
『寂しさにまつわる宴会』を振り返る
上田
皆様こんにちは。「上田久美子の演劇理想論」です。今日もご視聴をありがとうございます。
私はフランスに到着したばかりですが、2月3日までは東京の大田区にある蒲田温泉というところで、『寂しさにまつわる宴会』という、小規模ながら初めての主催公演をさせていただいていました。こちらのチャンネルでは私の創作活動の報告をするということで、『宴会』の総括というか今何を考えてるのかみたいなことを喋れたらなと思っております。
今回は批評家の関根遼さんとZoomで繋いで感想など伺いつつ、進めていこうと思っております。
まず関根さんのプロフィールをご紹介します。
関根さんは1999年生まれで、ご専門は現代演劇・日本演劇・舞台芸術アーカイブを巡る様々な実践の研究・批評。 現在も早稲田大学の大学院の博士課程に在籍中という若い批評家です。
関根
皆様どうも初めまして、関根と申します。上田さんにご紹介いただいた通り、ふだんは早稲田大学の大学院で主に日本の現代演劇を扱っていますが、今はフランス語圏のほうまで手を伸ばしつつあって、日仏の現代演劇、なかでもドキュメンタリー演劇と呼ばれるようなジャンルを中心に研究をしたり批評を書いたりしております。
上田さんの作品との出会いということでいうと、私は上田さんが宝塚にいらっしゃった頃から上田さんの作品を拝見していました。私自身はヅカファンというわけではないんですけど、友達の宝塚好きな子に連れて行ってもらって、最初に上田さんの作品で観たのは『BADDY』だった。劇場で観たのは『桜嵐記』と『BADDY』だけだったと思うんですけど、映像も含めればたぶん上田さんの作品は全部拝見してるんじゃないか。
宝塚の退団後も、どういう活動をされるのかというのは私も注目をしていたので、今回も合計3回公演を拝見することができ、こうやってお話する機会をいただけてとても嬉しく思っております。どうぞよろしくお願いします。
上田
よろしくお願いします。3回もご覧いただいたっていうのはお客様の中でも最多記録に近いじゃないかと思うんですけど(笑)私と関根さんがご縁があったのは最近の話で、まだじっくりお話したこともそれほどない感じですよね。
今年、文化庁でアーティストを海外で活動できるように支援していくという制度ができまして、precog(プリコグ)という、主に岡田利規さんなどをマネジメントしている舞台制作の組織が、私や関根さんを日本だけではなく国際的な場でも活動できるように支援してくれて、私が海外向けのプロジェクトをその枠組の中でやることになっていて、そこで批評家としては関根さんが私の創作をなるべく観て、それについて批評を書いたり多少意見を言ったり、そういう感じで助け合ってやるように、みたいなそういう制度になってますよね(笑)
関根
参加者にもまだ全貌がつかめていない制度っていう(笑)
上田
とりあえずあなたたち一緒にやってみなさい、みたいな感じで言われて組んでるという。関根さんは、奇しくも宝塚の作品を全部チェック済みだったということで、ちょうどいいぞみたいなこともあったんじゃないかなと思うんですけど。
そんなこんなで今回、こちらが関根さんに招待状を送るのが遅れて、関根さんはちゃんとチケット発売日に買ってくれて、招待も来たからそっちも行こうみたいな感じで何回も来てくれましたね(笑)
関根
無駄にはやっぱりできないですからね。
上田
ありがとうございます。3回も来ていただいた結果、期間は10日ぐらいしかなかったけど、結構公演期間中に変えていったんで、その辺も見ていただけたのかなと思ってます。
早速ですけれども、関根さんにまずはざっくり感想など伺えたらなと思います。
関根
はい。まず簡単な感想としては、この『寂しさにまつわる宴会』はその名の通り舞台上で展開する物語、ここでは「余興」っていうふうに呼ばれてましたけど、余興とか上田さんの語り、レクチャーだけで作品が完結してしまうのではなくて、「宴会」っていう場のフレームを使って、その観客と舞台の関係とか観客同士の関係性まで含めて演出してしまうというところから、大変面白く観ていました。
いくつか面白かったポイントがあるんですけど、まず蒲田温泉の2階の宴会場っていう場の選択が絶妙だったと思うんですね。上演場所を見たときにそう来たかと思ったんですけど、やっぱり普通の劇場でやるのとは全然違う。椅子席がちゃんと用意されてるわけでもないし、靴を脱いで上がってみんな座椅子に座ってみたいな感じで、そういう構造的な違いがまず面白いのと、基本的に演劇って舞台と客席が分離されていて、客席の暗闇の中からその光る舞台上を見つめるっていうのが基本的な形式で、演劇っていうのは基本的には舞台上で行なわれてることを指すわけですよね。それを上田さんは、宴会っていう場に観客を参加させてしまうことで、客席を単純に暗闇の中に埋没させずに、舞台との関係性とか観客同士の関係性みたいなのを常に意識させておくという点が、非常にアイディアとしても、観客として実際に体験した上でも面白く観ていました。
で、竹中香子さんと三河家諒さんが上演されていた「余興」と呼ばれるお芝居の場面のほうでいうと、物語の筋としては、簡単に言えば推し活に象徴されるような、今もってなお加速過熱し続ける消費社会の構造とか、あるいは人と人との関係さえお金を介さないと成り立たないような、それさえ商品とされてしまうようなグロテスクさみたいなものが断片的な場面で描かれていて、そこで特に凄みのある竹中香子さんの、埋めても埋めても埋まらない穴を抱えたケイコっていう名前の登場人物が出てくる。穴あけっぱなしでは人間は耐えられないから、とりあえず手に届くところにあるものを埋めていくっていう、この着想を深夜のドンキで得られたとおっしゃられてて、なるほどと思いました。
