私の脚本術
どうやって台本を書いたのですか、と質問されることがあります。
私は宝塚歌劇で脚本家としての仕事をスタートしましたが、学校や大学で演劇について勉強したことはなく、宝塚に入ってから市販の「脚本の書き方」のような本を読みあさり、それを一つに集約して、自分なりの方法を習得しました。
よく質問を受けるので、今日はその方法についてお話ししてみます。これからエンタテイメントの創作を志す方の参考になると嬉しいです。
世の中に溢れているエンタテイメントの脚本は、二種類に分類できます。「物語の構造」が成立しているか、成立していないかです。名作と言われる作品は「物語の構造」がしっかり成立しています。
この構造というのは、建物の柱や梁のような骨組みです。家を建てるときは柱や梁をきちんと物理法則に従って組み立て、傾きのない正しい状態にしてから、その骨組みで美しいタイルや瓦や家具を支えます。脚本執筆では、柱や梁にあたる物語の構造をまずしっかり建ててから魅力的なセリフや風情のあるシチュエーションをそこに載せていくイメージです。
この物語の骨組みは、家の梁や礎石と同じように見えない場所にあるので、普段、私たちは表に見えている壁紙や家具や照明のデザイン、つまりセリフや場面の面白さに注意を惹かれて良し悪しを判断しようとしがちですが、根本的に重要なのは骨組みのほうなのです。構造のうまくいっていない作品は、ぐにゃりと傾いた柱に無理に梁をかけて骨組みが歪んでいて、そこにセリフという瓦やレンガを乗せていくけれどもそれらが壁や屋根の形にならないような住めない家です。
時には、物語はあくまでキャラクターや俳優を鑑賞する背景としてあるような、物語の成立を最初から重視しない作品づくりもあり、それはそれでいいのですが、実はそういった作品でも骨組みを修正すれば、倒れかけたテントの柱を支え直してしっかりテントを張るように、物語を面白く立て直すことができるのです。
でもどうやって?
必要なのは主人公に関する作業です。
主人公の内面の移り変わりを、あるフォーマットに従って整理し、整理した内容が観客に伝わるように場面とセリフを整理することです。
フォーマットとはごく大雑把に説明すると次のようなものです。
①主人公がどんな願望あるいは無意識下の問題やコンプレックスを抱えているか
②その願望・問題を解決しなければならなくなるような、主人公にとってきっかけとなる出来事は何か
③その出来事に対して主人公はどう行動するか
④行動の中で、主人公は願望・課題をより自覚し明確化する
⑤その結果、行動はどのように拡大し、主人公の願望・課題は達成されるか、あるいは破綻するか
なんだか盛り上がらなくて眠くなる…というような作品は、多くの場合、このフォーマットに当てはまっていなかったり、あるステップが欠けていたりするのです。
このフォーマットに当てはまっているだけで魅力的な作品になるかというと違っていて、セリフやキャラクターの面白さという肉付けが重要ですが、まずはこのようなフォーマットによる物語の骨組みがあって初めて、魅力的なセリフやキャラクターを支えていけるのです。きちんとした基礎工事がまずあった後に、その建物を魅力的な住みたい空間にするような、綺麗な壁やタイル、味のある家具などを設置してくことができます。
つまり、「物語の構造」はヒット作を書くための十分条件ではないですが必要条件で、まずはそこを満たすことによって面白い物語作りの第一ステップをクリアできます。
ただ、物語を作る時に、まずこの骨組みから作っていけばいいというわけではありません。
建築家も、アイデアが浮かびかけた途端いきなり地面に柱を打ち込んだりしませんよね。まず建物の外観や用途を頭の中で思い描いて、フリーハンドのスケッチのようなものを描き、そこから数学的な設計図にしていくはずです。
劇作でも、まずはなんとなく、浮かんできた主人公の姿や人間関係やエピソードのイメージがあり、そこから全体的な物語のイメージがふくらんでくるはずです。架空の主人公ではなく、史実に基づく人物の場合は、その人物の人生のどの部分を興味深く感じていて人生のどの時期を切り取りたいかを作者はまずイメージするはずです。
この最初のステップは、建物の見た目とか中に入った時の印象のイメージをスケッチとして頭の中で描いているような状態で、まだ設計図にあたるフォーマットは気にしなくていいです。部分的に思いついた面白いセリフを書きとめてみてもいいです。まだこの時には、屋根を支える柱がどこにあってどこに重心があるから倒れないとか、そういう設計図のことは作者も明確にわかっていません。
大まかに、主人公と、主要な他のキャラクター、思い浮かぶエピソード、できればおおよその結末のイメージぐらいまでを心の中でスケッチします。この時に、どんどんアイデアが連なって全体的な起承転結のストーリーがおもいうかび、自然とそれが先ほどのフォーマットに沿っているというような、幸運なひらめきで生まれる作品もあります。しかしそんな幸運は私にはしょっちゅうは訪れず、たいていはスケッチのようなラフな感じで物語の流れを最後まで一旦とりあえずで考えてみます。
このとき考える流れは、とりあえずのものでよくて、つまらなくても納得できなくてもいいです。次に、その叩き台を先ほどのフォーマットに当てはめて、物語の構造を検討します。
脚本を書く時にはこの構造チェックがとても重要です。書いてはみたけれどなんだか上手くいっていない崩壊気味の作品も、これさえやれば一定のプロフェッショナルなレベルに持っていけます。
世の中にある大半の「なんだか妙な感じの脚本」を、成立している脚本に直すのは、実はとても簡単なのです。
チェック項目のおさらいです。
①主人公がどんな願望あるいは無意識下の問題やコンプレックスを抱えているか
②その願望・問題を解決しなければならなくなるような、主人公にとってきっかけとなる出来事は何か
③その出来事に対して主人公はどう行動するか
