噂話は身を滅ぼす?
世の中は掃いて捨てるほど真偽不明な噂話であふれています。
誰にも内緒の話。誰かから聞いた話。週刊誌で読んだ話。出所不明のフェイクニュース。
ありとあらゆる噂話と憶測は現実世界にもネットの世界にも無数に存在し次から次へと沸いては消えていく。
実際に日常生活やSNSにおいてわたしが今まで目や耳にした噂話もその正当性を考えた時にどう考えてもありえない話や逆にそれが本当なら噂話のレベルで終わるはずがないもの、完全にプライバシーの侵害に当たるものと様々ありました。
このように日々遭遇する様々な噂話が事実であるか否かを判断し、拡散するべきか否かを決定するのは個人のモラルやネットリテラシーに委ねられていると言えるでしょう。
人はなぜ噂話を信じてしまうのか
世の中に溢れる噂話はただの虚言であり時間と共に風化していくものが殆どです。
しかしその一方で、のちにただの噂話ではなくほんの少しの事実が含まれていた場合やその全てが事実であったという事があるのも事実です。
きっと過去のそういった経験が噂話をただの噂と受け流さずに信じてしまう理由の一つではないでしょうか?
極端にいえば噂話の99%がデマであっても残りの1%が事実であれば人々は相当数の噂話を信じてしまう。
ここに噂話の罪深さがあるように思います。
また、もう一つの側面として噂話の内容ではなくそれを伝え聞いた相手が誰であるか、どういった媒体であるかという部分も大きく影響するのではないでしょうか?
相手への信頼度や思想の一致、社会的背景や立場など。
そういった情報の発信源の特性やにおいても噂への信頼度は大きく変化していくと考えられます。
噂話と直観力
噂話を耳にした時、まずその信憑性について考える人が殆どでしょう。
耳にした噂話が信頼に値する情報なのか、伝聞の途中で本来の内容とはかけ離れたものなのか。あるいは全くの作話なのか、、、
それを判断する過程で大きな影響を与えるものの一つが直観力ではないかとわたしは考えています。
直観とは自分の経験知や知識によって判断する事を指していて感覚によって瞬時に判断する直感とは違う性質を持っています。
つまり噂話というエビデンスが不明瞭なものと直面した時に、自身の経験値や知識に頼って真偽の判断をする力こそが直観力であると言えるでしょう。
また、情報を処理する過程の意思決定にはヒューリスティック・システマティックモデルが用いられているという考え方があると言われています。
ヒューリスティック・システマティックモデルとはヒューリスティック型(情報をある手掛かりから簡単に処理する)とシステマティック型(情報を事細かく分析する)の2種類の方法から成る意思決定のモデルです。
どちらの方法を選ぶかその使い分ける基準は、対象が自分に関係あるかと対象は自分にとって重要かという部分です。
要は自分にとって重要なものはシステマティック型で情報を処理し、そうでないものはヒューリスティック型で処理していると言えるでしょう。
ただし前提としてどちらがいいとは一概には言い切れないという事も申し添えておきます。
なぜならどちらの方法を用いて情報を処理しても約8割ほどは同じ答えに辿り着くと言われているからです。
しかし逆説的に言うと、判断を誤ってしまう可能性が約2割も存在してしまうという事になります。
この約2割をたいした割合じゃないと捉えるか否かには個人差があると思いますが、わたしは看過できない割合であると考えています。
ではその2割を左右するものは一体なんなのか?
それこそが直観力というわけです。
とりわけ早い情報処理のプロセスにおいてでもより多くの経験値や知識を持ってさえいればその噂話が信じるに値するものなのかをある程度は瞬時に取捨選択でき、噂話の無駄な拡散を排除できるのではないかとわたしは考えています。
先入観と確証バイアス
ただ直観力が優れてさえいれば本当に噂話に惑わされることはないと言い切れるかというと必ずしもそうではありません。
ここが噂話の厄介な側面であると言えるでしょう。
直観力以外に意思決定に影響を及ぼすものそれは先入観と確証バイアス*1です。
何かあるに違いない、何か隠されているに違いないという先入観を持つことによって情報を正しく取捨選択できなくなってしまいます。
また、昔から「火のないところに煙は立たぬ」という言葉があるようにその噂がたつからにはきっとこういう事があるからに違いないと自分の中で仮説を立てそれを証明する情報のみを選び取ってしまう。
そういった先入観や確証バイアスを持って噂話に接すれば噂を否定できるほどの確かな根拠を自分が持ち合わせていない限り、さも事実がそこにあるような気持ちになってしまいます。
客観的にいくら見ようとしても先入観や確証バイアスは簡単に取り除くことができないのが現実です。
そしてこの先入観と確証バイアスを悪用すれば噂話によって誰かを貶める事ができるのも噂話の怖いところです。
自分自身も気づかないうちにその策略に乗せられている可能性は十分あると言えるでしょう。
噂話とSNS
近年、SNSの普及により様々な噂話は限定された狭いコミュニティにとどまることなく全世界へ大きく拡散されるようになりました。
またSNSの匿名性の高さからその責任を実際には追及されにくいのが現状なのをいい事に、明らかな意図を持った虚偽であっても実しやかに大きく拡散されてしまう。
また情報の鮮度を優先するあまり、思慮深く判断することをせず安易に情報を拡散する手助けを無意識にしてしまっている人も少なくないように感じます。