やっぱり人間、寂しさというか、もともと根本的な喪失を埋めるためにいろんなものを求めていくわけですよね。アイドルであったりホストであったり、お芝居・ミュージカルであったり宝塚だったりそれこそ大衆演劇だったり。この作品でも大衆演劇が取り上げられているわけだけれど、上田さんがおっしゃったように大衆演劇っていうのはこの作品においては一つの例にすぎなくて、むしろそこから、もっと広くいう芸能的なものが根本的に抱えていたある種のいびつさというか暗さみたいなものが、今の消費社会・消費資本主義と悪い意味で噛み合ってしまって、どんどん歯止めが利かなくなっていく、という様子が描かれてるんだなと思いながら物語を見ていました。
もともと芸能的なものってよく言えば、明日死のうと思っていた人を明後日まで生きてみようと思う人に変えるぐらいのものだと思うんですね。現状を肯定して頑張って、っていう力を与えてくれるものだと思うんです。逆に芸術ってその反対で、見ている人をしんどくさせるものだと思うんです。だから今しんどい人にはなかなか芸術はすすめられないっていうところがあるんですけど。
ただそういう芸能的なもの、大衆演劇がもちろんそうですし、あるいは宝塚とか帝劇のミュージカルとか、落語とか講談の寄席みたいなのもそうですけど、昨今いろいろ暗い問題、そこに温存されてきた闇の部分みたいなものが結構問題にはなっているわけですよね。そういうのを見てるとマルクスが昔、「宗教は民衆のアヘンだ」って言った言葉を思い出すんですね。この作品を観ててもそうだったんですけど。これは、人々が現実の苦しさから一時的に逃れて、それでもなおなんとか生き延びていくために宗教が使われている、ということだと思うんですけど、そこからすれば芸能的なものもそういうある種の宗教的な立ち位置ときわめて親和性の高い、言ってしまえばアヘンとか麻薬のような役割を演じる場合があった、あるいは今なおそういうものであり続けているっていうのは言えると思うんですね。
でも、生きていく上でやっぱり人が穴をそのままにしていくっていうのはなかなかに耐え難い。この作品だとそれを「寂しさ」っていう言葉で表現されていた。それに苦しむ人が一時的にアヘンとか麻薬を求めたとして、これはあの、実際にアヘンとか麻薬を求めたっていうわけではなくて…
上田
演劇、芸能を求めるという。
関根
そうです、求めたとしてもやっぱりそれを非難することはできない。今はもうみんな大なり小なりそうなってるから、誰しも同じようなことをやっているから、それを第三者的な立場から単に批判するっていうことはできないと思う。
ただ大事なのは、あくまでもそれはやっぱりアヘンなんだよ、合成麻薬で一時的な現実逃避でしかなくて、みんなそれに依存することで生きてるのは一体どうなんだっていうのを指摘することと、単純にその行為を指摘して否定するんじゃなくて、その麻薬をやらないと生きていかれないような状況を生み出してる現実の問題っていうのを明らかにすること、それが必要で、そういう意味ではその2点をこの作品は備えていた。そういう意味での批評性っていうのは、この作品を見ていてすごく感じたところでした。
上田
ありがとうございます。マルクスが「宗教は民衆のアヘン」と言ったというのはすごく想像ができる。
まだ戦争になる前、7、8年前ですかね、私がロシアに旅行したとき、ソ連の時代は宗教がNGだったんで途絶えていたロシア正教が復活していて、それがすごく高齢者たちに人気で、長靴を履いて三角のバラの模様のストールみたいなのを結んだ絵に描いたようなロシアの農民のおばあちゃんたちが集まってるんですよね。その教会ではフランキンセンスっていう乳香が燃やされてすごいいい香りがして、ロシア正教だから宗教画とかすごく荘厳で華美なんですよ。ロシアって土地が大きいから、一つ一つの教会のサイズも巨大で空間だけで圧倒してくる。ここには何かすごい、美とか何か崇高なすごいものがあるっていう、権威じゃないけどなにかそういう荘厳さを備えた場所になっていて、そこに貧しい人々が集まってるんです。
一方で電車とかに乗って窓から見ると、ここに人住んでるのかな、みたいな朽ちた家屋にそういった農民などが住んでいる。冬の間は新鮮な野菜もなくピクルスをひたすら仕込んでそれを冬の間食べてビタミン補給みたいな。そういう大変な生活の中であの教会のような空間に行くと、なにか自分たちの生活がただ無意味な苦痛なことを耐えて命を繋ぐだけではない、もっと深い意味とか実存の理由を感じられるのかも。教会がそういう場所となりうる。
その一方で、富を独占してる人たちがいるわけじゃないですか。でも貧しい人々もその現実を何とかしよう、こんなのおかしいって言わずに、壮麗な教会に行くことで心を落ち着けて次に進めてしまう。そういう機能が備わってるからこそ、プーチンはロシア正教を復興させようと頑張ったっていう話があったんですけど。
でもそんな知識を持つ前にその教会に行って、そこに集まるおばあちゃんたちとか車窓から見るボロボロの農家を見たときに、本当に思ったんですよ。これは何かよくないことだ、教会はむちゃくちゃ美しいし、一見敬虔で慎ましい良い光景みたいに見えるけど、そうなんだろうかって。まさにアヘン的で、打開しなきゃいけない現状をごまかされたりもしてしまう一方で救いでもあるみたいな。本当にどうにもならないんだったら救いでもある。
