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毎日連載する小説「青のかなた」 第70回

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「返して」

 光が手を伸ばすと、風花がそれを避けようとスケッチブックをより高く掲げる。光の手が中途半端に触れたせいで、スケッチブックが風花の手から抜けて、バサバサと音を立てて床に落ちた。中に挟まっていた画用紙が落ち葉のように部屋の床に散らばっていく。それを見た風花が、はっと息を呑むのがわかった。

「見ないで!」

 気がつくと叫んでいた。叫んでしまってから、風花や思南の表情を見て、慌てて口をつぐむ。

「……ごめんなさい。何でもないから」

 言い訳みたいなことを言って、床に膝をついた。そうして、散らばった画用紙をかき集めていく。画用紙に描かれているのは、この数日光が描き続けてきたキャラクターデザインの案だ。さまざまな衣装を着た女の子のイラスト。彼女の顔の部分だけが、黒の鉛筆でぐちゃぐちゃに塗りつぶされている。一枚残らず、すべて。
 これを見た風花はきっと思ったはずだ。「気持ち悪い」と。
 当然だと思った。これを描いた光自身が一番気持ちが悪いと感じているのだから。
 気持ち悪くてたまらない。このスケッチも、イラストレーターのくせにもう何年も人の顔が描けない自分自身も。今なら描けるかもしれないと思ったけれど、ダメだった。描けば描くほどキャラクターの笑顔が歪んで見えて、気持ちが悪くて、結局塗りつぶすしかなかった。
 とにかく恥ずかしくて、情けなかった。これ以上思南や風花の目に触れないように、床に散らばった紙を必死にかき集めようとするけれど、手が震えてうまくいかない。
 腹が立った。どうして、こんなときに。私の手は一体どこまで役立たずなんだろう。人の顔もろくに描けやしないくせに。

「光」

 画用紙をかき集める光の手に、誰かの手が重なった。顔を上げると思南がいた。光のすぐ目の前に膝をついて、やさしく微笑みかけている。

「光、大丈夫だよ。大丈夫」

 だいじょうぶ。ひとつひとつの音を光に届けようとするように丁寧に、思南は言った。
 一瞬、時間が止まったような感じがして、その直後――耳の奥で、何かが「ぷつん」と音を立てて切れるのがわかった。自分でも驚くくらいの勢いで涙が溢れてきた。息が苦しくなり、嗚咽が止められなくなる。

「ごめんなさい……ごめんなさい」

 自分でも何に謝っているのかわからなかった。思南に対してなのか、風花に対してなのか、人の顔が描けないことなのか。
 思南の腕が伸びてきて、そっと光を抱き寄せる。あたたかい腕だ。子どもをあやすように背中をとんとんしてくれる。

「大丈夫。大丈夫だからね」

 光の涙が止まるまで、思南はそうして抱きしめてくれた。

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