時計屋のあった一角は、今は地域で一番大きな輸入雑貨のチェーン店になっている。そこで青木の洗面道具を見繕ったが、彼はタオルもコップも歯ブラシも青い物を選んだので「やっぱり〝青木〟だからか?」と聞いたら、心底つまらなそうに「は?」とだけ返された。若者は難しい。
そのあとは青木が雑誌を見たいというので、向かいの書店に寄った。青木はまっすぐ新刊台へ歩み寄り、平台に積んである登山専門誌を手に取る。
「へえ……山、好きなのか」
「ううん。全然」
「えっ?」
「この間バイトで文字起こしやったのがこの雑誌に載ってるみたいなんで、ちょっと見てみたかっただけです」
そう言って青木は雑誌冒頭の目次を熟読し、目的のページを探す。確かに昨夜、そういう仕事で貯金をしていると言っていたけれど。
「文字起こしって、手書きで?」
「そんなわけないでしょ。パソコンでAIの文字起こしアプリ使ってますよ」
「AI使えるのか!?」
「ええまあ……世話になってる施設でそういう、職業訓練? みたいなのがあって、そこでワープロのソフトと表計算ソフトの使い方教えてもらいました。訓練で使ったお古のノートパソコン譲ってもらえたんで、それでリモートワークしてます」
青木は雑誌に視線を落としたまま、少しだけ得意げに口角を上げてそう言ってパラパラとページを捲る。彼が手を止めたページに掲載されているのは登山家のロングインタビューのようだった。
ちょっと見てみたかっただけ。と言っていた彼ではあるが、思いのほかその記事を真剣に読み始める。
なので私は青木が立ち読みに興じている間にその雑誌を購入し、戻ってきても彼はまだ雑誌を食い入るように見ていたので、私もペット雑誌を冷やかして時間を潰した。今まさにこの瞬間、彼が新しく夢中になれるものに出会えていたとしたなら素敵だな。などと考えながら。
青木が立ち読みに満足した頃。三時を回って小腹が空いてきたので、彼が昨日「みつ豆がうまそうだった」と言っていた喫茶店で一休みすることにした。一人だとわざわざ甘い物を食べに外へ行ったりしないので、なんだか背筋がむず痒い。
「──青木、みつ豆でいいのか?」
「え? あ、いや、ちょっと待って!」
矢絣の着物の上に白いエプロンを付けた袴姿のウエイトレスが去っていくのを何やら神妙な顔で見つめていた青木は、私が声をかけると少し慌ててメニューを開く。
「わらび餅も捨てがたい……」
「どっちも頼めばいいよ」
「あんまり食べると夕飯入んなくなるし」
「じゃあ、私がわらび餅頼もうかな。ちょっとずつ分けて食べよう。久しぶりだな……」
卓上の呼び出しボタンを押すとすぐに「少々お待ちくださーい」という声が聞こえてきたものの、日曜の午後とあって店は混んでいて、なかなか順番は回ってこない。
「……制服、雰囲気があっていいよな」
「は?」
青木はまた、心の底からつまらなそうにそう発して対面の私を睨んだ。
「先生、ああいうのがシュミですか」
「ええっ!?」
若者は難しい。キレ味がするどすぎる。幸いにして日常生活ではあまり被ることのなくなってきた理不尽を久々に浴びて、たまらず目が泳ぐ。
「いやいや! だってお前がなんか神妙な顔で見てるから、好きなのかなって!」
「はあ? おれはただ、さっきの子が──」
そんなある種のバカバカしく下世話な言い争いの渦中に、席に通してくれたのと同じウエイトレスが注文を取りに来る。
高校生だろうか。まだあどけない顔つきの、元気そうなショートカットの女の子だ。
「──やっぱり、工藤さんだよね!?」
青木に名指しされた彼女は、すぐにはっと目を瞠く。
「うそ! 青木!?」
その声を聞いて私も思い出した。髪型が変わっているのと化粧をしているのとで分からなかったけれど、彼女はあの頃の青木のクラスメイトだ。心根のまっすぐな優しい子だったけれどあの頃はその個性を活かしきれていなくて、青木と同じくクラスに上手く馴染めていない子だった。
不意の再会に思わず発してしまったのであろう大きな声を恥じるように彼女は一度両手を口に当て、それから改めて「やだー、うそー、久しぶりーっ!」と感極まった様子で青木の手を取る。
「なになにどうしたの!? 体、良くなったんだ!?」
「う、うん、まあ、あの頃よりは……工藤さんは相変わらず元気だねえ」