でも関根さんがおっしゃった、芸能がそういう宗教に当たるアヘンであって、芸術はしんどいと見れないってことに関して言うと私は違ってて、自分がしんどいときに楽しそうな芸能とか、ポップスのエネルギッシュな歌とか聞くと、もうついて行けなくなっちゃうんですよね。たとえば宝塚みたいな楽しいものとか美しいものをやる場に行ったとき、「私は今それどころじゃない」みたいな気持ちになるから、ゴッホが耳を切り落としながら描いた絵とかを見てるほうがなんかいいみたいなところがある。命削って描いた絵とか見てたら、この人めちゃくちゃ頑張ったんだな、私もちょっと頑張るかみたいな、なんかそうなるところがある。そんな感じがあるから、芸能=「痛みをやわらげ明日への希望を持たせるアヘン」説は私にはよくわからないところでもある。
関根
なるほど。

上田
教会に行くおばあちゃんたちは、村祭りみたいにヤッホーって楽しみに行ってるわけじゃないんですよね。おばあさんたちはなにか価値のある、本当に哲学的に意味のあるようなものを求めて行ってるような気がしてる。だからそれと日々の憂さを晴らすという意味でのエンターテイメントみたいなことっていうのは、私は自分個人としてはあまり近くないなって、今聞きながら思った。
関根
ありがとうございます。面白いお話です。
かくいう私も、しんどいときに芸能的なものが見たいかって言ったら、たぶんそうではないっていうところはあるとは思うんですけど。
上田
しんどさっていうのがもしかしたら、具体的に今このことで本当に悩んでるとか、鬱になってるとかじゃなくて、はっきり明確にどこかが辛いわけじゃないけどそれこそ空虚だったり空疎だったり、なにかそういう埋まってない虚しさみたいな、その欠乏感を埋めるのになにか必要なときがあるのかな。どうなんだろう…いや、ちょっと話がそれちゃってたらすいません。
関根
そうですね。そうやって考えてみると、余興の最後に二人が殺し合った後に一人になって出てくる「太陽」っていう名前の怪物、その太陽っていう名前も象徴的ではありますよね。明るさとか温かさを与える、人とか生き物が生きる上でなくてはならない存在であると同時に、近づきすぎるとそのエネルギーによって焼き殺されてしまうような危険性を持つ強烈な存在。ものを見るためには太陽の光が必要だけど、それを直視してしまうとあまりに強烈なその光でもって視力が失われてしまう。そういうある種アンビバレントな関係の強烈さっていうものをどう捉えるかっていうところではあると思うんです。
あるいは、もっと文字通りに捉えれば、太陽ってそれ自体が燃えつつ発光する恒星、つまり英語で言えば「スター」に当たるわけですよね。そういうとこで、この余興の結末というか物語全体が、もちろん部分的には宝塚と大衆演劇で客を釣ってその上でそいつらをまとめて切る、みたいな悪意のようなものも若干は感じたけれど、むしろそれ以上にこれまで上田さんご自身の演劇活動のある種の総括というか、これからやっていく上での態度表明のようなものとして、私はその余興の部分は見ていました。
上田
太陽ね。あれは、私もあんまり明確にこれを象徴しようというはっきりした理屈はつけてないところはあります。
ただ、作品からはっきり読み取るのは難しいと思うけど、食べても食べてもお腹がいっぱいならない、誰かと関係を結んだり承認してもらってもすぐにその快感が消えちゃってまたなにか刺激を求めていかなきゃいけない感じ、その寂しさというか存在の無意味さ空疎さみたいなものから抜け出すためには、個としての私という外の世界と皮で完全に分離した自分みたいなものではなくて、なにかこの世界の循環の中の一部である自分を意識する必要があると思っていて。その世界というのは、言ってみれば太陽というもののエネルギーによって生み出されてるじゃないですか。私自身も、太陽のエネルギーによっていろんなものが植物になってそれが違う動物になってみたいな循環の中にあるし、呼吸を通じてすべての者たちがお互いに物質を交換して、一つの大きい全体を成してる。
これはむしろ私が夏に城崎でやっていた「プネウマ」というプロジェクトのテーマと近いんですけど、そこら辺を感得していかないと、いくら消費的な人間関係を求めていっても、人間っていうのはそこでは満たされることはなかなかなくて、もうちょっと世界全体あるいは自然の中での自分っていうものを取り戻していく、昔だとまだ感じられたような太陽を中心とした大きな循環と個の間の繋がりを取り戻すっていう感じが、最後の殺しのところのモノローグに実はある。永久のカルマみたいな、求めても求めても満たされずずっと喉が渇き続けてるみたいな輪廻から抜け出したスター、もう誰かに認められたいとか誰かに愛されたいっていうのが一切ない存在として自己完結したスターみたいなものを太陽とたとえたのは、そういうイメージと繋がりがあったんだろうなって、今聞きながらふと思いました。

関根
今お話を伺ってて若干思ったのが、この作品だとやっぱり寂しさっていう語で存在の空虚みたいなことが表されてるわけですけど、たとえば90年代にオウムが出てきたときに、いい大学に通う頭のいい若者たちがバンバンはまっていった。なんであの人たちがあんなにはまったんだろうって考えたとき、私はまだ生まれてなかったので今からいろいろ資料を当たってみてみると、たぶんそのときに流通した言説で一番メジャーなものは若者の孤独を指摘していたと思うんですね。彼らは孤独だからそれを解消し満たしてくれる存在としてのオームにハマるんだと。そのオームを「オタクたちの連合赤軍」って呼んだのが大塚英司だったと思うんですけど、当時、演劇に限らずTVドラマとか映画とかでもやっぱり寂しいから彼らがオウムにはまったんだっていう物語を描くのは結構出てくるわけです。その信者の表象っていうのは大体ステレオタイプで、なよっとした友達のいない眼鏡かけたオタクがコロッとオームに転んでいくみたいな感じで描かれてるんだけど、結局今の社会もそのときとたいして変わってないんじゃないか。この作品で言ってたのも、単純な疎外論以上のものになっていたのかっていうのはちょっと個人的には疑問があったところです。
