『寂しさにまつわる宴会』 プレ稽古を終えて
1月24日に初日を迎える私たちの公演、『寂しさにまつわる宴会』では、今年の4月と5月に、それぞれ滋賀(芸術準備室ハイセン)と、京都(KAIKA)にて、各1週間ずつのプレ稽古を実施しました。
上田久美子(演出、脚本)、竹中香子(俳優、創作コラボレーター)、三河家諒(俳優、創作コラボレーター)の三人で、同じ宿泊所に寝泊まりして稽古し、一緒に料理をしたり語り合ったりしながら、チームを作りました。
今回は、上田が全て脚本を書くのではなく、二つの役の関係性とストーリーの大筋だけを上田が設定して、具体的な役の設定や言動は、コラボレーターのそれぞれが考え提案して、三人で肉付けを行なっています。
三人で、作品に関連する色々なお題について個人的な体験や思考をブレインストーミング的にトークしていく中で、作品の中核になるテーマのイメージがうかびあがってきたり。
演出面でも、普段から演出も手がける三河家、竹中による提案を受けて、三人のコラボレーションによって新感覚のパフォーマンスが立ち上がってきました。
5月の京都でのプレ稽古最終日に、そこまでのクリエーションのプロセスについて、三人で振り返りました。その模様を公開します。
◯竹中香子について
一般社団法人ハイドロブラスト メンバー紹介
◯三河家諒について
旅芝居女優名鑑第1回 三河家諒「今、舞台で泣いている諒さんは心の中の私です」
プロセスの振り返り
上田久美子
私は台本を書かず曖昧な状態で稽古を始めるのは今までやったことがなかったから、それができたのが嬉しかったのがまずあります。
最初に、こういう筋とコンセプトですって数枚だけの概要をお二人に渡しました。このことで喧嘩してみてほしいとか、大まかな流れだけを言って即興でやってもらうことによって、諒さんの体、香子さんの体を通してしか出てこないことが見つかる。ステレオタイプにならない生々しい会話だったり。
あと宴会場でやるということも、最初ははっきり決まっていなくてスタートしましたよね。今回、滋賀の芸術準備室ハイセンでまず4月に1週間のクリエーションをして、そのあと蒲田温泉に私が下見に行って宴会場でやることが決まり、それから京都で5月に1週間稽古しました。
会場を実際に見たら思ってた以上に宴会場らしい宴会場で、お芝居に集約するというよりもお客さんとコミュニケートするものにしていった方がいいんだろうなと感じて、途中からその方向でクリエーションをしました。架空のキャラクターだけでお客さんとコミュニケートするのは難しいから、私という司会者みたいな存在が上田久美子としてお客さんに語りかけて、私がお客さんと架空の人物たちの間を仲介するという形式に、だんだん変化しました。これは、お2人と即興や話し合いをやってるうちに、二人からもアイデアをもらいながらだんだんそうなった。
今までだといつも頭の中で自分だけで考えて台本を書いて、さあこれをやりましょうって練習してたんだけど、今回の方法はもっと有機的で良かったです。
あと今回は、それぞれが違うジャンルの芝居をやってきた者同士で。普通、演劇って似た価値観とか演技観の者同士でやるのが確かに楽だったりまとまりも出やすいけど、それって同種の仲間でグループを作るっていうことで、下手したら内側と外側で分断してしまう気がして。本当は現代の演劇ってそういう分断をなくすためにやっているのではないかと思うので、こういう今まで違うやり方をしてきた人同士がやるっていうのは、大変なところもあったけど、それでもできたっていうことが、私はすごい意味があることだなって思ってます。
竹中香子