「うん! 元気元気! え、てか待って待って。漆間先生じゃん! なんで!?」
「まあ、色々あって」
「いろいろ! そっかあ!」
店の混雑を思い出してか彼女はそこでやや強引に話を切り上げ、エプロンのポケットからオーダー端末とタッチペンを取り出した。
「えっと、ご注文は!」
彼女が青木の方を見ながら心なしか得意げにそう発したので、私は青木に注文を一任して二人を見守ることにする。
「みつ豆とわらび餅を一つずつ……」
「みつ豆とー、わらび餅をー、お一つずつ! かしこまりました!」
「工藤さん、こんな時期までバイト? 大変だね」
「うん! あ、でも大学はもう推薦で決まったから免許代稼ごうと思ってさ! それじゃあ、少々お待ちくださーい!」
彼女は元気よくそう発し、背中でるんるんとエプロンの紐を揺らしながら小走りで厨房へ向かった。青木はそんな彼女の背中を愉快そうに見つめている。
「彼女、変わってないなあ」
私がそう言うと青木は、少し呆れたような顔で私を見てふふっと笑った。
「よく言うよ。全然気付いてなかったじゃないですか。どこに目ェ付けてんだか」
「いやまあ、それはそうなんだけど……」
確かに言われて見れば、今の私の視界において高解像度で表示されているのは青木理人の存在のみであって、周辺のほかの物事はいつだってなんとなくぼんやりだ。
「中身がだよ。中身が」
なので咄嗟に彼から目を逸らし、サービスの緑茶に口を付けた。目の覚めるような苦さの濃い緑茶だ。青木はこういうの平気かな。と思って様子を伺ってみたけれど、彼は特段何かを気にする風でもなく口をつけた湯呑みをテーブルへ戻して口を開く。
「確かに、変わってないですね。なんか安心した。元気だし、バイト楽しそうで」
「……そうだな。よかったな」
「おれ、工藤さんにひどいこと言ったまんま謝れないで向こう行っちゃったから……会えて良かったです。連絡先とか聞けるかな」
そう言って目を細めて笑った青木の横顔、その血の通った美しさが私に、彼が今は十四歳の少年ではなく紛う方無き十八歳の青年であることを知らしめた。
私の知らない顔で彼が笑う。当たり前の、喜ばしいことだ。なのに私はあろうことか、女子高生相手にものすごい熱量の嫉妬心を抱いている。情けなさすぎて消えてしまいたい。
「……携帯、持つか?」
その提案に、青木はぎょっと目を瞠いて顔で私の顔を見た。
「あった方がいいだろ。工藤さんと連絡取りしやすくなるし、今後何かと必要になる」
「いやでも、おれそんな毎月ケータイ代ちゃんと払えるほどの余裕ないし、契約の書類だって施設の人のサインが──」
「向こうの施設と病院には昨日の内にもう連絡したよ。青木はちゃんとうちに着きましたって報せなきゃいけないからな」
私がそう言うと青木は「え……」と声ならぬ声を上げながら目を泳がせて下を向く。
「くれぐれもよろしくって、丁寧に頼まれたよ。施設の方でも最大限サポートするけど、退所した後で身持ち崩す子は多いからって。……どうして昨夜、嘘ついたんだ」
青木は黙ったまま下を向いている。そういうところは十四歳の時と変わらない。雑な隠し事をしてそれが通用すると思っている浅はかなところも、まだまだ子どもだ。そんなところを確認しては安心している自分の卑しさを、私は心の底から軽蔑する。
「怒らないから、答えてごらん。青木」
いじけたような。というよりは、自分の存在をひどく恥じ入るような卑屈な声で彼は答えた。
「だって、余計な心配かけたら悪いと思って」
「またお前はそうやって……何度も言うようだけど──」
「あの、タオルとか色々買ってもらっちゃってほんと悪いなって思うんですけど、そんなに長く世話になるつもりないんで! ほんとだったら、ちょっと先生の顔見たらすぐ帰るつもりだったし!」
「帰るって、どこへ」
「どこって別に、どこでもいいじゃないですか。先生には関係ない。……おれみたいな役立たずの穀潰し──」
青木が俯いて卑屈な声でぼそぼそと言うのを、工藤さんの溌剌とした「お待たせしましたーっ!」という声が掻き消した。
「えっとー、わらび餅とー、みつ豆……いやちょっとなにこの空気。重い重い! びっくりだわ」
甘味処には似つかわしくないしかめっ面で向かい合っている私と青木の間で、工藤さんはてきぱきと給仕の手を動かしながらテーブルの上に蟠っていた空気を笑い飛ばした。
