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二、

 学校へ行く日も行かない日も、起きるのは朝の六時って決まってる。でも〝家〟にいた時は毎日五時に起きてお御堂の掃除とお祈りをしてたから、今でも大抵、おれはそのくらいの時間に目が覚める。

「寒い……」

 部屋のボイラーは一晩中点いてるんだけど、布団より高いところにあるからか鼻の頭が冷たくなってた。

 布団から出て、カーテンの隙間から外を見てみる。まだ暗い。晩から続いてる雪で施設の前の道が埋まってる。だから夜勤の高橋さんが、大きなスコップでせっせと雪かきをしている。

 布団をあげて着替えをして、顔を洗うために下へ降りた。みんなと同じ時間に起きるとトイレや洗面所が取り合いになるけど、六時前ならゆっくり使える。

「あら。おはようりっくん」

「……おはようございます」

 おれが歯磨きをして口をゆすいだところで、外から帰ってきた高橋さんが洗面所にやってきた。

「今日も早起きだねえ。感心感心」

 いつも、朝の支度が早いことだけは褒められる。別に褒められようと思ってしてることじゃないんだけど、寝坊して叱られるよりはだいぶいい。

「今朝はどう? 体調」

 高橋さんは手を洗いながらまた、小さい子に聞くみたいな高い声でおれに聞いてきた。

「どこか変なところはない?」

「今んとこ、特には」

「うん。ならよかった。すぐに検査するから、ちょっと待ってて」

 はい。と返事をして、言われた通りにする。

 最初はすごく嫌だったけど今は慣れたっていうか、しょうがないかって感じ。毎朝血圧と体温を測って、フェロモンがどのくらい出てるかの検査をして、フェロモンが出過ぎてる時は薄める注射をする。検査がけっこう痛くて、おれはどっちかっていうと注射よりもこっちが嫌。

「いててててて……」

 左のうなじを小さいペンチみたいなので思いっきり摘まれて、細い針で一滴だけ血を取られる。そうやって取った血の中のナントカって数値で、フェロモンがどのくらい出てるかが分かる。らしい。らしいっていうかおれには実はよく分かってないんだけど、毎朝のことだから首筋はずっと痣だらけだ。

「うんうん。確かに、昨日病院で測った数値よりは落ち着いてるね」

 薄手のゴム手袋をした高橋さんは、検査の道具に出ているデジタル表示の数字を見てうなずいた。

「でも念のため、お注射もしておこうか」

「えー。なんで」

「昨日も朝はいつも通りだったのに、急に調子悪くなったでしょう。腕、出して」

 高橋さんの顔が怖くなってきたので、しぶしぶシャツの袖を捲り腕を出す。

 注射器の中にはやっぱり薄紫色の透明な薬が入っていて、注射針を通してぎゅうっとおれの血管に押し込まれていく。

 高橋さんは昨日の夕方の内に、おれの目の前で学校へ電話をかけていた。それは当然、おきざし──もとい、発情期が終わるまで青木理人は学校をお休みします。っていう連絡のためだったはずなんだけど。

「りっくん! ちょっと!」

 部屋で暇を持て余しながら、こんな腹痛いのにぎょうざとか食べたくないなあ。とかぼーっと考えてたら、下から高橋さんに呼ばれた。まだなんかあんのかよってちょっとむかついたけど、なんせすることがないから黙ってまた部屋を出た。

「なんですか」

「漆間先生。りっくんに代わってって」

 そう言っておれに子機を差し出した高橋さんは、なんでかちょっと不満そうな顔だった。

「──もしもし。先生?」

 おれが保留を解いて電話に出ると、電話の向こうの先生は『青木か?』と言った。

「はい。青木です。こんばんは」

『ああ、こんばんは。ごめんな急に。その後、体調はどうだ?』

 先生がおれにそう聞くのは、仕事だからっていうのは分かる。でも。

「大丈夫です。薬も飲んだし」

『そうか。……よかった』

 先生は、心底ほっとしたような声をしていた。仕事でもなんでもとにかく、先生の『よかった』は、河村さんや高橋さんが言うみたいな「(思い通りになって)よかった」じゃなくて、ちゃんと「(元気そうで)よかった」に聞こえた。

『明日からの学校のことなんだけどな。青木』

「はい」

 おれに受話器を渡した高橋さんは、夕飯の支度を再開していた。一心不乱に餃子を包んでいる高橋さんの後ろ姿は、心なしか河村さんみたいにイライラしてるように見えた。

『職員会議があってな。青木のクラスにはアルファの前田もいるし、教室でみんなと一緒に授業を受けるのは、発情期の間はちょっと難しいんじゃないかってことになったんだ』

「はあ。そうですか」

 つまり、高橋さんが学校へ連絡するまでもなく、おれは学校の方から門前払いを食うことが決まってたってわけだ。と思ったんだけど。

『だから明日から発情期が終わるまで、青木は先生の部屋でビデオ授業を受けてもらうことにしたから』

「はあ?」

 思わずそんな風な、生意気に聞こえる声が出ちゃって、それを聞いた高橋さんがちらっとこっちを振り向いておれを睨んだ。

「……先生の部屋って、一階のカウンセラー室?」

 おれはそんな高橋さんに気付かなかったふりで体ごと背中を向けて、先生に聞いた。

『そうだ。ちょっと窮屈かもしれないけど、我慢してな』

「いや、それは、全然……」

 そうは言ったけど、本当は少し嫌だった。だってあの部屋ってけっこう、ひっきりなしに人が来るイメージだったから。

 カウンセラー室は保健室の隣にある部屋で、おれも学校に転入した最初の日に一回だけ入らせてもらったことがある。

 漆間先生は朝の八時から夕方の五時まで授業のある日は毎日そこにいて、うちのクラスでも何人か、まあ、女子が多いんだけど、その何人かは休み時間のたびにカウンセラー室に入り浸っているみたいだ。