④行動の中で、主人公は願望・課題をより自覚し明確化する
⑤その結果、行動はどのように拡大し、主人公の願望・課題は達成されるか、あるいは破綻するか
このチェック段階では、モヤモヤと頭に浮かんでいる物語の中で、主人公の秘めた問題・願望は何か、きっかけになる出来事はなにか、出来事にどうリアクションするか、どのようなエピソードで主人公が自身の秘めた問題を自覚し行動を発展させるか、その結果、物語は主人公の問題に対してどのような結末を与えるか、を書き出します。
この作業の中で、主人公の問題や願望と、起きる出来事があまり関連性がないと気付くこともあります。その時には出来事を変更するか、主人公の設定を変更します。
たとえば、ある革命を舞台にした物語を描こうとして、主人公をジャーナリストと設定したとします。この主人公が特に不自由なく中産階級で育った円満な人物という設定だと、革命という出来事と関連性が薄すぎます。そのまま進めると、主人公が革命を眺める傍観者になり、主人公の日記のような作品になって主人公のドラマがありません。
なので、報道者として民衆の味方でありたいけれどうっかり貴族と恋に落ちる設定とか、主人公も圧政下で身内を殺された過去があって革命を成功させたいと願っているとか、単純な例ではそういうふうにして主人公の背景や願望が作中の出来事に関係性があるように設定します。
あるいは主人公はジャーナリストだけれど何かをきっかけに情熱を失って日和見的に生きていて、それが革命に巻き込まれてしまい自分には関係ないと思うけれどそこで出会った人々をつい助けるうちに、その人の死んだような人生が救われ理想を取り戻すがその結果として行動を過激化させて死ぬ、というようなパターンもよくあります。
この場合、主人公の問題は外的な問題ではなくその人の内面の問題であり、起きる出来事は主人公の内面に影響しやすいものであれば革命でなくても難波事故でもなんでもいいのですが、真剣に向き合わなければならない出来事に巻き込まれることで主人公が人間性を回復させていくというように、出来事と主人公の問題に関連性をもたせます。
このフォーマットのチェックをすると、主人公の問題と物語の結末に関連性が薄い場合にも、事前に気付くことができます。
たとえば、主人公であるジャーナリストが民衆の敵である貴族令嬢と恋に落ちてしまったという問題=ジレンマがあるとして、その娘が死んで革命が成し遂げられる、という結末はOKです。あるいは、ジャーナリストが信念を捨てて娘を救って逃げようとするが処刑される、とかもOKです。ありがちな話でも、最初のジレンマに回答する結末になっているので間違いではないのです。
ところが、革命は成し遂げられて、かつ貴族令嬢もたまたま逃げることができて、主人公も幸せ、という三方よしのハッピーエンドという結末は、現実生活では中庸で望ましいですが物語では不正解です。ジャーナリストが信念と恋の間でどちらを選ぶかというジレンマの問題提起を最初にしたのだから、三方よしで終わってしまっては、最初の問題提起と結末が無関係ということになってしまいます。
もしあなたが史実を参考にした話を書いていて、実際の歴史上の結末がこの三方よしだったとしたら、結末を改変しましょう。史実のとおり書いては物語のていをなさないので、歴史家からはあなたが調査不足の無学者だと思われるとしても、物語としての正しさを優先して、あえて結末を改変するべきです。学術論文ではなくエンタテイメントなのですから。
こうして読むと、まさかそんな三方よしみたいな奇妙なオチの作品はないだろう、と思われるかもしれませんが、このパターンに陥ってしまい、終わってみれば結局なんのための2時間だったのかわからない脚本は存在します。
物語は、事実の羅列とか日記のようなものでは決してありません。それは整理された人工的なものなのです。
私が提示したフォーマットは、それが唯一の正解というわけでは全くありません。
ギリシャ悲劇では物語のフォーマットや主人公観は全く違っていますし、歌舞伎や文楽でも違いますし、私たちが親しんでいる映画や本を全く知らない異なる文化の人々に私のフォーマットの物語を見せても、何が面白いかわからないと言われるでしょう。
あくまで、近代以降のエンタテイメントの定石が私流のフォーマットであり、観客は文化に触れる中でそのフォーマットを学習していて、私たちと同じ文化で育った観客に楽しんでもらうにはこのフォーマットに沿うとすんなり受け入れられやすいということです。
今まで淘汰を経て残っているギリシャ悲劇や歌舞伎は、私の説明した定石とは違っていても、確実にしっかりした構造を持っています。長く残りうる物語は、なんらかの骨組み、構造をしっかり持っていることが条件なのです。だから、ギリシャ悲劇の「物語の構造」の骨組みはそのままにして、建物の装飾にあたるキャラクターやセリフは現代版に置き換えた物語を作っても成立します。
私が先ほど説明した私流の方法は、私たちの文化におけるエンタテイメントとして有効な骨組みの建て方の一つにすぎません。
と、ここまで書いてみましたが、フォーマットを説明するだけでは、具体例がなくてイメージが沸かないように感じました。
時を改めて、私がこれまで作品を書くにあたってどのようにしてこのフォーマットを応用したか、具体的な私の過去作品たちを例にとって、宝塚式脚本術を解説する機会を持ちたいと思います。
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※ここからは告知をさせていただきます。
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(ステージナタリー編集部さまに記事にしていただきました)
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新しいチャレンジに踏み切った背景について説明させていただいています。ぜひ御覧ください。