「青木!」
「なに。──いってえ!」
工藤さんは青木のあまり逞しいとは言えない背中を手のひらで強く叩き、憤然として言い放つ。
「あんたねえ! 子どもが役立たずで穀潰しなのなんて当たり前でしょうが! いろんな人に金も手間暇もかけて育ててもらってんのに、使い物になる前にダメになっていいと思ってんの!?」
「思ってないです……」
「でしょ!? 分かってんならいっぱい食べな! お腹減ってるから変なことばっか考えるんだよ!」
そう言った工藤さんは私にも「ねえ先生!」と同意を求めながらテーブルの上へ伝票を伏せる。
「……そうだね。工藤さんの言う通りだと思うよ」
「ほらあ! しっかりしな! ごゆっくりどうぞ!」
工藤さんは、また少し強引に話を断ち切って仕事へ戻っていった。青木はその勢いに呆気にとられてしまってか、私に横顔を見せて呆然と彼女が立働く様を眺めている。
「やっぱすごいな……。工藤さん」
そして独り言のように呟いて、目を細めて微笑んだ。胸の奥が、炙られたように熱を持って痛む。そこへ燃え移った小さな炎はきっと、どうにかして小さな内に消してしまわないと大変なことになる。
炎は獣を揺り起こし、獣はこの子を襲うだろう。彼女に獲られてしまう前にどこか手頃な部屋にこの子を閉じ込めて、撫でて、抱きしめて、文字通り猫可愛がりの何十年かを──。
そんな不埒な考えを追い出すように一度、冷めた緑茶を一息に呷った。強い苦味でぎゅうっと後頭部が痛むような感覚がするが、おかげで目が覚めた。
「……青木。いただこうか。腹、減ってるだろ」
「あー……い、いただきます!」
彼女に背中をひっぱたかれた青木は、心なしかさっきよりもしゃんと背筋を伸ばしてスプーンを手に取った。
「うまいか?」
「──はい。おいしいです」
「ならよかった。わらび餅も食べなさい」
私が皿を差し出すと、青木はスプーンから楊枝に持ち替えわらび餅を口へ運ぶ。
「……おいしい」
「そうか? じゃあ、私もいただこうかな」
手を合わせ、黄粉の山の中から化石を探し出すようにしてわらび餅を掘り起こす。
弾力が強くてなかなか楊枝が入っていかないし、一口大に切れたら切れたで黒蜜が滴って器の外に零しそうだしで、青木はよくあんな綺麗に食べたな。と感心してしまう。
「……施設ってさ。先生も知ってると思うけど」
そんな風にわらび餅と格闘していると、青木はやがてぽつりぽつりと話し始めた。
「基本、学校行ってないと住めないとこじゃん? 高校通ってても、中退して就職したりバイト始めたら出てかなきゃなんないし」
「ああ……うん。まあ、原則的にはそうだけど」
確かに児童養護施設はかかる費用の全てが公費で賄われているということもあり、基本的には自分の力で生活基盤を保つことが困難な学童や生徒のための施設だ。
そのためたとえ未成年であっても、学校へ通っていなかったり、通っていても定時制や通信制などで日中仕事をする時間が充分にあると判断される場合には退所を促される場合が多い。
「でもおれはこんな体じゃ普通の会社とかバイト先はどこも雇ってくれないし、全日制の高校も、受かっても通わせてもらえるとこなかったし。っていうか中学卒業する頃っておれ入院ばっかしてたしで全然どうにもなんなかったから、通信制高校で勉強するって約束で結構特別に置いてもらってたんです」
「……そうだったんだ」
「でも、夏にその通信制もやめちゃって」
「それはどうして?」
「単に登校日数が足りなくなっちゃったんです。最低でも週に一回は必ず登校しなきゃいけなかったんですけど、入院してたり、たまたま発情期かぶってたりであんまり学校行けなくて。……それで一学期の終わりに今年度での卒業は無理って言われたから、だったらリモートのバイト増やして貯金して、とっとと施設出てった方がいいやと思ったんです。あんま余裕のあるとこじゃなかったから、頭数減った方がいいだろうし」
聞けば聞くだに胸が苦しくなるほどの切ない話を青木は淡々と、時折みつ豆を口へ運びながら続ける。
「それで、指導員さんたちと相談して退所することにしたんですけど……でもなんかもう、疲れちゃって。別にやりたいこととかないし、何ができるっていうわけでもないし、これ以上おれなんかを生かすために税金とか医療費つぎ込まれんのも心苦しいしなって思ったんだけど……最後にどうしても、先生には会っておきたくて」