マルクスの時代から人間は社会から根本的に疎外されていて、言ってみれば穴があいていて、消費社会において疎外された自らの虚無感という寂しさを回復しようといろんなものを穴に詰めていった最終的な解決として、一つは今回の作品で上田さんが提示されたみたいに他者と同一化する方向に向かうしかないっていうのはあるとは思う。それはこの作品みたいに殺し合うなり、あるいはオウム的に信仰の境地に至ることで世界そのものと同一化する方向に行くなど、この場合も修行っていう名目で疑似的な死のほうには近づいていくわけですけど、ただ結局普通に生きてる人間には、それを回復することってほぼ不可能じゃないかっていうところまで行き着くわけですよね。その問題は今お話伺っていて思ったところです。
上田
そうですね。 そこへの解決は示されないというのもあるし、寂しさとか一種の虚しさ、別に私はこの私じゃなくてもいいんじゃないかみたいな無名性って、こうやったら解決するよとか、そういう状態が良くないとかっていうことでもなくて、個人的にそこはもうベースとして誰にもあるものだと思ってたんです。でも今回宴会でアンケートなどやってみて、皆が必ずしもそんなことはなくて、自分はまったく寂しいとか感じないし、自分のことが大好きで愛してるし、という人もいっぱいいて面白かったです。
でもそれって、その人たちも実は穴があいているはずなんだけど、それを感じずに今まで来れてるだけなのではないか。常に家族なり仕事なりで周りを囲まれて穴を感じる環境にないけど、いつかそういうのを感じるときもあるかもしれない、そんな話をしてた人も多かった。穴は消えずにずっとあっても、それについて悩んだり感じる余裕があるかは、環境によって違う。それが悪いとかではなく、なにかしらみんないろんな方法で埋めようとしながら生きていくし、穴があいてていいんだとして生きていく人もいると思うんだけど、でもその対処の仕方について、やっぱり一考してみる価値はあるのではないか、みたいなことが言いたいのかも。
これが政治的なことをやる演劇だったら、こんな社会は間違ってるとか主張がありますけど、たぶん私が今やってることというのはそういうのとはちょっと違う。だから推し活じゃない違う生きがいを見つけてみんな畑仕事しようよ、とか言いたいわけではないんです。
感想の中に、宴会の仕掛けが楽しくってウキウキ見てたけど、自分も推し活をしていて、虚しさをそれで埋めているのは確かで、自分もケイコなのかと思うと否定されたようでつらかった、というのがあった。でも私が言いたいのは別に推し活を辞めろということではない。
そもそも存在というものの虚しさみたいなことを私はいつも抱えていて、人生とはそれとどう対処していくかということだと思ってるんだけど、皆さんはどうですか?と聞いてみたかった。なにかそういうことをシェアしてみたいという感じでした。
関根
だから宴会っていう場を選んだっていうこともあるんですか。
上田
そうなのかなと思いますけどね。どうですか。良い点も悪い点もたぶん関根さんの中で何点かトピックあると思うんですけど、悪いほうもよかったら遠慮なく(笑)。
関根
そう言われるとなかなか言いづらいところがあるんですけどね(笑)。
さっきの「ケイコは私だと思った」っていう感想に引きつけて言うと、逆に私はケイコは私だと思えなくて、なんでだろうと考えてみたときに、単純に表象のレベルの問題になっちゃうかもしれないんですけど、Twitterとかで検索してみると、大衆演劇ファンがこれを見てちょっと嫌な気持ちになったみたいな感想はそれなりに見つけられたんですね。ただそれは上田さんもある程度は織り込み済みで、むしろそうさせるためって言うと言いすぎかもしれないですけど、ある程度想定したものだとは思うんです。
むしろ私はそうじゃなくてケイコのほうが気になって、ずっとどうしてこの役者を追っかけて沼にはまって、その存在の空虚さゆえに抜け出せなくなってしまうっていう人物が、かなりステレオタイプ的な女性のオタクでしかも工場労働者なのか。おそらくはかなり低賃金かつ不安定な雇用状態で働く社会的には抑圧され搾取されて下層に位置するような人物でなくてはならないのかっていうのは、よくわからなかった。
つまり大衆演劇のほうには、あくまで一つの例として、作り手としての上田さんのある種の必然性というか、舞台上で行なわれている物語と現実にそこに立っている上田さんとのある種の緊張関係みたいなものが感じられたんですけど、ある種観客の表象でもあるケイコのほうが私は受け入れられないというか、どうしてこういうステレオタイプな描き方をしたんだろうか、工場労働者というアイデンティティをつけたのは一体なぜなのかというのが気になりました。
登場人物の造形は、制作プロセスの中で出演者の竹中さんらが役になりきって、上田さんが彼女たちにインタビューをする感じで進んだとおっしゃっていましたが、ケイコの諸々の要素もそういう中で出てきたものなんでしょうか?