 先生は人気者だから、きっとほかの学年からもひっきりなしに人が来てるんだろうなと思うとげんなりした。

「……でも、なんでですか?」

『ん? なんでっていうのは?』

「学校、あんまりおれだけ特別扱いってよくないんじゃないですか?」

 学校も、ここの施設も、〝家〟もそうだったけど、たくさんの人をひとつのところでまとめて面倒を見るにはルールが必要っていうのは、おれはずっとそういうところにいたから分かる。

 特別扱いでルールを曲げてもらうのは、そりゃ、それだけ見たら都合がいい。だけど、おれがルールを守ってる立場だったらきっと面白くないし、そうやって「面白くない」って人に思われることは、回り回っておれに都合が悪い。

『青木。そうは問屋が卸さないぞ』

「え?」

『発情期だからってまんまと学校休んでゴロゴロできると思ったら大間違いだぞ』

 そうじゃないって。ってちょっとイラっとしたけど、先生があんまり得意そうな声をしてたから、怒るより先に可笑しくなって笑っちゃった。

「あのね先生。学校休んだって、施設じゃゴロゴロなんかしてらんないよ」

『え? そうなのか?』

「うん。そりゃ、起き上がれないほど体調悪かったら話は別だけど。そうじゃなかったら雪かきとか、色々手伝いしなきゃなんない」

『へえ……最近の施設ってそうなのか。大変だな』

「よそは分かんないけどうちはそう。人手が足んないからね」

 先生に向かって馴れ馴れしく喋り過ぎたと思ってちらっと高橋さんの方を見たら、高橋さんはちょっと笑いながらフライパンに油を敷いていた。

『そうか。じゃあ、学校来て座って勉強してる方がラクできるかもなあ』

「まあ……そうかもしれない。です」

『じゃあ、決まりだ。明日からよろしくな。朝、迎えに行くから』

 何もそこまでしてくれなくても。と思ったけど、先生がやけにうきうきした声でそう言うからなんとなく断れなくて、おれも「よろしくお願いします」と言って電話を切った。

 だからおれは今日も制服を着て、時間割を見ながらリュックに教科書を詰めて、高橋さんは「念のため」っておれに注射を打った。昨日みたいなことにならないように。

 先生は、朝の七時半に車で迎えに来た。昨日電話で話した時はなんでそこまでしてくれるんだろうって思ったけど、高橋さんが漆間先生におれの薬を預けてたのを見て、なんだそういうことかって納得した。

「おはよう青木。──おっ、顔の腫れ引いたな。よかったよかった」

 ふさふさのついたカーキ色のダウンを着た先生は、おれの顔を見るなりそう言って嬉しそうに笑った。

「おはようございます。よろしくお願いします」

 それがなんだか照れ臭くて、おれはすぐに助手席に乗り込んでシートベルトを締めてマスクをした。

「朝ごはん、なに食べてきた?」

「白ごはんと、味噌汁と──」

 先生はどうでもいいことをおれに聞きながらアクセルを踏む。車がつるっと急発進して、背中がぐっと背もたれに押し付けられる。

「ごめんごめん。ちょっと、スリップしちゃった」

「別に……大丈夫です」

 それから先生は少し黙って、真剣な顔で車を運転した。施設の周りの道はただでさえ細いのに、大雪で道の両脇に山ができてますます細くなってる。

「ごはん、全部食べられたか?」

 広い道に出て安心したのか、先生はまたおれの朝飯を気にしだした。

「残すと怒られるから」

「そうか。じゃあ、残さず食べたんだ。えらいえらい」

 味噌汁に入ってただしじゃこだけお椀に残してきたけど、あれは食べていいものじゃないと思うからおれ的には完食。

「先生は?」

「ん?」

「朝ごはん」

「ああ。おにぎりを食べたよ」

「おにぎり?」

「うん。来る途中にコンビニでおにぎり買って食べた」

 コンビニのおにぎり。けっこう意外。先生っていうのはなんとなく、車の運転しながらおにぎり食べるとか、そういうことはしないような気がしてた。

「なんのおにぎりですか?」

「唐揚げと煮卵」

「胸焼けしそうですね」

 しかも、なんか変な具ばっか。聞いてるだけで胃酸が上がってくる。

「そうかなあ。青木は?」

「なにがですか?」

「好きな具。何かあるか?」

「梅とこんぶ。あと、ふつーに塩むすび」

「シブいな」

「そうですか?」

「塩むすびが好きって中学生、先生はあんまり聞いたことないぞ」

「肉とか魚、キライだから」

「ああ……そうかそうか」

 先生が少し気まずそうに歯切れの悪い相槌を打ったから、それでおれは、ちょっとした地雷を踏んだんだなって気付いた。でも、そういうのめんどくさいなって思う。だっておれは、好き嫌いの話をしただけなのに。

「……こんぶってさ」

「え?」

 でも先生は、少し間を開けてからおにぎりの話を蒸し返した。

「こんぶっていうか……まあ、こんぶとかわかめとか、のりとか」

「はあ」

「青木、海藻は食べられるんだ」

「ああ……まあ、そうっすね」

「じゃあ、卵と牛乳は? あと、きのこ」

「きのこは好きです。卵と牛乳はちょっと嫌」

「なるほどなあ」

 そう言ってうんうんうなずきながら先生は大きくハンドルを切った。

 角を曲がった車は、学校の前の長い坂道を登っていく。同じ場所へ向かって歩いてる窓の外の何人もの制服姿の生徒と目が合うのがなんか気まずくて嫌で、おれはまた下を向いてじっと膝の上を見ている。