青木は空になったみつ豆の器にスプーンを置き、少し恥ずかしそうに「だから、来ちゃいました」と言ってその話を結んだ。
「……そうか。そうだったんだ」
かけてやるべき言葉が咄嗟に見つからず、相槌を繰り返すことしかできなくて歯痒い。
そんな状況ならそりゃそうもなるさ。という納得と、旧態依然とした社会的養護の脆弱さに対する憤りと、それでもどうにかこの子がここまで辿り着いてくれたことについての神への感謝とで胸が張り裂けそうだ。けれど。
「でもさあ、最後なんて言うなよ」
千々に乱れた心をかき集め、どうにか言葉にして彼の手を取った。
「やりたいことも、できることも、これからゆっくり見つけていけばいいから。なんでもするから、頼むから最後なんて言わないでくれ……」
青木の手は、白くて華奢だ。桜貝のような小さな短い爪が、その指先で光っている。血の通った、まだ温かい手だ。
「やだな、先生。泣かないでよ。……恥ずかしいじゃん」
青木はひどく動揺したような震えた声でそう言って、けれども私の手は振り払わずにいてくれた。
かえって私の方が彼に慰められるような格好で、青木は私の手を握り返す。
「なんでもしてくれるなら、やっぱり携帯、持たせてくれます?」
「もちろん。好きなのを選ぶといい」
「あと、わらび餅もうちょっと食べていい?」
「ああ。食え食え。もう、好きなだけ食え」
「ははは。先生はおれに甘いなあ」
どちらからともなく照れながら手を離し、私はわらび餅の皿を青木の前へ差し出した。青木は私の残したわらび餅を綺麗にぺろりと平らげ、残った黄粉を集めて皿の上に猫を描いては「みて。きなこのきなこ。かわいいでしょ」と言って笑う。あんまり可愛いので、一度引っ込んだ涙がまたこみ上げた。黄粉のきなこではなく、口の端に黒蜜と黄粉をつけて楽しそうにしている青木が可愛いあまりにだ。
店を出たその足で携帯のキャリアショップへ行って、私の名義で新しく携帯電話を一台契約した。青木は自分で選んだ初めての携帯電話へ初めに私と私の両親を登録して、そのあと工藤さんが帰り際にレジでこっそり渡してくれた連絡先を打ち込んでからは食事と風呂の間以外はずっと彼女とやり取りをしている。
「カウンセラーやってた頃、親御さんたちが子どもに携帯持たせたがらなかった気持ちがやっと分かった。驚きの中毒性だ」
寝支度を整えてもなおずっと布団の上でその小さな画面に首っ引きの青木は、私がそう言ってぼやくとはっとした顔を上げた。
「あ、すいません! これ送ったらやめます!」
「いや、工藤さんとのやり取りだけなら全然いいんだけどさ。彼女は明日は朝から学校だから、ほどほどにな。私も明日早いからもう寝るけど、電気は青木が寝る時に消してくれたらいいから」
私がそう言って布団に入るとほどなくして青木は携帯を枕元に置き、立ち上がって部屋の明かりを消す。
「……暗いところで使うのは禁止。目が悪くなる」
「ううん。おれも寝る。ちゃんと早起きしなきゃ、またきなこがカーテンレールから腹の上に降ってくるし」
まだ目の慣れない闇の中、青木がもぞもぞと布団の中に潜り込む気配が感じられた。
「先生」
「ん?」
「手、ちょうだい」
間に人ひとり分もないくらいの近い場所で、私の方を向いて横になった青木が甘えた声で言う。
無意識なんだろうが青木は歳の割に使う言葉が幼いところがあって、それは私の彼に対する庇護欲を掻き立てるとともに、罪悪感を覚える性質の情欲をも容赦なく刺激するので困る。
顔の横あたりに伸びてきた手をそっと握ると彼は「くすぐったい」と言って吐息で笑い、私がしたのと同じくらいの力で握り返してきた。骨ばっているけれど脆そうな感触。昼に見た、桜貝のような可愛らしい爪が瞬きのたび瞼の裏に浮かぶ。
「……先生。携帯、ありがとうございました。大事にします」
なんだかんだでよほど嬉しかったのか、青木はその声に喜色を溢れさせながら、少しだけかしこまってそう言った。
「どういたしまして。ただし、フィルタリングは少し厳しくしてあるからな。青木を信用してないってわけじゃないけど、慣れない内は色々怖いから」