噂話の確信に迫る事をまるで推理ゲームを攻略するように確証バイアスに基づいて情報を集め噂話の裏付けを行う。
これは本当に深刻な問題であると感じています。
例えば先日話題になったとある著名人のニュース。
きっかけは抽象的な情報であったにもかかわらず、フォロワーの先入観と確証バイアスによってSNS上で虚偽の事実がさも事実であるように断定的に大きく拡散されました。
これは大変な問題であり、噂の対象となった著名人や会社が社会的に被る被害は想像以上に深刻で、法的手段に訴えるとすれば立派な刑事罰の対象となるでしょう。
自分が発信者ではないからと軽い気持ちで便乗し拡散した人たちは発信者同様に大きなリスクを知らぬ間に背負う結果になったわけです。
ではどうすれば良かったのかというと答えは簡単で、客観的証拠による確証が得られない噂話はネット上でも知人に対しても無闇に拡散しないということでしょう。
噂話と宝塚
今回この記事を書くきっかけの一つは、宝塚にまつわるあまりにも無責任な噂話がSNS上に蔓延していることへの危機感からでした。
宝塚の噂話はいまに始まった事ではありませんがSNSの普及により不特定多数の人を介在するようになった現在、一夜にして真偽不明の噂話がさも事実であるように大きく拡散される事も少なくありません。
とりわけ昨年の大きなニュースが起こってからはそれが更に加速しているように感じています。
一般的なゴシップよりも宝塚の噂話に信憑性を感じやすい背景の一つには関係者といわれる存在が無数に存在しより身近にいる確率が高いという点があるでしょう。
なぜなら関係者と一口に言っても劇団の中枢にいるような関係者もいればファンクラブのような末端の関係者もいる。
さらにはその関係者の関係者というように関係者と言えなくはない存在が芋づる式に無数に存在しうる環境にあるからです。
それゆえに関係者から聞いたと口火を切ればその情報源の信憑性を疑うことなく噂話が事実のように誤認されてしまう。
また本来ならば関係者から得た情報を気軽にSNS上で開示することは倫理的に好ましいものではありません。
更には情報漏洩といった民事責任や刑事罰の対象になり得る危険な行為であるはずなのに、それを問題視するどころか持て囃されている現状があります。
これは非常に残念なことです。
また悪質なものはわざと主語を濁し噂を流すことで受け手の先入観や確証バイアスに委ね情報の捏造を助長しているように感じるものもありました。
これは先に書いた著明人のデマと全く同じ手法で発信元の責任逃れという狡猾さが見えるとても悪質な行為のように思います。
なぜ噂話はなくならないのか
それにしても場合によっては刑事罰を科せられるかもしれない様なリスクを孕んでいるにも関わらず、なぜ人々は噂話を拡散する事を続けるのでしょうか?
噂話など日常生活を送る上で絶対に必要な情報なわけでもなければそれによって何か実りがあるわけでもないものです。
にもかかわらず人々はこぞって噂話を求め拡散し持論を展開する。
この事を心理学的に分析されていた方のコラムを読むとなるほどなという理由が見えてきました。
文末にて引用させて頂きますのでよろしければご一読ください。
コラムの内容をかいつまんで記すと噂話には目的と心理的な側面があり、コミュニケーションの一環として噂話をする中で心理的に誰かを貶めたい思いや自身の価値を高めたいという気持ち、自身の承認欲求を満たすために噂話をするというものでした。
これを読み噂話が絶えない理由が明確にわかった気がしました。
なぜかというとそういった類いの感情は大なり小なり誰もが持っているものであり、それを昇華させる簡単な手段として噂話を活用しているという結論に至ったからです。
実に解りやすい構図が見えたような気がしました。
これではどんな噂話もこの先一生なくなる事はないと断言できるのではないでしょうか?
噂話とうまく付き合う
噂話がなくならない以上わたし達はそれと上手く付き合っていくしかありません。
自分自身を守るため、また他の誰かを傷つけないために。
そのために何が必要なのか。
それを考えた時にわたしが行き着いた答えが前述した通り直観力を養い、先入観や確証バイアスをできる限り排除して思慮深くいるという事です。
言葉で書くのは簡単ですがいざ行動するとなるとすごく難しい事でもあります。
人間ですから感情に流されて事実を見誤る事もあるかもしれません。
しかし絶対にできない事ではないはずです。
要はネットの情報や真偽不明な噂話に触れた時、決して渦中に入り込み過ぎず一歩下がって物事を眺めればいいわけです。
そうすることで冷静に世の中に溢れる真偽不明な噂話とうまく付き合うことができるのではないかとわたしは考えています。
確証バイアス*1とは
認知心理学や社会心理学における用語で、仮説や信念を検証する際にそれを支持する情報ばかりを集め、反証する情報を無視または集めようとしない傾向のこと
【参考資料】
1)噂話の心理学~なぜ人はうわさ話をするのか~
https://www.counselingservice.jp/lecture/3271/
2)感情と情報処理法略
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/57397/1/eda047_380.pdf
3)バイアスと偏見、先入観、思い込みの違い
https://note.com/fujita_masahiro/n/n5458a7a78451