上田
そうですね。職業も俳優の即興の中で生まれたものっていうか。でも私が、そうじゃなくてこうしてとかいうことはできたわけだから私の選択とも言える。工場労働者とは決めてないにしろ、貧しいという設定は最初からあって、ストーリーの流れとして最終的にホームレスになるというところに行きやすい設定が必要というのもあります。
ケイコを、かつて東京の製薬会社で働いていた中途半端な総合職の私みたいにしたとしてもできるといえばできるけど、ちょっと話としてはわかりづらい。現状は確かにステレオタイプではあるけど、リアリティのある設定に観客が深く入り込んでいくっていうことをやろうと思っても宴会の余興の形式では難しく、それをやるなら時間をかけて映画みたいなストーリーテリングにしていかないとそこに行きつけない。やっぱり寸劇形式だと、ある程度のステレオタイプ化がいるっていう感じはあったと思いますね。それがちょっと悪趣味に映るとしても。
ただ、その工場労働者が自分に思えないっていうことは、そこは人によると思うんです。私は結構自分にも思えるっていうか、工場じゃなくても結局OLでも同じ感じを私は持ってたから。あのケイコの役は工場労働者だけど、OL時代の私も心性としては変わらない感じがあり、やっぱり自分自身がアノニムな存在で、誰からも見られてなくて、代わりがいくらでもいる大都会東京の中で本当になにか塵みたいな感じがするという、そんな感じはあったかなと思います。
関根
なんかこう、これも私が見た感想にしかならないんですけど、今現在ある種の余裕のある人たちが、そうではない「見えなくなっている人たち」の表象を作り上げてそこに同情してみせる、みたいな身振りが若干感じられてしまったのが気になったところでしたね。
上田
うーん、そこもなかなか難しいですよね。言わんとしてることはわかる。でもそういう登場人物もやっぱり出したいし…。
関根
もちろん実際にどうするかっていう問題はあるにせよ、あまりにもケイコは私、私がケイコだったっていうのはナイーブすぎる。そこをイコールで繋ぐっていうことが、自己反省の機会を得るというよりは、ケイコというキャラクターを使って自己批判して見せることによって、実はその分自分は安心するみたいな、結局それは自分がケイコじゃないからそこで安心ができてるんでしょ、っていうふうになっちゃうんじゃないかなと思って。だから逆に私は、ケイコが私だとは言えなくなってしまった。
上田
観客の人たちでも、「ケイコが私だと思った」っていう人たちは、多かれ少なかれそういうところがあるとういことですか。
関根
そうですね…ちょっとだいぶ性格が悪いけど。これを言ってしまうと。
上田
まさしく今、工場で労働してる人がこれを見たなら、「ケイコは私だと思う」と「思う」というよりもまさにケイコなのであって、それより上の立場にいると思えるからこそ、「私もケイコなんだ」って言えるっていうことですよね。
関根
安心して消費ができるんじゃないかみたいな。
上田
そもそもこの物語を思いついたときに、いわゆる貧困層を設定にするということに、罪悪感というかそういうのは感じました。
たとえば『万引き家族』とかあるじゃないですか。一緒にしたら『万引き家族』に対して失礼なんだけど、人間ドラマを書くために貧しいという設定を使ってるなみたいな感じがあって、貧困のリアルとかこの人たちをなんとかせねばということじゃなくて、ビーチでピクニックするところを書きたいんだろうな…みたいな。重い問題を使って、情緒の話がメインなのかって。知的特権階級の人たちが貧困層の設定を使って情緒に訴える映画を作るのはどうなん?ていうのはやっぱり結構感じたんですよ。同じ貧困を扱うにしても、ぐいぐい抉って後味が悪すぎるところまでやりきっているようなものだと違和感なかったもしれないけど。私に比べたらもちろん『万引き家族』のほうがデリケートにやってるとしても、見たときに、ん?って思った自分がいた。だから今回、自分の中では「見えないことになってる貧しい階層」を扱わないとできない、っていう感じがあったけど、でもなんかやっていいのかなっていうのは確かに最初思いましたね。
関根
あとそれを私が感じたのは、あの場、観客席の中にそのケイコみたいな人、つまり職業的あるいは経済的にケイコみたいな人がいなかったからっていうのもあるんじゃないかと思うんですよね。
そうするとやっぱり観客を非難しているということになって性格が悪いことになってしまうんですが。
上田
うーん、ちょっとダークツーリズムじゃないけど、それこそオペラで田舎の貧しい農村世界を描いてるけど、貧しい農民はオペラ観に来れるのかみたいな?
関根
そうそう、そうです。たぶんそれが普通の劇場だったら、そんなに思わなかったとは思うんですけど、宴会場で周りがそれなりに見えてしまう。どういう人かわかってしまう場だからこそそう感じたんじゃないかな。
上田
宴会場で出し物を楽しむ的な要素があるからね。
でもそれを楽しみに来た人たちが、それこそ悪意なくヘラヘラ笑ってたけどだんだん、あれ…?みたいになるというのはあったはずなんですけど。
でもまさに関根さんが言ったみたいに、会場が宴会場じゃなくってブラックボックスの劇場で、演出の私が出るのではなくただストレートな演劇としてああいう社会を描いていたら、そういう違和感はもうちょっと減ると思う。そうすると労働者っていう姿についても、もっと厳密に現実的に書けるじゃないですか。でもああいう場所だから、ちょっとカリカチュアせざるを得ないっていうか、やっぱりなんとなく余興的にしたほうが場と合うみたいなことがある。
関根
それは確かにそうですね。
上田
そうなったときに、これっていいのかな?みたいなとこも出てきちゃう。そこはすごくあったと思います。
ちょうど今日話す前に、宴会場っていう特殊な場所、関根さんが最初に言われたみたいな、そこで観客が受け取るものは普通の劇場と違ってくるという場所でやるために、もっと効果的な題材だったりストーリーもありうるのではないかとふと思った。
今回あの場所を初めて使ってみた結果として、そこで起きてる演技と、観客との距離が近いから、お客さんがより「我がこと」に感じる部分があった気がするんですよ。内容に自分たちがすごく関与しているような、そこで起きていることに、自分たちも賛同してるような感覚にもなるんじゃないか、それによって居心地が悪い場合もあるのではと。そういう感じ方をする場所に適した物語っていうのも、さらにいろいろ可能性はあるだろうと思って、あの面白い観劇の状況によりフィットしたものってなんだろうということを今日、ぼやーっと考えたりしました。

関根
それは今後もあそこを会場として使う可能性はあるっていう?