「えへへ。気をつけます。──でも、どうしてこんな……なんていうか、良くしてくれるんですか? やっぱり、中二の時のあのこと気にしてるからですか?」
工藤さんからの返信だろうか。青木の携帯が短く震え、暗闇の中に一条の青い光が射す。
その淡い光を湛えた彼の翠眼だけが、やけに鮮やかに視えた。
「それとも……おれが、子どもの時の先生と同じだから?」
彼に発作が起きているわけでもないのに匂い立つような色気を感じてしまうのは、私の方に何か器質的な問題が生じているからだろうか。それとも──。
「それとも、先生はおれのことが特別大切なんだって……また、そう思ってもいい?」
「……私は、初めから青木のことを誰よりも大切に思っていたよ」
私がそう答えると青木は驚いたように目を瞠り、その瞬間に彼の携帯が放っていた光がふっと消えて私たちはまた深い夜闇に包まれた。
「そんなの嘘だ」
青木の声帯を震わせた動揺が、空気を伝って私の鼓膜と心も震わせた。
「嘘じゃない。けど、青木がして欲しいのと同じように〝大切〟なのかどうかは、私にも分からない」
「……どういうこと?」
「私もアルファだ。……青木の気持ちが行方不明になっちゃったのと同じように、私も青木がオメガだからそういう気持ちになるんだってこと、完全に否定はできないから」
青木の手が少し強張った感触で、彼の不服が私に伝わってくる。
「先生は、それが嫌ってこと?」
「嫌っていうか、怖いんだ。青木のこと心だけじゃなくて、体まで傷つけてしまいそうで」
「なんだ。そんなこと」
青木は恐らく、意図的に少し大人ぶって鼻で笑った。
「そんなの、とっくのとうだよ。先生だって知ってるでしょ? 今更誰に何されたって別になんともない。先生は何も──」
「だからだよ」
思いの外大きな声が出て、自分でも少し驚いた。青木は遮られた言葉をそのまま飲み込み、身じろぎひとつせずじっと黙っている。
「同じ目には絶対に遭わせられない。……私は、青木にそんなことを言わせている出来事やそれをした死んでも許さないと思っているから、そうしてしまう恐れのある自分が青木を抱き締めることも許せない」
そのことを口に出す時はいつでも新鮮な怒りが腹の底で沸騰し、視界が赤く染まるような錯覚を覚える。
けれどその怒りさえ、大切な人を傷つけられたことに対してなのか自分の財物を横取りされたと感じているためなのかが、混然一体として判別がつかないのである。
「それに青木はまだまだ若いんだし、この先いろんな人と出会って同じアルファでも私なんかよりずっとまともで素敵な人と強く惹かれ合うかもしれないし、そうじゃなくたって歳が十五も違ったら私は青木よりずっと先におじいさんになるし、そういうことを考えたらやっぱりどう考えても私はダメだろうと思うんだけど、分かっていても他の誰にも渡したくない。渡せないって思ってしまうのはたぶん純粋な心の問題だけじゃないから──」
「ふふっ」
青木は少しの間沈黙を保って私の独白のような言葉を聞いていたものの、やがて我慢の限界とでもいうように噴き出した。
「……私、おかしなこと言ってたかな」
「ううん。でも先生、おれのことめちゃくちゃ好きだったんだね」
「それはそうだけど……ああいや、だからそれは広義の〝好き〟で──」
「いいんだ。なんでも。……そりゃ、本音言えば他の誰でもなくて先生にぎゅってして欲しいけど、でもいい。おれは、こんなに大事に思ってもらってたんだってことが解っただけで充分だよ」
闇に慣れた群青色の視界の中で、青木が穏やかに微笑んでいた。満足げな、穏やかな顔だった。
* * *
青木の転院手続きと治療は父の采配で順調に進み、二週間もした頃には青木の精神面もかなり落ち着いた。
今は母の家事を手伝ったり施設のお古のノートパソコンで文字起こしのリモートワークに励んだりしながら規則正しい生活を送っていて、私が少し遅くに帰ると大体先に寝ている。
なので青木のことは一旦両親に任せ、私は愛猫たちとともに自宅へ引き上げた。
手を繋いで寝てくれないと許さない! と泣きべそをかいていた時はどうなることかと思ったが、そうしなくてもよくなったらよくなったで、少し──いや、かなり寂しい。
治療方針としては、やはり向こうの病院では来春までに不活性化を終わらせる算段だったようだ。
