温泉の話 6 伊豆

静岡県 石部温泉 兵六地蔵露天風呂

地蔵様に見つめられながら、月夜の温泉に入る。温泉を見守るお地蔵様に、私は自分の悩みでも打ち明けたかったのだろうか?西伊豆の南、静岡県松崎町の石部温泉の近くに兵六地蔵露天風呂はある。海辺(海は見えないが)の静かな露天風呂で、地元の方のご好意により24時間無料で開放されていた。夏の日中は水着を着た若者が沢山入っていることもあるが、それ以外の季節の夜間はとても静かである。泉質はナトリウム泉ですこしヌメリがあり、お湯の温度はやや低めで、寒い日だと少しぬるく感じる日もある。そして兵六地蔵と呼ばれるお地蔵様が、静かに佇んで温泉を見つめている。そんな露天風呂である。

 人間誰しも悩むことはあり、後になってみればたいしたことではなくても、その時は物凄い悩みでどうしようもないようなことは、誰にでも一度や二度はあるのではないだろうか。私も何年か前、地方への転勤で凄く悩んだことがあった。転勤の日はすこしずつ近づいてくるのだが、自分自身の納得がつかないまま日々を過ごしていた。そんな折、転勤前の最後の休日を利用して兵六地蔵露天風呂に行ったのだった。仕事を深夜の1時頃に終えた私はそのまま車を飛ばして伊豆に向かった。明け方近くなってようやく石部に着き、ぬるい露天風呂に入ると、背中の真ん中にあった痛みがスーっと和らいでいくのが分かった。洗い場も何も無い、大きな石造りの露天風呂に静かにお湯が注がれていた。明け方のすがすがしい空気がほてった顔を優しくさわった。真っ暗だった空はすこしずつ青みを帯びて、プラネタリウムのスクリーンのように美しく色づいていた。私は静寂の中、ただ何も考えずに傍らのお地蔵様を見ながらお湯につかっていた。気持ちが少し楽になってゆくのが分かった。
 兵六地蔵に「ありがとうございました」とお礼を言い、車に戻った。空はだいぶ明るくなっていて、私は「海から登る日の出が見たい」と思い、車をほんの少し南へ走らせたところにある「烏帽子山」に登ることにした。烏帽子山は山というよりは、海に突き出た巨大な岩峰である。入り口の鳥居をくぐり、しばらく階段を登ってゆくと何一つ視界を遮るもののない岩の頂上に出る。真っ青な海に少しずつ明るい色がまじり、薄かった空の青が、どんどん濃くなって、空と海の間に綺麗な線ができる。線は地球の形どおりの曲線で、そのだいぶ手前を砂利運搬船のような大きな船が通っていた。私はそんな景色を一人で眺めながら、朝の風に吹かれていた。いくら綺麗な景色を見たところで、悩みが解決しないことは分かっていた。でも気持ちのよい温泉や、美しい景色というものは、少しだけ人間を前向きにさせる効果があるようで、「なるようになるか....な?」とひとりごとを言って深呼吸をした私の表情は、ここに来たときよりもきっと明るかった。
 すこし冷たい風に吹かれながら、「こたえは風の中にある」なんて昔の歌を口ずさみながら日の出を待った。やがて登ったオレンジ色の太陽はやたらにまぶしかったが、なんとなくその嫌味なくらいのまぶしさが嬉しかった。私は軽い足取りで石段を駆け下りて、道路に止めてあった車に乗り込んだ。兵六地蔵と烏帽子山に車の中から「サヨナラ」を言って、私はハンドルを握った。「頑張ろう」とつぶやいて。

■あとがき
兵六地蔵露天風呂はコロナの影響でここ3年は閉鎖されてしまっている。
お湯はわいているので、栓の抜けた湯船に、ただただお湯が注がれて流れている。
景色もお湯も綺麗な海も変わらないのに、人をとりまく状況だけが変わってゆく。来年はどんな世の中になって、自分は何をしているのだろう。
最近温泉の昔話を書くようになって、未来のことを考えるようになった。
頑張っていれば良い事あるかな( ´∀` )

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