上田
わからないですけど、でもまだ宴会場のベストな使い方とまでは言えないと思うんですよ、今回は。今回よかったのは、とっつきにくい演劇に観客が入っていきやすいみたいなところがあったと思うんです。陰惨な話を違う形で見れるっていう、緩和されることがあるかなと思ってやったんですよ。でもその効果とは違って、あの場がなにかを中和してくれるというんじゃなくて、あの場とむしろ相乗効果が出るストーリーがあるかなって。
関根
そろそろ終わりの時間かも知れませんが、お聞きしたかったのは、今回団体を立ち上げられて、第1回目の公演で普通の劇場じゃない宴会場という場を使って公演をされて、今後はどうするのか個人的に気になるところです。こういった、劇場じゃない場をメインで使っていくのか、あるいはやっぱり劇場に戻ったりもするのか、可能な限りでお聞きできたらなと思います。
上田
そうですね…どうなんだろう。でも…劇場に戻っていく…と…思いますね。
劇場じゃない場所でやっていきたいということでは全然なくて。今回もそのことがまずあったというよりは、あの物語を最初に思いついて、それをやれる俳優の組み合わせを決めて、そしらたそれがフィットする場所としてブラックボックスの劇場はイメージができなくてあそこになったという、そういう順番なので。劇場に戻ろうという意思があるとかでもなく、作品ごとに合う場所を求めたいです。
関根
なるほど。もう一つお伺いしたいのが、フランスに戻られたとおっしゃってましたけど、今フランスと日本の2拠点で制作活動されてるわけですよね。今後の制作とか発表の場はどっちを目指していくのか、フランスメインでいくのか日本でも作品を作られたりするのか気になるところなんですけど、いかがでしょう。
上田
そうですね。フランスでなにか自分の作品を実現したいっていうのはあって、それに関しては日本で作ったものを輸出というよりはフランスで作れないかと、道なき道ですけどトライしたいというのはあります。ただフランスでやることにしたと言ったからできるというわけじゃないですよね。
ただ、なんでフランスでやりたいと思うかっていうと、今回この宴会の作品や、城崎でやった「プネウマ」で、アートと呼ばれるタイプの演劇の仕事をしてきた人たちと組んでやったりすると、そういう人たちに比べて私は、お客さんがどう感じてどういう作用がお客さんに起きるかみたいなことをすごく中心に置いてものを作るタイプなんだなってことに気づいたんです。しかもその観客っていうのが批評家とかだけじゃなくて結構幅広く想定している。それはたぶん宝塚という場所から受け継いだDNAだと思うんですけどね。それこそ宴会に今回来てくださったお客さん見ても、私のことを宝塚時代から知ってた方たちが過半数だったと思うんですよね。そういう人たちのことを想像して、そういう人たちでも、なんとなくテーマがちょっとアバンギャルドでも、なんだか来てよかったなと思ってほしいし、あまりにも自分たちを無視して何か好きなことやってたというふうに寂しくならないようにしたいみたいな。
関根
なるほど。わけがわからん、っていうだけのものにはしたくないという。
上田
そうそう。それはもうしたくないというより、できないんですよ。癖です。常にそこにいる人たちに合わせた形のものを作るという習性ですね。ここにこの形の靴があるからあなたの足を頑張って入れてじゃなくて、足がその形だったら私はその形の靴になるよ、みたいな(笑)。私はそういう観客に合わせていく靴みたいな感じだと。
だから日本のお客さんを想定すると、私の作品を見に来てくださる層っていうのもイメージがついてしまう上に、自分にとっても、日本人がなにを面白いと思いなにが面白くないかもわかってしまう。宝塚で慣れているから。そうすると、これはできないなっていうことがたくさんあると思うんですよ。私の中ではやりたいし、やってもいいかもしれないのに、その人たちを前にするとやらないチョイスがある気がするっていうか。
それが海外の観客は、もっと自分にとって未知なものになる。もちろんそこでも受け手に合わせなきゃいけない、その人たちが受け入れて理解できるユニバーサルなものにはしなきゃいけないんだけど、日本で手に取るように気持ちがわかる日本の観客に向けてエンターテイメント要素やわかりやすさを重視っていう意識は、ちょっと変わるんじゃないかなっていう。
特にフランスなんかで言うと、アートも消費するような結構な数の一般層がいるわけですよ。良いか悪いかは別として、アート的な現代演劇に対しても、限られた批評家や学生の客層だけじゃなくて、どっちかと言えば白人でちょっと富裕層ではあるが、アート的なものを消費するもう一群がいる。そういう場所で作ったら、それに合わせた自分の形ってなにになるのかというのをまずやってみなきゃいけないと思う。うまくいくかは別として。日本だけでやってしまうと、可能性を自分で狭めるのかなって気がする。
それをやってみて、それじゃ日本ではやりませんじゃなくて、もちろん日本でも活動はしたい。自分の中にある、この社会に対して私はこんな感じがしているんですけど皆さんどうですか?って、日本の人たちにシェアして一緒に考えたいっていうのがすごくあって、日本でもやりたい。ただ日本でだけやってしまうと無意識に観客ファーストになりすぎて、いろんなチョイスを自分で無意識にカットしてしまうかもしれないっていう恐怖がある。
関根