共存みたいな話がありましたが、作品をつくるにあたって、作品そのものをつくることだけではなくて、その作品ができるまでにどういう集団作りが必要か、他の人とどう一緒にやるかを考えることが重要というのが、今の20代の演劇人とかを見てると昔と本当に違うなっていうのを最近すごい思ってて。自分が20代の時は、演出家やってる人と、俳優やってる人っていうのがもう確実に分かれてた。俳優は俳優をやってて演出や劇作を兼ねてなくて。演出家と俳優との比較で、どっちがすごいかってなったときに、単純に分母の数が俳優のほうが多いから、やっぱり演出家とか劇作家の方が希少な存在で特別という感じが大学生のときとかにもあって。私が大学で習ったのは現代劇ですけど、自分たちが何かをやるためにはゼロイチで何かを作ってくれる作家や演出家がいないと、俳優たちだけでは何もできないみたいなそういうコンプレックスのもとに集まった集団が俳優たちだった。だから、演出家・劇作家が全ての正解を持っててその正解に向かって頑張る俳優たちっていう感じでずっとやってて。でも今回、みんながそれぞれ演出したり台本書ける人たちで、自分たちでも作品を作ってる人たちが集まった。
だから今回の作品に関しては上田さんの企画で、上田さんがリーダーみたいな感じでやってるんだけど、でもいい意味で、それを神格化しないみたいな現場だった。通常はもう演出家から出てくることなら何でも絶対っていう空気がある現場も多い中で、なんかそうじゃなかったっていうのはすごく大きかったですね。上田さんの態度として、自分が描きたい大衆演劇の世界があるんだけど圧倒的にその世界に関しては諒さんのほうが詳しいみたいな、もうそこでは負けてるみたいな、なんか企画者の上田さんの中にもそういう欠如してる部分があってそれを受け入れた上で、参加する俳優たちに、ここどうですかっていうのを開いているから、いろんなことを言いやすかったっていうのは一つあるなと。
三河家諒
私は逆にもう若いときからそれやってたというか、大衆演劇って、歌舞伎とかもそうですけどやっぱり演出家、脚本家、役者っていう序列じゃなくて。でも演出家なしで役者の間の口伝でやってるって言ったらなんか一瞬かっこよく聞こえるけど、勉強もしてない役者がただ口伝で肝心なところを抜かしてやってたりもするので、だからなんか、他からは、大衆演劇の人って芝居できないんでしょみたいに言われたりするし。だから役者が自由にやることにも、いいところもあれば悪いところもあって。私が商業演劇とか仕事で行かせてもらった時は、歌とかがない「演劇」っていう感じの演劇だと演出家さんが絶対という印象。ただ私は、100%演出家が思い描く通りには、役者は絶対できないと思うんですよ。なぜかって言うと、人間がやってることだから。100%演出家の頭の中のものを寸分たがわずやりなさいっていうなら、それこそAIを使った方がいいんじゃないって思うぐらい、そこは生身の人間がやってるものだから人により違うと思うんですよね。私らの世界では三位一体つったら、劇場、役者、お客さん、なんだけど、どれが一番偉いわけでもないと思ってます。
今回のプレ稽古で、私は、上田さんは、どこまで大衆演劇のベタなお芝居をもとめておられるのか、大衆演劇の世界を扱うけど普通のお芝居のやり方を求めて私に声をかけてくださったのか、どっちなんだろうというのを考え続けてました。
最初、仕事に声をかけてきてくださった時、まだ私の舞台を上田さんは見たことがないって言っておられて。だから、一度見ていただけますかって。演技云々じゃなくて、舞台で動いているのを見たらなんか人間像が大体わかると思うんで。芝居の上手下手よりも人同士のインスピレーションがどうなのかなと。私は人からはすごい自信家と思われて、あくびでもしながら芝居してんだろうとか言われるけど、滅相もない、自分に自信があんまりないから、何で私だったんだろうって正直ずっと不思議だったんですよ。こういうリサーチをして1からお芝居作るっていうのももちろん初めての経験でしたし、こういう組み立て方もあるんだなって、とてもじゃないけど大衆演劇ではこういう芝居は作れないなっていう。もちろんリサーチする時間もないし、こっちが勝手に観察して「こいつならこう言うだろうな」的な想像でしか作れないから、だからすごいなんか面白かったですね。こっからどう変化していくのかなっていうのも楽しみ。
上田久美子
私が皆さんの知らないことを書いて、そのコンセプトを役者に注入してやってもらうみたいな方法じゃないっていうのは今回すごく重要です。三者が拮抗することで相乗効果で作品が大きくなるっていう。私も成り行き上、出演することになったから、こういうふうにしたらってパフォーマンスのやり方を二人に教えてもらって面白かった。