「ヴィーガンに近いのかもな。青木は」

 でも、先生がなんだかよく分からないことを言ったから、思わず顔を上げちゃった。

「びーがん?」

「ああ。生き物を殺したり苦しめたりしなきゃ手に入らないモノを、食べたり使ったりしないようにしてる人たちのことをそう言うんだよ」

「へえ……」

 初めて聞いた。でも、それって〝家〟で父さんや尊師さまからずっと聞いてた話にちょっと近い。

 〝家〟では命を奪ったり傷つけたりすることは一番いけないことだってずっと言われていて、それをすると一発で地獄行きだって耳にタコができるくらい聞かされていた。

 だから畑の野菜や米だって、草や花や実が苦しい思いをしないようにって絶対に農薬は使わなかった(だってあれは毒だ)し、尊師さまの〝祝福〟のあとだって、〝家〟の外の人みたいに赤ちゃんを間引いたりなんか絶対にしなかった。

 生まれた子はオメガなら〝家〟に残されて、そうじゃなかったら世界を〝祝福〟で満たすために外の世界へもらわれていった。だから、会ったことはないけどきっとおれにも兄さんとか姉さんとか、弟とか妹がどこかにたくさんいるはずだ。

 そんなことを考えてると、ぎゅっと腹の奥が軋んだ。おきざしの痛みだ。

「青木。どうした?」

 学校について車のエンジンを切ったところで、先生は腹を抱えて下を向いているおれのつむじに話しかけるみたいに聞いてきた。

「腹が、ちょっと……」

「痛いのか」

「大丈夫です。すぐおさまるから」

 そう言ってシートベルトを外して、外に出る。

 外の空気を吸ったら少し楽になったような気がして、おれはマスクを下げて深呼吸した。

「……大丈夫です」

 冷たい空気を降ってくる雪ごと吸い込んで白い息を吐くと、すぐに痛みはおさまった。

「そうか? あんまり無理はするな」

 先生はひどく心配そうにおれの目を覗き込んでそう言った。先生は背が高いから、っていうかおれがちびだから、たとえおれが上を向いてても、先生はおれの顔を見るためには少し屈まなきゃいけない。

「もしまたしんどくなったら、すぐに言いなさい。先生、ずっとそばにいるから」

 みんながこの人のことを好きになるのが、おれにもよく分かる。先生は優しいし、適当なことなんて言わないんだろうなって思う。

「……はい」

 それにこの人にはなんだか、全部「はい」って言ってついて行きたくなる感じがあって、そばにいるとほっとする。でもそう思うのが照れ臭くて、やっぱりマスクをしたくなる。

「先生ってさ」

「ん?」

「もてるでしょ」

「バカ言ってないで、早く靴替えてきなさい」

 おれが軽口を叩くと先生も少し笑って、生徒用の玄関の方へ向かっておれの背中をぽんと押した。

 カウンセラー室は普通の教室の半分くらいの広さの部屋で、先生が仕事をする事務机と椅子のほかに、保健体育の教科書っぽい本とか施設の本棚に入ってるのと同じような小説が並んでる本棚と、小さな冷蔵庫。それに、校長室のおさがりみたいな応接セットのソファとテーブルがある。

 でも今日はそのほかに、部屋を仕切る背の高いパーテーションと、その向こうに教室にあるのと同じテレビのセットとおれが教室で使ってるのと同じ机と椅子があって、ちょうどおれと先生で部屋を半分こするみたいになってた。

「教室の授業はここで受けてもらうけど、体育の時は体育館へ見学にいくこと」

「はい」

「総合学習の時間は自習になるけど、たぶん、担任の先生がプリントか何か用意してくれると思う。あと、給食もここで食べる。先生がもらってくるから」

「わかりました」

「ちょっと窮屈かもしれないけど、発情期の間だけだからさ。我慢してな」

「大丈夫です。ありがとうございます」

 まさかこんな風に部屋に間仕切りをしてくれてるとは思わなくて、大丈夫どころかちょっと感激。教室、全然馴染めてないからむしろありがたい。

「先生、あっちにずっといるから。さっきみたいに腹が痛くなったりとか、何かあったらすぐに呼びなさい」

「はい」

「薬の時間はこっちから声かけるからな」

「はい」

「何か質問は?」

「ないです」

「じゃあ、ちゃんと集中して授業聞くんだぞ」

 先生はカウンセラーの先生なのに、授業をする先生みたいな顔でおれにそう言って自分の机に戻っていった。

 テレビにはもう今の教室が映っていて、まだ先生が来てないからがやがやしてる。声がでかいのは、あいつ。ええと、なんてったっけ。アルファの……前田だ。

「そうだ。忘れてた」

「うわ! びっくりしたあ!」

 おれが席について教科書やノートを机にしまっていると、パーテーションの影から先生がぬっと出てきたから驚いて飛び上がった。

「これ。寒かったら着てなさい」

 と言って先生はおれに、大きな緑色のカーディガンを貸してくれた。

「あ……ありがとうございます」

 そう言っておれがカーディガンを受け取ると、先生はほっとしたような顔で「どういたしまして」と言ってまた顔を引っ込めた。カーディガンはふわふわ柔らかくて温かそうで、でも少しくたびれてる。袖口のところが波打ってて、裾のあたりに毛玉がついてる。

 カウンセラー室は南向きで、しかも先生は窓際のスペースをおれにくれていて、おまけに石油ストーブまですぐそばに置いてくれてる。

 だからここはやけに明るくて暖かくて、眠たくなるくらいなんだけど、おれはそのカーディガンをすぐに羽織った。

「でか……」

 先生のカーディガンはおれが学生服の上から着てもまだ大きいくらいで、羽織ると尻まで隠れて、袖がたくさん余った。

 動きにくいし邪魔といえば邪魔なんだけど、なんていうんだろう。先生の雰囲気としか言いようがない、何かほっとするようなふわふわした優しい何かで包まれてる感じがして落ち着く。