しかし本人への問診やカウンセリングの結果を考慮して、こちらでは少し投薬のペースを落として様子を見ることになった。
そのため今は副作用の強いフェロモンの分泌そのものを抑える薬が少し減らされ、体に負担の少ない、発情周期のコントロール薬が中心に処方されている。
「おれは本当は早く終わらせたいと思ってたんだけど。工藤さんがさ」
バーゲンやってたから。というていで私が自宅から持ってきた紙袋いっぱいの洋服をリビングに広げ一つ一つタグを外しながら、青木はぼやくように言った。
「一浪したと思えばザラだよ! なんて言ってて。よく言うよなー。進路決まってる人は気楽でいいよ」
彼女と青木は頻繁に連絡を取り合っていて、たまにあの店でお茶をしたりショッピングセンターの中にあるゲームコーナーで遊んだりしているらしい。母曰くどんなに遅くなっても十九時前には帰ってくるらしく、実に健全で微笑ましい限りなのだが、恥を忍んで認めればただただ羨ましい限りである。
「青木の気持ちも分かるけど、彼女はきっと励ますつもりで言ってくれたんじゃないかな。ちょっとくらいの足踏み、すぐに取り返せるってさ」
「そんなの分かってますよ。でもだからってそんな素直に聞けるかっていうとまた──あ、このセーターかっこいい! 日曜これ着てこっかな」
と青木は声を弾ませてネイビーのニットを広げた。
「あら、法介が選んできたにしては今年っぽくていいじゃない。理人くんちょっと着て見せてよ」
そばで見ていた着道楽の母もそれに同意を示し、青木に試着を促した。私は「他の服だって買った当時はトレンドでしたよ!」と自己弁護したくなる気持ちをぐっと堪え、黙って外したタグを片付ける。
「……今度の日曜日、彼女が春から通う大学へ一緒に見学へ行くんですって。パンツも何か格好いいの買ってあげたら?」
青木が脱衣所へ鏡を見に行ったのを見計らって、母が私へ耳打ちした。
「へえ。オープンキャンパスかなんか? いいかもね。今後のこと考えるきっかけにもなるだろうし」
「なーにとぼけたこと言ってるの! 週末って言ったらクリスマスイブよ!?」
「ああっ、そうか」
母に呆れ顔でそう言われて、朴念仁の私もさすがに合点して手を打った。
「恐ろしい子……お父さん、あなたに鎮静剤打ちすぎたんじゃないかしら」
「お母さん。家の中だからいいですけど、よそじゃその発言はセクハラって言われますからね」
「あらそう? でも、本当にいいの? こんなに懐いてくれてるんじゃない。後から引っ掻き回すようなことになったら、あちらのお嬢さんだって可哀想だわ」
「懐いてくれてるってお母さん、猫じゃないんだから。……一番大事なのは本人の気持ちでしょう? それともお母さんは、青木がうちの〝お嫁さん〟にならないならこの家には置いておけないって、まさかそんなことは言いませんよね?」
私が少し頑なになってそう言うと母も「まさか!」と言って肩を竦めて見せたけれど、内心ではそうなることを望んでいたのであろうことがみえみえだった。
「先生! すごい! ぴったりだった!」
興奮気味に脱衣所から飛び出してきた青木は、また楽しそうに声を弾ませている。
「似合うかな。変じゃない?」
そう言って少しはにかむ青木が抜群に可愛い。
「似合ってるよ。かっこいい。土曜日、それに合うパンツも何か買いに行こうか」
「えー? 今あるのでいいよ。これ、結構なんにでも合うだろうし──」
「よくないわよお! 日曜日はデートでしょ!? 彼女だってきっとお洒落してくるわよ!」
母がそう言って茶々を入れると、青木は顔を真っ赤にして「そんなんじゃないです!」とかぶりを振って否定した。
「工藤さんはただの友達です! ほんとに!」
「そうねー。今はねー」
「今もだしこれからもですってば!」
青木は涙目で訴えながらちらちらと私を見て助けを求めてきたので「お母さん。その辺で」と強めに言って止めてやる。
「まあ、デートかどうかは置いておくにしても──」
「違いますから!」
「う、うん。まあ、じゃあ違うとしてだよ」
真っ赤な顔で必死に否定されると、かえって照れているようにしか見えないことに、青木はたぶん気付いていない。
「パンツじゃなくても何か、クリスマスプレゼント買わせて欲しいからさ。土曜日、買い物に付き合ってくれないかな」