一方で、私がもといた宝塚もですし大衆演劇とかでも中のヒエラルキーは強くて、年齢が上で大きい役やる方ってやっぱり権威があるというか、もとの世界にいると立場があるじゃないですか。諒さんも大衆演劇界ではそういう立場なのに、滋賀の滞在制作では皆のご飯を作ってくれたり対等にいていただいて、諒さんのいつも周りにいる方達が見たら、ちょっと待ってくれみたいな、諒姐さんに何させてるんだ!みたいな状況だったり。私たちはもともとの知り合いじゃなくて、今回の企画をやるとなって私がインターネットで検索して諒さんを見つけただけで、どういう方かわからずに、わからないけどやってみないとわからないからやってみようと声をかけたのが最初ですけど、なんかすごい受け止めてくださって、器が大きいなって感動しました。
芝居のジャンルが違う役者どおして芝居すること
三河家
大衆演劇の芝居に対する外からの評価みたいなものに対して、私の中にコンプレックスって根強くて、なんか悔しいというのか、外に向けても、きちんとしたことできますよって見せたいし、中(自分たちの同業者内)に向けても、「その程度のことできないと大勢演劇の役者って芝居できないんだとか言われちゃうよ」みたいな歯痒さがあって稽古に熱が入ったり。
だから、今回、大衆演劇ではない演劇を普段見ている人が、今回稽古を見に来てくれてどういう感想を持たれたのかなと。(プレ稽古の最後の二日間に、その稽古期間にできたものまとめた台本を持ちながらの通し稽古を行なって、知人や演劇関係者にテスト観劇してもらった)
セリフ回しとか雰囲気にしても、大衆演劇の人が大衆演劇の世界を表現するからこういうリアルな感じがいいということなのか。それとも上田さんが今回のこの芝居に関して、大衆演劇の匂いをもっと全面的に欲しいのか。私の中ではまだモヤモヤしていますね。
上田
私が諒さんにわざわざ大衆演劇の世界を演じてもらっているのは、あくまでリアルに諒さんが見てきて体感的に知っている人々の、話し方とか声の出し方を、演劇として少し拡張してやるため…どっちかというとリアルを求めていると思うんです。大衆演劇的に演じるというより。
竹中
私の印象では、現代演劇というものの中にすでに、大衆演劇と現代劇の距離ぐらいの違い、差があるんですよ。現代劇っていうものの中に例えば5人演出家の人がいたらその5人が指示する演技はみな違って、カリカチュアしてモノマネできるぐらい違ってる。
その現代劇の中でもプロデュース公演なんかで違う演出家たちのもとでやってきた俳優たちが集まるとマジで演技体違うみたいなマジで信じてることが違うみたいなことが本当に起きるから、今回の私と諒さんの間よりも、多分現代演劇の間での方がむしろそれが起きる気がする。私が単純に思うのは、受けてもらえるか受けてもらえないかっていうことだけな気がするんですよね。あの人めっちゃ演技上手いなっていうのはやっぱすごい受けるのがうまくって、その2人の間に何か起きてるみたいな。だからスタイルは関係ないと思うし、現代劇でも本当にみんな違う畑でやってきたんだなっていう公演めっちゃありますよね。演技質が違っても、その受けてる出してるが上手くいってると別に違和感なく見れちゃうみたいな感じですかね。
〈プロセスの振り返り終わり〉
この先は、1/6から本稽古を東京のスタジオで行い、本番にむけて形をつくっていきます。覚える量もたくさんあるので、時間との戦いでもあります。
演出部として大崎晃伸、舞台監督として河井朗(ルサンチカ)も加わり、チームワークを大切に稽古を進めていきたいです。
普段は劇場ではない日常的な空間を使いこなすこと、初めましての仲間で作ること、限られた稽古の時間で完成させること、いつもと違う観客に出会うこと、プロジェクト参加者それぞれに不安はあります。
でも、信頼関係を大切に着実に進んでいきます。
誰も見たことのない不思議な宴会で、皆さまをお待ちしております。
▼チケット残数少なくなっています▼