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ウズベキスタン旅行記
今月のシラスチャンネルで「金色の砂漠」という私の過去作品の特集をします。そのために過去の資料を見ていたら、砂漠の都市を取材したくてウズベキスタンを訪ねた時の自分用の記録が出てきました。
読み返してみたらかなり面白かったのでここに掲載したいと思います。
こんな旅行記を非公開で書いていた私。暇だったのでしょうか…?
現地情報は九年前のものなので現在は状況が変わっているかもしれない点はご注意ください。
仁川乗り継ぎの国際線はウズベキスタンの首都タシケントに到着し、そこから国内線でヒヴァに移動する。古のシルクロードの中継地ヒヴァはカラクム砂漠の入り口の城塞都市で、ウスベキスタンの西端に位置している。西のヒヴァから東部のタシケントまで、陸路でブハラ、サマルカンドと経由して10日間ほどかけて戻っていく計画で旅をした。
ウズベキスタンを含む一帯の国家の成り立ちは複雑だ。ウズベキスタンを始めカザフスタン、キルギスタン、トルクメニスタンなどのいわゆるスタンの付く周辺国家はちょうど西と東の間に位置しているため、古代ペルシャ、アレキサンダー大王、チンギスハン、唐、イスラム国家、帝政ロシア、ソ連など東西の様々な権力者たちによってその地図を塗り替えられてきた。
宗教的には、このあたりの古来のソグドの民はゾロアスター教(拝火教)を信仰しており、アレキサンダー大王の遠征をうけた時代の遺構にはギリシャ神話の神々のモチーフも散見され、7世紀以降にイスラム教が西から伝播してきて広まり、ティムール帝国時代以降はイスラム国家としての道を歩んでいる。しかしソ連の一部になった前世紀の間に無宗教化が推進されたため、ソ連崩壊以降は一応イスラム教回帰したものの生活の中に宗教色は薄く、現在は他のイスラム国家のような宗教的厳格さは全くない。飲酒や豚肉を食す習慣もあり、日本人が一応仏教徒であるというのと同じ程度の感覚のようだ。それゆえ、女性はベールをかぶって人目に触れないものといった厳しいジェンダーも無く共働きも当たり前なので、私のような女性の一人旅でも他のイスラム圏の地域より旅行しやすい環境となっている。
(一般的にイスラム教国では宗教上のモラルが厳しく痴漢や物取りといった欲得ずくの犯罪は少ないが、これも宗教上の価値観から女性の単独行動を忌避するため、女の一人旅は非常識と見なされ肩身の狭いことが多い)
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12世紀、イスラム国家だったこの一帯はチンギスハンに侵略されてあらゆる都市が徹底破壊され、おかげで11世紀以前の遺構はウズベキスタンにはほぼ残っていない。ただ、チンギスハンが広大な範囲を支配できた理由の一つに、信教の自由を許していたことがあり、その宗教的寛容のおかげで支配地域の強い抵抗を防ぐことができたという。それゆえチンギスハンの進出によってウズベキスタン一帯の物理的な街の風景は一変したものの、イスラムの宗教観がかわることはなかったようである。
一方でソ連支配の時代においては、ソ連はあらゆる宗教を禁じたもののモスクなどのモニュメントの破壊は行わず、ある程度文化財の保護や修復も行っていたようである。石材が採れない土地柄ゆえ建材は干乾しレンガに頼らざるを得ないのだが、干乾しレンガは劣化が激しく角砂糖のように風雨で融けてしまう。それに伴って装飾のタイルも剥がれ落ちてくるので、維持するには常に修復が不可欠なのだ。
つまり、ソ連支配時代においてはチンギスハンの頃とは対照的に、街の物理的風景は破壊されることなく保護されたが宗教観の変化があった。またソ連時代にロシア語が公用語とされたため、ある年代以上の人はロシア語とウズベク語のバイリンガルである。標識などの表記は古いものはウズベク語をキリル文字で表記してあるが、ソ連崩壊以降はアルファベット表記が導入されている。ソ連以前は筆記にはアラビア文字が用いられていた。
現在のウズベキスタンでは、観光業に携わる人以外には英語は通じず、一般のウズベキスタン人は外国人と見るとロシア語で話しかける。ロシア語が日本人にとっての英語なのである。とはいえ親切な国民性なので、数字の言い方を覚えてあとは行きたい場所の名前を連呼していれば個人で旅行するのにさしたる不便はない。
サマルカンドのブルータイルで埋め尽くされた神学校の美しさ、黄金色の砂岩とエメラルドグリーンの飾りタイルでできた中世さながらの塔の街ヒヴァ、砂漠に打ち捨てられた古の城砦の「カラ」と総称されるダイナミックな廃墟、文明の十字路の名にふさわしい多様な出土品、そしてモンゴルとアラブ、ロシア、ヨーロッパの食文化が渾然一体となったシルクロード風の料理の数々…。訪れる前からその素晴らしさは話に聞き予想はしていたが、どれもその予想を上回る素晴らしさだった。