 達哉が昨日言ってたの、これのことかなって思う。

 匂いで分かるってやつ。言われてみれば確かに分かる。

 漆間先生、アルファだな。なんか全然そんな感じしないけど。

   *   *   *

 テレビ越しの授業ってどんなもんかなって思ったけど、普通に教室で受ける授業とあんまり変わらなかった。

 むしろ、当てられたり立たされたりしないからかえってこっちの方が気楽。

「コラ、青木!」

「うわっ」

 急に机をガタガタ揺すられて、変な声が出た。

「今、寝てただろ」

「寝てません」

「マスクにヨダレついてるぞ」

 慌ててマスクを外したおれを見て、先生はにやっと笑う。

「嘘だよ」

「……なんだよ。汚いことして」

「でも、やっぱり寝てたんだ」

「ちょっとだけですよ。ちょっとうとうとしてただけ!」

 そう。ちょっとだけだ。ちょっとだけ船漕いでたのは確かだけど、ちゃんとノートも取ったし、ほんとにほんとにちょっとだけ。

「そうか? チャイム鳴ったのにも気づいてなかったみたいだけど」

「え!?」

「給食だよ。こっちで一緒に食べよう」

 そう言われて壁の時計を見たら、確かに思ってたよりずいぶん先の時間を針が指していて怖くなった。慌てて机の上のノートを見る。

「……よかった」

 ミミズの這ったような字だけど、ちゃんとテレビに映った黒板と同じことが書いてある。大丈夫。自分でも気付かない内に変なことをしたんじゃなかったら、それでいい。

「青木ー。どうしたー?」

 パーテーションの向こうから、先生がおれを呼ぶ声が聞こえる。それに、給食の匂いもする。しょっぱい匂い。

「なんでもないです。すぐ行きます」

 教科書とノートとペンケースを机の中にしまって席を立った。

 応接セットのテーブルに、おれと先生の分の給食がある。なんか魚のあんかけと、野菜ナムルと、中華スープとご飯。あと牛乳。

 先生と向かい合わせでソファに座って、一緒に手を合わせた。中華スープにはわかめと春雨とねぎが入ってる。

 ナムルはもやしと小松菜とにんじん。魚は……なんかよく分かんないけど、白い。白い魚の切り身に、茶色くて甘酸っぱいたれがかかってる。

「先生、質問」

「ん。なんだ?」

「これ……なんて魚ですか?」

 おれがそう尋ねると、先生は自分の皿の上の魚の切り身を箸でつまんで、しげしげ見ながら「うーん」と唸る。

「……タラ。じゃないかな。たぶんだけど」

 聞いてはみたものの、別に食べたいとか美味そうとかは全く思えないわけで。おれはだましだまし、魚にかかってる甘酸っぱいたれを先割れスプーンですくっては舐めている。

「青木ぃ……」

 少しして先生もそんなおれに気付いたみたいで、おれの皿とおれの顔を見比べていた。でも、そんな先生の皿の上にもにんじんのナムルが残ってる。

 だからおれは、そんな先生の目をじっと見たまま、そーっと皿を入れ替えた。

「……話が早くて助かるよ」

 先生はにっこり笑って、おれの残した白身魚のあんかけを一口でむしゃむしゃ食べた。

「先生」

「なんだ」

「おれが言うのもなんだけど──」

 にんじんのナムルはうまい。〝家〟で作ってたにんじんほどじゃないけど。

「──本当は、こういうの良くないんじゃないの?」

「まあな」

「じゃあなんで」

「別に、にんじんなんか食べなくたって死にゃあしないだろ」

「いや、そうじゃなくて」

「じゃあなに?」

 先生は空になった皿に先割れスプーンを置いて、またおれを見た。

「なんかおればっかり……特別扱い」

「なんだ。そんなこと」

 先生はそう言ってまた少し笑って、牛乳パックにストローを挿した。

「青木は、学校好きか?」

 そう聞かれると答えられない。先生の欲しい答えじゃないから、黙ってるしかない。

 っていうかそもそもおれが学校を好きかどうか以前に、学校がおれのこと本当はめちゃくちゃ嫌いだろってすごく感じる。毎日感じる。

 そりゃ、おれは予防接種をしてないから、どんなに毎日たくさんの薬を飲んでたってバイキンのカタマリみたいなもんなんだっていうのは分かるし。

 おれのいた〝家〟はよその人から見たら超絶変なシューキョーで、危なくて、絶対関わっちゃいけないって思われてるのも分かるし。

 一応おれがそこにいたのは秘密ってことになってるけど、でもなんか、当たり前にみんな知ってるし。

 でも、それって全部、何から何までおれにはどうにもできないことだし。

 なのに、おれはバイキンのカタマリみたいにされるし。

 そんな場所のことを、どうやったって好きになんかなれないし。

「……たぶんだけどさ」

 おれがずっと黙ってたからか、先生はちょっと気まずそうにまた口を開いた。

「きっと、青木はあんまり好きじゃないよな。学校」

「え?」

「来たくないよな。本当はさ。……違うか?」

 違わない。全然違わない。でも好きじゃないって言っていいんだってことにすごくびっくりして、おれは首を振ることしかできない。

 先生は少し困ったような顔で「だよな」って言って、持ってた牛乳パックをテーブルに置いた。

「でもさ。学校は来なきゃいけないところだし、青木の将来のためにも絶対に来た方がいいところだから。それは分かるな?」

 黙ったまま、今度は縦に首を振る。

「うん。……だから、ここにいる間くらいはいいよ。ちょっとぐらいズルしても」

「……いいの?」

「ああ。いいよ。青木はほかの嫌なこと、たくさん頑張ってるもんな」

 先生はそう言って、俺の顔を見て笑った。

「ズルでもなんでも今はいい。とりあえず、学校に来ること。それが大事なことだから」

 なんか、先生の笑ってる顔が、照れ臭くて見られない。

「……そうですか」

 そうですか。ってなんだよって、なんか他にも言い方あるだろって、自分でもそう思うんだけど、嬉しいんだけどなんかそれが言葉にならなくて、だけどとりあえず、おれも甘えてばっかじゃなくてなんかしなきゃって思って、牛乳パックにストローを挿す。でもって吸う。