「いいの!? じゃあ、土曜日これ着る!!」
「いや、それじゃ意味が──」
「なんでですか? これに合うパンツ買ってくれるなら着てった方がいいですよね? じゃなきゃほんとに合ってるかどうか分かんないですよね? 試着室で脱いだり着たりするよりいいですよね?」
ムキになっているのか青木が瞬きもせずすごい目力でそう言うので、その圧に負けて「それもそうだな」と言ってしまった。
父は今日は遅くなるということなので三人で夕食を摂って、まだ四ヶ月のおもちを一晩放ってはおけないので私は遅くならない内に自宅へ戻ることにした。
青木はもう、露骨に私を引き止めたりはしない。メンタル的に安定して聞き分けが良くなったのか関心がよそへ移ったからなのかは分からないけれどまあ、何よりと言えば何よりである。
「先生待って!」
靴を履いて立ち上がったところで、風呂から上がったばかりでまだ髪も濡れたままの青木が何やら紙袋を手にぶら下げて玄関へ出てきた。
「あのね、これ今日、先生のお母さんと金柑煮たの作ったんだ。先生、金柑好きだから美味しいか分かんないけどいっぱい作ったから、これ、あのっ」
言っている途中で恥ずかしくなってきたのか、青木の声は後半でほとんど聞こえなくなった。
袋の中にはなるほど、大ぶりの瓶いっぱいの金柑の甘露煮がある。まん丸で、金色の蜜でつやつやしていてうまそうだ。
まあ、シワシワだって種が混じってたって、彼に「作ったんで」と言われたらなんでも私は有り難く頂くんだろうけども。
「ありがとう。頂くよ。……すごいな。美味しそうだ」
「いやほんと、分かんない。途中ちょっと間違ったし。味見した時はまずくはなかったけど、先生の好みかどうかは分かんない」
「大丈夫だよ。美味しいに決まってる。ありがとうな」
青木の濡れた髪を撫でる。水滴は冷たいけれどその奥には確かに肌の温かさがあって、シャンプーの匂いに混じって金柑の匂いもした。
「……あの、先生、それと」
しばらく黙って撫でられるままになっていた青木が、やがておずおずと口を開いた。
「ん? なんだ。改まって」
「日曜日、ほんと、デートとかじゃないんですけど」
「ああ。なんだそのこと──」
「でも工藤さんはおれのこと好きかもしんない」
青木はよく通る声で淀みなくそう言った。けれど、その言葉の意味が全くもって頭に入って来ない。
工藤さんはおれのこと好きかもしんない?
っていうことは、どういうことなんだ? どういう意味だ?
「おれは工藤さんに好きって言われたら付き合うと思う」
「あー……そういうことか。うん」
「っていうか断れないよ。あの人の泣くとこ、もう見たくないんだ」
そう言ってまっすぐに私の目を見た青木はなんというか一端の男の顔つきで、その成長が嬉しくもあり嫉ましくもあり、そして同時に私はやっぱり混乱していて、こんな時なんと言ってやるのが正解なのかがさっぱり分からないのだが──。
「……それはさ、青木。お前もきっと、彼女のことが好きなんだよ」
「好きは好きだけど、でもそれはものすごく広い意味での〝好き〟で──」
「まあ、青木の気持ちは青木だけのものだから。後悔のないようによく考えたらいいさ。ただ、どういう答えを出すにしたって私はお前の味方だから。なんだって応援する。それだけは覚えといてくれ」
私は彼より十五も歳を食った大人なので、落ち着き払った顔と声で、なんとなくそれっぽい言葉を並べてこの場を凌ぐことができるのである。
「……はい。ありがとうございます」
つい寸前のきりっとした顔はどこへやら、青木はひどく不安げにそう言って会釈した。
「それじゃ、土曜日何欲しいか考えといてな。ちゃんと髪乾かして、温かくして寝るんだぞ」
なるべくいつも通りに見えるよう最大限の注意を払い、彼の「おやすみなさい」を聞いて実家を出てきた。車の上に積もった雪を払って乗り込むと、先に暖房を点けておいた中はかえって暑く感じられた。
雪が積もってでこぼこした住宅街の細い路地を抜け、国道に出て少し行くと高速道路の入り口の手前にコンビニがある。
そこへ寄って熱いブラックコーヒーを買って、ラジオの道路交通情報を聴きながらそれを半分ほど飲んだところでようやく少し落ち着いた。と同時に落ち込んで、落ち込んだ自分にまた更に落ち込んだ。