サマルカンドのアフラシャブ博物館やタシケントの歴史博物館で目にした多様な遺物…ギリシャ風のディオニュソスの甕、東洋的なガンダーラ風の仏像やゾロアスター教の謎めいた骨壺、日本の織部焼きそっくりの彩陶の器…ウズベキスタンでは、全く違うテイストの遺物が、同じ地域から出土するらしい。幾度も地図が塗り替えられ支配者が替わるごとに文化や宗教が変化してきたため、時代ごとの地層によって、まるで違う文化に属しているのだ。
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特筆すべきは料理の美味しさで、ウズベキスタン料理は日本人の口にあいそうなものだった。ラグメンと呼ばれるウイグル風のうどん(ラーメンの語源という説も)、インドの影響を感じるサモサ、ピラフの元祖と言われるプロフという羊肉の炊き込み御飯、ペリメニというロシア風の水餃子、暑い夏に食されるディルを練り込んだ緑の冷製パスタは日本の茶そばによく似た雰囲気である。中でも、シャシリクというアラブ一帯によくある羊の串焼きは、これこそ肉食文化の極みという肉の美味しさで(ウズベキスタンは二重内陸国といって二カ国以上を経由しないと海に出られない内陸国でシーフードはほとんど食べない)、今まで牛や豚、鳥類も含めてもこんなに旨い肉は食べたことがなく、今までの肉はなんだったんだろう、という気分になる。
そういえば、京都の食文化は最高なのに同じ古都でも「奈良に旨いもの無し」と言われるのはなぜかという疑問の答えは、モノと情報の流通の経路上に位置しているかいないかの問題で、奈良は古来より東海道の流通経路から外れてしまっているから食文化が発達しなかったのだと私は思っているが、まさしく、ウズベキスタン料理が美味しいのは、交易の盛んな地域の料理は美味しいという法則を立証していた。
印象に残ったのはこの国の人々のメンタリティである。基本的に、一族を大切にし家族に対して非常に愛情深く(これは遊牧民族由来の部族社会の典型であるが)、シルクロードという土地柄のためか、旅人すなわちよそ者に対して警戒したり怖じたりするところが全くない。旅人に対するここまで好意的な対応というのは、シルクロード以外の場所では私は出会ったことがない。
また、地域のコミュニティが非常に強固で、自分たちの住むエリアに常に住民の誰かしらが目を行き届かせていて全ての人々が顔見知り状態なので、社会に一切の匿名性がなく治安が非常に良い。実感としては日本より良い。
近所の子供たちが路地で遊ぶのをどこかのお父さんかおじいさんがまとめて監督していて、私のようなよそ者が路地に迷い込んでキョロキョロしていようものなら、迷ったのか、どこへ行きたいんだ?と必ず誰かが心配そうに聞いてくる。海外では普通、地元の生活空間に旅行者が踏み込むと警戒され敵視されるのが常で、特に貧しい国ほどその傾向が強まるが、この国では全くそんなことはなく客だから親切にしようという雰囲気である。
子供たちは、自分たちの住む路地で旅人を見かけると「ハロー」と微笑みかける。他の国の子供たちのように菓子をねだったり旅人にからかい半分に声を掛けるという風情は皆無で、「珍しい人が来てくれて嬉しい」という気持ちで挨拶してくるのがわかる。「ニーハオ」とか「コンニチハ」とは言わないのも好感が持てる。
めったに観光客が踏み込まないような農村で、農家の若い奥さんに道を聞いても、怪しむことなくにこやかに対応する。都会でもホスピタリティは同じで、空港のレストランで、両替を忘れてしまって現金が足りず飲み物だけで時間をつぶしていた時、ウズベキスタンには珍しいイマドキなウエイトレスが「食事は注文しないのか」と何度も聞くので現金がない旨を説明すると、そのウエイトレスはクッキーを並べた皿を持って来て「美味しいから食べて」とこっそり笑いかけて去っていった。夜行列車で家族のように世話をやいてくれた人々、夜中に駅まで迎えに来て何時間も待たされたにも関わらず「列車が遅れて疲れたでしょう」と心配顔の安宿の従業員、この国の人々の旅人に対するウェルカムな態度には驚くばかりであった。
外の世界からやってくる他者というのは、このシルクロードの土地の人々にとっては外敵である以上に、恵みと発展をもたらす幸の象徴だった歴史があるのだろうか。
もう一つ驚いたのは、この国の赤ん坊はほとんどグズらず、公共の場で騒ぐ子供も皆無だということだ。一族の絆を重視し子供を大切にするので、彼らは高級レストランでもどこにでも必ず小さな子供まで引き連れてやってきて街中いたるところ子供だらけなのだが、そんな子供だらけの列車や飛行機、レストランで、日本のように子供の神経にさわる叫び声や泣き声が聞こえて来たことはほとんどない。
なぜなのか。
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