 牛乳パックひとつ。二百ミリリットル。けっこうあっという間に飲み終わった。美味くはなかったけど、頑張って飲んだ。

「──先生。おれね」

 先生は、丸い目をして俺を見ている。

「できることが増えたらいいなとは、思うんだよね」

「……そうか。たとえば?」

 増えたらいいなって言ったけど、具体的にこれっていうのが思い浮かばなくて慌てる。今のおれにはできないことがたくさんあるのは確かなんだけど、なんせ多すぎて、かえって思いつきもしない。

「──たとえば、誰も困らせないで、一日ちゃんと過ごすとか」

 先生は、なんだか神妙な声で「そうか」って言った。おれは少しどきどきしながら顔を上げて、先生の顔を見てみた。

「確かに、気持ちよく一日を過ごせたら嬉しいもんな」

 見たんだけど、なんだか視界がふわふわ明るくて、先生がどんな顔してるのかよく分からなかった。おきざしの時の目のちかちかに似てるけど、全然違う。もっと温かくて幸せな感じ。初めてのことでよく分からないんだけど、これはたぶん、いわゆる〝恋〟のそれ。

 この人だけが──漆間先生ただひとりが、おれのことを大切にしてくれるから。

   *   *   *

 おきざし──もとい発情期はけっこう長く続いて、もう一週間も毎朝注射を打ってるもんだから、首筋だけじゃなくて腕もけっこうまだらになってきた。

「いててててて……」

「ごめんごめん。可哀想になー。でも、もうちょっと我慢してなー」

 今朝の当番の富岡さんは老眼鏡の奥にある白毛の眉毛を寄せて、ウンウン唸りながら計器のペンチを締めたり緩めたりしている。

「うーん……惜しいところまで下がっては来てるんだけどなあ」

 難しい顔をした富岡さんが唸るのを横目に、おれは大人しく腕を出す。そんなおれの腕を見て、富岡さんはしょんぼりした声でおれの腕にゴムのバンドを巻いてアルコール綿で消毒する。

「あーあー……嫁入り前の体がこんな痣だらけになって、可哀想になあ」

「嫁入り前の体って、富岡さん。いつの時代の話してるんですか」

「いつの時代も何も、お前だっていずれは誰かの嫁に行くだろう」

 〝おじさん〟を通り越してぼちぼち〝おじいさん〟な富岡さんはそんな古臭いことを言いながら注射をして絆創膏を貼り、首と腕の痣に軟膏を塗ってくれた。

「せめて首の痣だけでも綺麗になればいいんだけどなあ。こんなんじゃ、あばずれに見えてかなわん」

「あばずれ? なにそれ」

「んー……まあ、なんだ。普通は、こんなところにこんな大きな痣作ってるのはお母さんじゃなかったら商売女と決まってるもんだ」

 富岡さんは言葉を選びながら言いづらそうに言ったけど、そのチョイスもなんだか絶妙に古臭いというか、時代遅れな感じ。

 でも、そんなのを聞いておれも思い出した。セックスをする時に相手に首を噛まれると、その人との子どもしかできなくなるって噂。だから、首に痣のあるオメガはお母さんじゃないなら簡単にそういうことをさせる仕事の人って見られる。らしい。

「とにかく。お前は器量がいい上に体が小さいんだから。普段からなるべく襟の詰まった服を着るとかして隠しておきなさい」

「あのさ。おれのためを思って言ってくれてるんだろうけど、そういうのも最近じゃセクハラって言われるんだよ。富岡さん、気をつけた方がいいよ」

 何日か前までのおれだったらきっと富岡さんの古臭い言い分にムカムカしてしょうがなかったと思うんだけど、でも今は平気。だって、おきざ──じゃなかった。発情期が続く間は教室じゃなくて、漆間先生のいるカウンセラー室に通ってられる。だから、学校へ行くのが嫌じゃない。

「理人、薬持ったか?」

「持ったよ」

「マスクの替えは」

「持ったあ」

「今日は冷えるぞ。靴下二枚履いてった方がいいんじゃないか?」

「いらないって! 学校ん中暖かいんだから」

「気持ち悪くなったらすぐ漆間先生に言うんだぞ」

「ずっと同じ部屋にいるんだから大丈夫だよ! 行ってきます!」

 富岡さんの口から出てくる無限小言を聞き流して、早めに登校する。七時半過ぎに着くように出れば、部活の朝練をするやつらはもう体育館にいて、そうじゃないやつらはまだ家にいる。だから通学路は静かなもんだ。

 何日もずっと車で学校に連れてってもらうのが忍びなくて、指導員さんたちと相談して迎えはなしにしてもらった。

 カウンセラー室に通うようになってから薬を飲み忘れたり嫌な顔をしたりしなくなったおれのまじめな態度を見て、指導員さんたちの間でも「ここ最近の理人は聞き分けがいいし、薬を持たせてもいいか」ってなったみたいだった。

「くっそ……さっみい……っ!」

 そんなわけで学校へは歩いて行くんだけど、海っぺりの道は風がめちゃくちゃ強くて、靴下はともかくとしても長袖のTシャツをもう一枚着とけばよかったってさっそく後悔。

 風に巻き上げられた硬い雪の粒がぴしぴしまぶたに当たって痛くて、なんで迎え断っちゃったんだろうってまた後悔。

 晴れてる日の方が雪の日よりもかえって寒くて、なんでかって理科の授業でやったような気がするんだけど、なんだっけ。忘れた。

「おーい! 青木ぃ!」

 フードを被ってネックウォーマーの中に首を竦めながら歩いてたけど、道の向こうから大きな声で名前を呼ばれたから顔を上げた。その拍子にフードが後ろに飛ばされて、丸出しになった耳が寒くてまた急いでフードを被り直す。