あの日──彼女と青木が再会した日から、私は常にこの事態を想定していた。だからこそあの場面で私は見事「なんとなくそれっぽい言葉」を自動音声のように吐き出せたわけだが、この自分の落ち込み具合というのは想定のはるか上を行っていてびっくりだ。
工藤さんはいい子だ。あんなにいい子、そうそういないぞ! というくらいの。中学生の時からそうで、今なんかきっとそれに輪をかけて素敵な女性になっているはずだ。
中学生当時のことだけで言えば、青木よりもむしろ私の方が彼女についてよく知っているに違いない。何せ青木があの学校の生徒だったのはたったの三ヶ月間で、その内半分は学校に来ていなかったのだから。
工藤さんはあの学年の中では感受性が一際強く、孤立している子がいると積極的に声をかけて話の輪に引き入れるような役回りができる子だった。けれど彼女がひとりぼっちになった時、同じようなことができる子が彼女のほかにはいなかったので彼女は私のところへ来るようになった。
青木が転校してきてすぐの頃、彼女は「オメガの子が転校してきたけど、男子だしなあ。あたしに話しかけられたら嫌かな」なんて言いながらもよく気にかけてくれていた。
最初に青木が前田と喧嘩になった時。真っ先に知らせに来てくれたのが彼女なら、教室で授業を受けるのを渋っていた青木の心を解きほぐしてくれたのも、そしてあの日、総合学習で行った見学先からこっそり電話で「前田がいない。もしかしたら学校で青木に何か変なことする気かも。そんなこと言ってた」と涙声で報せてくれたのも彼女だった。
後に聞いたところによれば、彼女は私にそのことを伝えるため生徒手帳に書いてあった学校の代表番号へ自分の携帯電話から電話をかけたらしい。
その時点で最悪のシナリオはどの程度書きあがっていたのかは杳として知れないが、私はその電話を職員室で受け、祈るような気持ちで図書室へ駆けた。しかし全ては終わったあとで、開けっ放しの窓から吹き込む寒風でカーテンがはためくばかりであったのだ。
そのことがあってから彼らのクラスにどのような変化があったのか。今となってはそれを詳しく知ることはできない。しかし、前田はひどく悍ましい手を使って彼らを追い詰めたことは確かだ。
その報復として彼は、私に幼少期の予防接種未完了を暴露され推薦で受かった進学校に入学を拒否され、工藤さんが広めたその噂がもとで自棄を起こしバイクでの暴走行為の末に事故死することになる。
そんな彼女のモチベーションの源が青木への恋心だったとするならば、私には彼女から青木を奪うことなどできようはずもない。
青木は「あの人の泣くとこ、もう見たくないんだ」と言ったが、私だって同感だ。それが理性、それが感情というものだ。我々を常に支配し揺さぶる本能とやらに比べ、それはなんと温かく美しいものだろう。
できることなら私はそれを、彼の中に芽生えたその美しい感情を〝恋〟と呼んでやりたい。
ペーパーカップに半分残ったコーヒーはとっくに冷め切っているが、それでも私は車を運転する気になれずただラジオを聞いている。
いつまでも手を繋いでいられるような気がしていた。なるほどクリスマスソングの中にも物悲しい曲はそれなりにあって、それは私のような者の心も束の間癒すのである。
もし私も彼と同級生として出会っていたら、今の彼らのような関係を築けただろうか。ゲームセンターでUFOキャッチャーをしたり、喫茶店で甘い物を食べながら長々とおしゃべりをして、門限が刻一刻と迫るのを惜しく思ったりして。
無理だろうなと思う。仮に十四歳の私と十四歳の彼が出会ったとして、彼は私を警戒しただろうし私は彼を自分と同じ〝人間〟だとは見做さなかっただろう。十八歳同士でもきっと同じことだ。
彼がかつて私にくれた手紙には「運命の人」という言葉が使われていた。
今更だけれど、私もそう思う。私は〝子ども〟の彼と〝大人〟の自分が出会えたことに、運命的なものを感じてやまない。
私はきっと彼と番うためでなく、彼を生かすために生まれ、そして生きてきたんだろう。そう考えると完璧にやり遂せたとは言えないまでもまあ、それなりに役目を果たすに足る人生を歩んで来たのかなとは思う。充分じゃないか? パートナーを見つけるだけが人生の全てじゃないし、猫もいるし。
帰らないと。おもちが腹を空かして私を待っている。