温泉の話1 長野県 湯俣温泉

命からがら湯俣の湯

湯股温泉は、長野県の大町市にある白濁の硫黄泉である。最寄りの駅はJR大糸線の信濃大町駅で、そこからタクシーで40分ほど走った高瀬ダムが湯股温泉の入り口だ。ここからは約12㎞の快適な散歩道をのんびりと歩いて湯股温泉を目指す。エメラルドグリーンの高瀬ダムを右手に見ながら歩いてゆくと、やがて高瀬ダムは高瀬川に変わり、対岸との距離もどんどん狭くなって、景色は広々としたダムの風景から厳しさをもったV字峡谷のそれに変わってゆく。春から夏にかけては、青々とした木々の葉や沢山の動植物が登山者を迎えてくれ、9月は地なめこや白シメジといったきのこが美味しく、10月は紅葉が美しい素晴らしい道だ。そんな道をテクテク歩くこと2時間半ほどでたどり着く湯股温泉は、現在「晴嵐荘」という山小屋1軒のみが営業をしている静かな温泉である。

その晴嵐荘の内湯は石造りでそれなりに風情があるのだが、湯股温泉の本当の醍醐味は河原を掘って入る自分だけの露天風呂である。「青みがかった河原を少しでも掘ればすぐにお湯が出てくるのでスコップで河原を掘り、上手く川の水を引き込んで露天風呂を作って入れば最高!」と秘湯探検の本には書いてある。しかし実際はそんなに簡単ではない。すぐに作れる場所もあるのだが、そこは登山道の対岸にあるので水の少ない時期でなければ危なすぎてとてもじゃないが渡ることができない。それでもそんな危険を乗り越えて、もし対岸に渡ることができたならば、間違いなく最高の露天風呂を満喫できる。両側に見上げる黄色い崖は数百メートルの高さで迫力満点。もうもうとあがる湯気の中、青い空と青い川の間で、最高の贅沢が味わえる筈である。そしてなによりポカポカに温まり、湯冷めしない泉質がいいのだ。湯から上がっても、1日中体がポカポカしていて、1週間滞在すると、家に帰っても3日間くらいは体が温まっているのが分かるほどである。

 私が初めて湯股を訪れたのはもう27年前。仕事を辞めては旅に出るといったことを繰り返していた23才の時だ。確か11月の終わりだったと思う。もう晴嵐荘はその年の営業を止めており、タクシーに乗るお金の無かった私は大町駅から延々歩いて夕刻に湯股にたどり着き、一人テントを張った。温泉を掘る気持ちの余裕はなく、私は硫黄の匂いの中ただ眠った。いや眠れなかった。沢山の登山家が命を落とした槍ヶ岳の北鎌尾根に初めて挑む前夜であった。硫黄の匂いが未だに忘れられない夜だ。「晴嵐荘」とはよく言ったもので、湯股までの散歩道は晴れの快適さ、しかし湯股から先の北鎌尾根はまさに嵐ような険しい道であった。尾根の取り付きで本当に嵐になった。11月の雨に体は冷え、さらに所々に散乱する北鎌にはじき返された人たちのリュックやヘルメットが死を連想させて、若かった私の心を削り取っていった。雪を抱いた槍ヶ岳の頂上が遥か遠く感じてならなかった。精神的にやられてしまった私は登頂を断念し、翌日命からがら湯股のテント場に戻ると、必死で河原を掘って冷え切った体を温めた。体が温まるとホッとしたのか、ものすごく眠くなって、泥のようにテントで眠った。

 それから私は何度も湯股を訪れ、露天風呂を掘り、山に登った。そしてその度に必死で掘った初めての露天風呂のことを思い出すのであった。

 2003年シーズンに住み込みで1シーズン晴嵐荘で働いたのも、今となっては良い思い出である。
最近行けていないので、今年は行きたいものである。

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