「青木、おはよ! 早くね?」

「お……おはよう」

 横断歩道の先でおれを待っててくれた同じクラスの工藤さんは、休み時間にしょっちゅうカウンセラー室に来る子のひとり。だから、こうやって外で会った時にも少し話をするようになった。

 っていうか前田とおれが取っ組み合いになった時に、漆間先生を呼んでくれたのが工藤さん。らしい。

「工藤さんも早いね」

「うん! 英語さ、プリント出てんじゃん。学校でやろうと思って!」

「そうなんだ」

 工藤さんはベータだけど、声も身長もおれより全然でかい。声なんか、たぶん倍くらいでかい。そんで、なんかすごい元気。すごい元気だし、すごくよく喋る。

 だから最初はすごい苦手と思ってたんだけど、今はわりといい人と思ってる。誰とでもざっくばらんに話す人で、驚くべきことにその中におれも入ってる。もしかしたら漆間先生に何か言われたのかも知れないけど。

「青木は? プリントやった?」

「やったよ」

「マジか。見せてよ」

「いいけど、おれ今日もカウンセラー室だし。朝会の前に宿題全部職員室持ってかなきゃなんないから、あんま時間ないよ」

「マジか。無慈悲」

「むじひって」

「しょうがない。自力でやるわ。それじゃあとでね!」

 そう言って工藤さんは、長い髪をマフラーにしまって猛然と坂道を駆け上がって行く。

 道が凍っててつるつるだから走るのは怖いけど、工藤さんを見習ってせめてもっとしゃきしゃき歩こう! と思って、ぐっと歩幅を広げて、大きく腕を振って坂道を登る。そうしたらけっこう暑くなってきて、昇降口に着く頃には少し汗をかいてた。

 靴を履き替えてそのまま職員室へ行って、担任の白川先生に一日分の宿題を渡して代わりに自習のプリントをもらった。今日は午後の授業が総合学習で、地域の歴史や産業について調べることになってる。クラスのほかのやつらはカマボコ工場や漁港へ見学に行くらしい。でもおれはカウンセラー室で留守番。

「青木おはよう。随分早く来たな」

 そうこうしてる内に漆間先生が職員室に来て、出入り口のところで鉢合わせた。

「おはようございます」

 白衣を着る前の先生は、なんだかいつもの先生じゃなくて大人の男の人って感じがしてかっこいい。だからかなんか、妙に照れ臭くなって長く見てられなくて、下向いて靴ばっかり見ちゃう。先生、かっこいいのに、おじさん臭くてだっさい室内履きのサンダル履いてる。てか足、めちゃくちゃでかい。

 いいなあ。かっこいいな。おれは足も、身長も、大人になってもこんなにでっかくならないんだろうな。でも、ちっちゃい方がいいって先生、思うかな。

「しっかし今日は寒いなあ。青木、温かくしてきたか?」

 おれが下ばっかり向いてると、先生は腰を屈めておれの目を覗き込んでくる。たぶん、顔色が悪くないかどうか見るためなんだと思う。分かってても嬉しいし、分かってるからちょっと寂しい。

「……大丈夫です。早歩きで来たから、ちょっと暑い」

「そうか。ははは、だからか。おでこまで真っ赤だな」

 先生はそう言ってけらけら笑って、先に下行っててくれって、おれにカウンセラー室の鍵をくれる。

 でも、そんな風に先生とおれは挨拶をしてただけなのに、職員室の先生たちの内の何人かがおれたちを見て、っていうかおれを見て、ちょっと眉を顰めてるのに気づく。おれが予防接種をしてないのに学校に来てるからなのか、それともおれがオメガで先生がアルファだからなのか、それとももっと別の理由があるのかは分からないけど。

 漆間先生から預かった鍵でカウンセラー室を開けて、鞄を机にかけてジャンパーを脱ぐ。部屋はボイラーが点いてるけどまだ寒い。授業を映してもらうテレビの配線は自分でできるけど、石油ストーブを点けるのは先生じゃないとだめ。

「お待たせー青木ー。連絡帳出してー」

 八時を過ぎると先生がカウンセラー室に来る。先生はドアのそばのフックにダウンをかけて、代わりに白衣を着て、応接セットのソファに座る。おれも机の中から連絡帳を出して持って行って、向かいに座る。

「んー……まだ発情期、終わらないかあ」

「そうみたいです」

 連絡帳。朝の検査の数値とか、おれが飲まなきゃいけない薬の量とか種類、時間のこととかが書いてある。

 迎えに来てもらってた時は指導員さんが薬と一緒に先生に渡してたんだけど、ひとりで学校へ来るようになってからはおれから先生に渡すようになった。

「青木は、今回で発情期は二回めか」

「そうです」

「前は四日で終わってるな。最初の内はホルモンバランスが安定しないからそのせいだと思うけど……ずいぶん環境も変わってるし」

「環境……そうですね──」

 前の発情期の時。警察の人に〝家〟から連れ出されたすぐあとだ。

 病院と牢屋の中間みたいなところに閉じ込められて、お前はとんでもなく危ないところに居たんだよって朝も昼も夜もなく聞かせられながら、何本も何本も注射やら点滴やらをたくさん打たれた。

「──でも、前は短かったけど、めちゃくちゃ体調悪くなって」

 だから短かったんだと思うけど、だからきつかったんだろうなとも思う。きっと強い薬だったんだと思うし、その強い薬で無理やり〝おきざし〟を無くそうとしたんだと思う。おれの〝洗脳〟を解くために。