確かに今回の作品で若干不満だったのは、あまりにもわかりやすすぎるというか、空間の構成も含めて調和的すぎるんじゃないかっていうのは若干ありましたね。批評をやってる人間は、わかるものよりもわからないもの、なんだこれはっていうものと出会いたいという欲で劇場に行くので。
確かにその上田さんの空間に来られるお客さんは、宝塚ファンとか、宝塚時代から上田さんを知ってらした方が多いのは今回3回通って感じたので、お話聞いてて納得したところではありますね。
上田
そう思われるのはよくわかるんですよね。ある芸術監督が観に来て言ったのが、「面白いんだけど、私は上田さんと似た思考回路があるから言っていることがわかりすぎるぐらい」と。とはいえ演劇ツウではない人たちにとって抽象度が高すぎるものにはしたくない、でも、実はそんな説明的じゃなくてもわかるのかもしれないのに、私がなにかを足しすぎてるところがあるんじゃないか、と思うこともありますね。
ただ今回は、宴会だから、飲んだり食べたりしてて見てなかったとか、途中トイレ行ってたということもあるという想定でやってたんですよ(笑)。そうなったときに、全部言ってくれてるからなんとなくわかったわ、ぐらいのほうがいいなっていう。アート的にすごく削って削ってあとは空想で、っていうことは目指してなかったかな。
関根
なるほど。2回目に行ったとき、私の隣にもう開演前から酔っ払ってるおじさんがいて、芝居の内容とかたぶんちゃんと観てはいなかったけど、最後はそれなりに拍手して帰って、それは面白かったですね。
上田
お酒を飲んでるときの見方って変わりますよね。演劇を飲んでる状態で見る機会ってあまりないですけど、家で映画とか飲みながら見るのだと感じ方がかなり変わって、理解力は落ちるんだけどまた別の感動があったりする。ちょっとそういう感じになってもいいなと思いながらやってましたね。
関根さんみたいなすごく若い世代に話を聞くっていうのは、めちゃくちゃ参考になって自分の考えの整理にもなる。自分自身の中で今回の作品がどうだったとか、成功か失敗かとか、手応えとか聞かれても全然わからないんですよね。だから今喋ってて、関根さんの目にはそうだったんだみたいなことがわかってよかった。
でもどうなんでしょう。この話では、殺し合って一人の人間という存在を超えて怪物になって孤独から解脱した、そういう話のオチをつけてありますが、実際に日々を生きる生活者たちが抱えている空虚さは別に解決していない。関根さんは、それに対して「こういうことってありますよね」だけ終わる作品では良くないと感じるということですか。作品として、もっと主張があるべきだったと思うということですか。
関根
そうですね…みんなそういう空気があるっていうことは実はわかってるんじゃないかと。明確に言語化できる人は少ないけれど、なんとなくみんな頭の片隅ではわかってて、でもそれがどうしてなんともならないのか、むしろどんどん悪いほうに転がっていっちゃうのかっていうところを、もっと踏み込んで問題にしてもよかったんじゃないかという気はしました。加速していく中で、自分の頭は冷静なはずなのにドンキでカゴにいらないものを入れちゃうような感覚とか、そこで働くシステム的なものの暴力性みたいなものが、もっと踏み込んで見られても面白かったんじゃないかなと思います。
上田
今回は宴会という形式もあって、そこを突き詰めきれてないけど、突き詰めてみたいテーマではありますね。
この社会で普通にサラリーマンやっているように見えた人が、なにかがすごく空っぽなのか、とんでもないことをやっちゃうことが本当にあるというのを私は結構見てきて、想像以上に深刻っていう感じがあって、そこが今回では描き切れてないなって思う。こんなにまで状況が悪くなっていってるのはなんなのかっていうのは、本当突き詰めたい。
でも、こうすることが解決ですよって結論を提案するのは演劇ではない。
単純に人とのリアルな交流や触れ合いって大事じゃないですか。それこそ宴会場にいて一緒に隣の人の熱を感じながら座ってるとか大事で、本当はそういうことなんじゃないかなって。それこそフランスにいたら思うときはありますね。彼らは良くも悪くもリアルに人と会って社交することで、冬とか寒くて暗くて鬱になりそうなところでも活力高めて頑張ってるみたいな(笑)。そのためにはSNSじゃだめでリアルに会ってみんなでパーティしなきゃみたいな。単純だけど、面倒くさがらずにリアルで人と喋るとか、一緒に音楽に合わせて揺れるだけでもいいんだけど、そういう身体を伴った交流ってものを取り戻さなきゃいけないんじゃないかというのは、演劇とは関係ないけど思うとこです。
関根
確かにフランス人すごい喋りますもんね。話が終わらない。
上田
日本人はおしゃべりなフランス人とは違って日本人のコミュニケーションがあっていいと思うんですけど、やっぱり他人となにかいい形でコミュニケーションできる社会にはなってほしいなと思いますよね。不文律とか多すぎるからしんどいんだと思うんですけど。
外国人たちも入ってくる日本になっていったときに、もう人と人が違っててわかり合えなくてもいいんだ、それでもとりあえず一緒になにかやろう、みたいな感じに寛容になっていったらいいですけどね。同調してないことに対して。
関根
そうですね。
最後に、ご自身で舞台に上がってみての感想はいかがでしょうか(笑)
今まで本当に舞台に立たれたっていう経験はなかったですか?
