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安心、安全な場
対等であること、対話的であること
対話の場があるということ
勝った負けたじゃないんだよ(友人の言葉から…元気かな。使わせてもらうね。)
安心、安全な場はなぜ必要かというと、その場にホールドされるからこそ可能な内側の棚卸しができるからなんだと思う。さらにはそこで起きたことを通して、「自分の中に本当には既にある」安心安全なリソースに気づくためなんだと思う。
人は自分の物語からはなかなか抜けられないし、事実と解釈を正確にわけて観察するにはなかなかの鍛錬がいる。自然発生的に場の安全性が担保されるのを待つのではなく、でもだからこそ人工的に作る。
介入する。
何もしないを確保する。
ジャッジメントを包囲する。
誰もが潜って掴んでこれる、自分のままで生きていける、という体感を味わうために。でもその体感は、自分にしか自分に味あわせる事ができない。
自分にしか潜れない、自分の海に潜る。
それでそこさえ肚落ちすれば、あとはどんな時もくぐり抜けることができる気がする。
自分の中にある安心で安全な場に戻りさえすればいいから。
自分であることに寛ぐ。
自分の真ん中にいる。
そうやって、自分の人生を生きる。