「四日間ずーっと寝込んでたくらいだから、今の方が体はだいぶ楽です」

「そうか。……それじゃあ、前は大変だったな」

 先生は、何か悲しい本を読んだ時みたいな顔をしてそう言った。

「はい。しんどすぎてなんか、よく覚えてないけど」

 そう。あの時は腹も頭もめちゃくちゃ痛くて、あんまり具合が悪くておれが暴れたからか、四日のうち後半の二日間はずっとベッドに縛り付けられた状態で飯も食えなかった。

 内臓をとげとげの棒でかき回されてるみたいに腹が痛くて、気持ち悪くて、それはぼんやり覚えてるんだけど、でもあんまりきつすぎたせいかいまいち記憶は曖昧だ。

「……先生。質問、いいですか?」

 おれがそう言って手を挙げると、難しい顔で連絡帳を見てた先生も顔を上げた。

「なんだ? なんでも聞いてごらん」

「結局のとこ、予防接種ってなんなんですか?」

「っていうと?」

「オメガは発情期があってきついからそれをなくすため。っていうのは分かるんすけど、でもアルファとかベータの人もするんですよね?」

「ああ。なるほど」

 そう言って先生は一度うなずいてから立ち上がって、本棚から何冊か、何かのパンフレットみたいな薄い本を出してきた。

「青木は、ヒートとラットっていうのは知ってるか?」

 先生はテーブルの上にその薄い本を広げてから、おれの目を見てそんなことを尋ねる。

「ヒートは知ってるけど──」

 発情期のことを英語でそういうんだっていうのは、施設の本棚にある昔のお医者さんの伝記マンガに書いてあった。でも。

「──らっと? っていうのは、ちょっと……聞き覚えがないです」

「そうか。〝ヒート〟がオメガの発情期とか発情状態のことを言うのに対して、アルファやベータの発情状態のことを〝ラット〟っていうんだよ」

「発情期があるのって、オメガだけじゃないの!?」

 思わず先生の開いた本を手に取って、そのページに書いてあることを目で追う。

「ああ。ただアルファやベータに起こる〝ラット〟は周期性のあるものじゃなくて、オメガが発してるフェロモン。リリーサーフェロモンっていうんだけど、そのリリーサーフェロモンに反応して突発的に引き起こされるものなんだ」

 先生が言ってるのと同じことが、先生の開いた薄い本にも書いてあった。アルファやベータは、オメガが無意識にバラ撒いてるリリーサーフェロモンで、気持ちや体がおかしくなることがある──。

「アルファやベータの持ってる、オメガのフェロモンを察知するための受容体。まあ、ベータはアルファほどは多くはないんだけどその受容体も、オメガが出してるフェロモンも、本来は人間の体に必要なものではあるんだけど。でも今の社会ではそれをコントロールする必要があるから予防接種をする必要が──」

 本には、おれが〝家〟で毎日聞いてた話と同じことが、全然違う言葉で、色で言ったら白と黒ぐらい違う言葉で書いてあった。

 祝福とか約束とか永遠とか運命とか救世とか功徳とか、そういうふわっとした上品で難しい言葉じゃなくて、暴行とか誘拐とか妊娠とか中絶とか理性とか本能とか、そういうはっきりした下品でやさしい言葉で書いてあって、だからおれにもよく分かった。

 世界の裏っかわに落っこちたみたいな、ざわざわして変な気分。

 いいと思ってたことは全部悪くてきれいだと思ってたものは全部汚い。そんな感じ。

 別にそんなにショックじゃない。そういうことを聞くのは初めてじゃないし。

 だからおれは今、オセロの石を一枚一枚ひっくり返していくみたいに考えを変えていく作業の真っ最中なんだけど、でも言われたことを理解するのと、信じてたことをなかったことにして新しい考えに塗り替えることは似ているようで全然違って、おれにはすごく難しい。

 今もそう。考えがぐちゃぐちゃに散らかってて、見えるもの聞こえるもの、匂い、触った感じの全部に「ああ、そうなんだ」って思うことで精一杯になる。

「──青木?」

 先生が、心配そうな声でおれを呼んだ。先生が点けてくれた石油ストーブのおかげで、部屋の中はやっと少し暖かくなってきたところ。ストーブの上のやかんはしゅんしゅん音を立てて白い蒸気を噴いている。加湿器がわりって言って先生が乗せたやかん。先生はいつもよりすこし真剣な顔つきでおれを見ている。

「大丈夫です」

 そう言ったおれの顔は、たぶん、全然「大丈夫」って感じじゃなかったんだろうと思う。先生はまた一瞬だけ悲しい本を読んだあとみたいに眉を寄せて、すぐにおれの手から本を取り上げた。

 普段より少しだけ、たぶん本当に少しだけ強い力で、ぴゅっと本を取り上げられただけなのに、体がこわばって肩がすくんで目が泳ぐ。

「……ちょっと、怖いことばっかり書いてる本だったな。ごめん」

「いえ、別に……」

「でもすごく大事なことなんだっていうのは、理解できるよな?」

 下を向いているおれのおでこあたりに話しかけるみたいにして、先生は優しい声でそう聞いてきた。おれは何も言わずにただうなずいて、顔を上げた。

「先生は」

「ん?」

「アルファですよね」

 おれがそう聞くと、先生はさっきのおれと同じように目を泳がせた。

「どうして?」

 でも、すぐにまたいつもの落ち着き払った感じの顔に戻して、そうだよ。とも、違うよ。とも言わずに、おれに聞き返してくる。

「どうしてそう思う?」

「……分かんないけど、なんか……なんとなく。匂いみたいな……雰囲気とか」

「そうなんだ」

「施設で一緒の子が、発情期が来るとそういうのが分かるって病院で聞いたって言ってて。あと、いっ……〝家〟では、尊師さまの、尊い香りが分かるようになったら、もうすぐ、おっ、おき、おきざしが来るから、祝福を頂けるようにお願いしに、行きなさいって」

「……そうか」

 先生はそうして、たまに相槌を打ちながらただおれが喋るのを聞いていた。少し難しい顔で聞いていた。おれの声は、なんだかつっぱって引きつってる。テーブルの角に引っかかってる、長さの足りてない延長コードみたいに。