上田
いわゆる講演会とかはあるけど舞台はないです。今回も別に演者として演じたわけではないのであれですけど、最後のほうには、役を演じてる俳優に私がインタビュアーとして質問するみたいのあったじゃないですか。向こうはバリバリに役になっているけどこっちは演出家上田久美子として話しかける。でも普通のリアルなテンションではできないから、その演劇空間にあったようにやらなきゃいけなくて、難しいなと思いましたよね。相手がエネルギーダウンしないようにパスを出せなくて。「上田さんが駄目というわけじゃないけど、あのインタビューはやっぱりプロの人使ってくれたほうがもっと入り込めるのに」っていう観客の意見もあった。素人と大衆演劇の俳優と現代劇の俳優で混ざってる三つ巴が楽しいという感想は多かったけど。
私が素人としてその場に参加したほうがもちろん面白くて、私がめちゃくちゃうまい俳優みたいにインタビュアーを演じててもそれは変なんだけど、でも素人なりに自分の心のありようとか、インタビューするときの動機とか、どうであったらもっとこの場が上手く転がるんだろう、なにかあるはずだけどわからん、みたいな、なんかすごい超初心者でしたね。当たり前ですけど(笑)。だから今後はなるべく表に出ないようにしようと思った(笑)。
関根
そうなんですか。 確かに初日拝見したときは見てるこっちのほうがドキドキするという感じはあったんですけれども、最終日は全然変わっていてそれはそれでまたびっくりしました。いい意味でですよ。

上田
熱演系になってましたかね。
関根
いやいやそんなことはなく、むしろ作品の舞台上の温度差っていう意味でちょうどいいところ行っていたと思います。
上田
調整されていったっていう感じはありましたね。最後のほうの場面にかけて、演出家自身も虚構の中の人になっていくような流れができてきたかなっていう気はしますね。
今日、公演記録映像が届いて、それが初日の翌日ぐらいに撮った映像だったんです。ああ、もうだめだ、もう二度と私は出ないみたいな気持ちになりながら見てたんですけど(笑)、期間の最後のほうになるとそれよりはよかったということで、ちょっと自信を得たいと思います。
関根
よかったです。
上田
ドキュメンタリー演劇みたいな意味では、素人が出てるナマな感じが面白いみたいなこともあるじゃないですか。それはどうだったんですかね、私の場合。
関根
演出家を素人と言ってしまっていいのかっていうと…
上田
そうですね。演技の素人というだけですね。
関根
基本的にドキュメンタリー演劇でいう素人っていうのは、演劇の業界外のそれこそ何か実際に工事現場で働く…
上田
一般の人が出てくる。
関根
そうです。その場合が多いので、そこ難しいですよね。演出家として舞台に立つ人の演技をどう評価するかっていうのは。
上田
この人は演出家だけど舞台に立ったときすごいわ、みたいな人もいると思うんですよね。たとえば、それこそティアゴ・ロドリゲスとか自分で出てやるじゃないですか。彼はでも、俳優でもあるのかな。
関根
たぶんキャリアの出発は俳優だったんですよね。
上田
振付家だけどジェローム・ベルとかもMCみたいな感じで出ますよね。そういうありようということに関して言うと、今回私がわざわざ自分で出ていたっていうのはどうだったんだろうな。
今回は宴会というウェルメイドではないものをやろうとしてて、宴会の司会もプロじゃなく会社で今年幹事だからやるぐらいのノリでやってた部分もあるんですけど、演出家がわざわざ出ていくスタイルを本当にやるんだったら、もっといろいろ研究しなきゃいけないよなって思った(笑)。でも楽しくはやりましたね。いい経験ではあった。
関根
ただ、ふだんは演出家って客席の後ろのほうに座って、お客さんからは見えない存在ではあるわけですね。そういうところで演出家が舞台に出てきて、それを見られると不思議な安心感みたいなのは感じますよね。この人はちゃんと作品を引き受けてるんだなっていうのがわかったりするので、見えないままよりは見えたほうが面白いときのほうが個人的には多い気はします。
上田
生身でさらけ出すっていうのは怖くもあり面白くもあり。自分自身のふだん考えてることとか偏見とかがある程度如実に体を通してにじみ出ちゃう(笑)。日々の生きざまがある程度出ちゃうんだろうなと思いましたね。観客が見てて好ましく思うかどうか、私のありようによるんだろうなみたいな。今回わりと賛否両論な感想が多かったけど。だからこれからの自分自身の生き方とか誠実さ、そういう部分も考えていきたい、人生の修行としてやっていきたいなと思います。
商業演劇だったら、操り人形の人形師みたいな感じで後ろで操っているイメージで、自分の性格とか人柄と離れたとこで物語が進行するんですよ。でも宝塚を出ると、そういうところが変わってきてるなって思うし、自分に対する試金石にもなってて面白いなって思ってます。
今日はありがとうございました!
この先、関根さんのご予定はありますか。
関根
早稲田大学の演劇博物館というところで働いておりまして。そこで4月から始まる展示で企画の段階から手伝っているので、もし皆さま早稲田界隈へ来ることがありましたら、予約不要、入場無料、誰でもOKという博物館ですので、ぜひお越しいただければと思います。
上田
ありがとうございます。皆さまぜひ、早稲田の演劇博物館に行ってください。私もまだ行けてないので行きたいと思います!今日はありがとうございました。
関根
こちらこそありがとうございました。
上田
視聴者の皆様もありがとうございました。今後とも舞台作りを応援してください!
(対談終わり)
最後までお読みいただきありがとうございます。
下記に、メンバーシップの皆さんへの特典として、『寂しさにまつわる宴会』最終場面の台本を掲載します。
ここから先は
この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?