「おきざしのっ、つっ、辛いのをなくすためには、尊師さまにっ、祝福してもらわないといけないから。尊い香りを纏ってるのは、そ、尊師さまたちだけで、あ、あとはみんな、おきざしを持って生まれてくる、オメガだったから。でもっ、でもね、先生──」

 チャイムが鳴った。でも先生は「いいよ」って言って、少し目尻を下げた。

「聞かせて。青木」

「でも授業……」

「大丈夫。誰かに何か言われたら、漆間先生がいいって言ったって言っていいから」

 点けっ放しになってるテレビから、一時間めの国語の授業が聞こえてきた。白川先生と、今日の日付の出席番号の誰かの声。教科書の音読。

 なんだっけ。ええと……そう。斜陽──いつまでも、悲しみに沈んでもおられなかった。私には、是非とも、戦いとらなければならぬものがあった──。

「先生、おっ、おれ」

「うん」

「今はもう、やっぱり、いっ、〝家〟は、フツーじゃないとこだったんだって分かってる」

「……そうだな」

「だっ、だから、先生」

 パーテーションの向こうから聞こえてくる、つっかえつっかえの音読。

 その声が、ぴんとつっぱった延長コードみたいなおれの声に混じる──新しい倫理。いいえ、そう言っても偽善めく──。

「先生も、おっ、おれと一緒にいたら……おかしくなる?」

 顔を上げて、先生を見る。先生は少し目を丸くして、短く息を吸って、それから止めて、さっき一度丸くした目を細くして笑う。

「……ならないよ。大丈夫」
 先生はそう言って、身を乗り出しておれの頭をくしゃくしゃ撫でた。温かくて大きくて乾いた手。先生のにおいがする。

「本当ですか?」

「ああ。先生は、予防接種が終わってるから大丈夫」

「本当に?」

「もちろん。……青木だって、まだ全然遅くない。きちんとお医者さんから言われた通りに薬を飲んだり病院へ通ったりしてれば、大人になる頃には今みたいな心配しなくてもよくなってるから」

 そう言うと先生は立ち上がって、緑色のカーディガンを取ってきておれの肩にかけてくれた。

「これ着てると、気持ちが落ち着くだろ」

 そう言って先生は、おれの隣に座り直した。

「はい。……でも、なんで?」

「発情期が始まったばっかりのオメガの子にはよくあるんだ。本来オメガのフェロモンっていうのはアルファの人を探し当てるための物だから、フェロモンが多くて調子が悪い時なんかはアルファの人の服とか、日常的に使ってるものを触ってると症状が安定するみたいだな。だから無性に欲しくなっちゃうんだって。巣作り行動っていって、予防接種を初めからちゃんとしてても結構そういう行動が出ちゃう子はいるよ」

「それじゃあ」

「うん。……青木は今、やっぱり少し予防接種を受けてるオメガの子よりフェロモンの分泌が多いから。それで特別具合が悪くなった時なんかは知らない内に手が出ちゃうことがあるんだと思うよ」

「そうだったんだ……」

 おれがそう言ってカーディガンの袖口をぎゅっと握ると、先生は「やっぱり大きすぎるよな」と言って、苦笑いで袖口を折ってくれる。

 ずっと不思議だった。マフラーとかペンとか、全然欲しいわけじゃないのに勝手に人の物を獲ってきちゃうことが。

 ただ、いつもあの偉そうなやつ。前田の使ってる物だったから、たぶんなんか、オメガとかアルファとかが関係あるんだろうな。とは思ってたけど。

「まあ、そういうことがあるからやっぱり発情期が終わるまではクラスのみんなとは一緒にいない方がってことになったんだけど。……この学校も、ひと学年に何クラスかあればそもそも転校してくる時に前田とは別のクラスにできたんだけどな」

「田舎だし、少子化だもん。しょうがないです」

「ははは。そうだな」

「っていうか、やっぱり先生はアルファなんだ」

 おれがそう言って顔を上げて先生を見ると、先生はその時やっと気付いたみたいなとぼけた顔で「ああ」と言って肩を竦めた。

「バレちゃしょうがないな」

「自分でバラしたんじゃないですか」

「ああ、そっか。それもそうだな」

 そう言って先生は口の端に苦笑いを浮かべて、おれの頭を撫でてからゆっくりと立ち上がった。

「とにかく。青木は今、いろいろ困ることがあると思うんだけどさ。気になることとか困ったことがあったら、さっきみたいになんでも聞いてくれていいからな」

 そのままパーテーションの向こう側に行った先生の、声だけが聞こえてくる。それに、甘い紅茶の匂い。

「……いいの?」

「内緒だぞ。これ飲んで、気持ちが落ち着いたら二時間めからはちゃんと授業を受ける。いいな?」

 紙コップに、先生の作ってくれた温かい紅茶。秘密の甘い紅茶。

「……ありがとうございます。いただきます」

 白いカーテンのせいで、窓からの日差しが部屋の中でふわふわ広がってる。先生はその、白い光の中に立っている。先生の手から両手でお茶をもらう。腕時計に引っかかってるとんがった骨のごつごつした、短いつめの先生の手から。

 国語の授業が続いている。昔の貴族の女の人が、好きな人の匂いをたどって街じゅうあちこち走り回る話。

「ふふっ」

 聞いてて、思わず笑っちゃう。そうしたら紅茶にふるふるした波が立って、その上を湯気が霧みたいに走っていった。

 街じゅうを走り回る貴族の女の人の気持ちが、笑っちゃうくらいよく分かる。

 おれにも好きな人がいるから。オメガとかアルファとかは全然関係ない。誰でもいいってわけじゃないから、それはきっと関係ない。

 先生が紅茶をいれてくれた。温かい、甘い紅茶。おれだけに内緒で。

 先生、おれのせいでおかしくなっちゃえばいいのに。

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