シン・エヴァンゲリオンという卒業式
ネタバレを含むので観ていない人の閲覧はご遠慮ください
公開から一週間が経過、そろそろ書き溜めたものを吐き出そうと思う。
少々長いが観てきた者としての感想をまとめてみた。
観てきた人の映画の補完につながれば幸いと思う。
観る前の心持ち
大前提としてシン・エヴァは100点満点を超えてきた。
1億点なんて頭の悪い点数をあげたいくらいだ
なにせ破からQのことがある。正直に言ってしまえば、自分の中の期待値は最底辺まで下がっていた。
なんの因果か、エヴァは最初期のTV放送からリアルタイム世代、それもハマってしまってエヴァなら何でも追いかけていた世代だ。
そんな自分はTVの最後の方で理解が及ばず、旧劇も当日映画館に行き打ちのめされ、当日Qを見てまた打ちのめされた。
頭ではQは序破急の急、起承転結の転でしかないとはわかっていたにしろ、それでもいつまでたっても上映されないシン。
気持ちはQでエヴァは終わったとさえ思い始めていた。
ちゃんとシン・エヴァが上映されると言われたときも、どこか真実とは思えずまた何かに付けて伸びるのだと思っていたほどに、疑念の塊と化していたのは否定できない。
だがそんな自分の疑念はよそに、現実にシン・エヴァは上映された。
既に固まりつつあったQの評価の先が見える。それは嬉しいと思うと同時に、過去の経験が自分を呪っていた。
破からQのことが頭を離れず、予告はすべて信じられない。
あのすべて投げ出してやけくそじみた内容にも見えたQからつなげてくるとは微塵も思えず、またスキップして別の物語を始めるつもりかとも予想した。
なぜならエヴァは青春の一幕を担った作品だ。それが眼の前で壊れていくのは忍びないし、2度裏切られたと思い込んでいたからだ。
余計なことをするなという気持ちすらあった。
だが同時に、エヴァコンテンツを追いかけてきたものとして見届けなくてはならないという責任感から映画館に赴いたのは自分だけじゃないはず。
心持ちはネタバレを食らうわけには行かないというだけの、あまり期待もしてない重いものだった。
傷つきたくないが、傷つくなら好きな相手からにしよう、というのは彼氏彼女の事情でも教えてもらったことだが、まさにそんな感じ。
ある意味諦めの境地からのスタート。
エヴァという作品が大好きだからこそ、怖かったのだ。
上映開始
物語の始まりはこれまでのあらすじからQのラストシーンに繋がり、ちゃんとQの終わりの続きから始まった。
この時点で、個人的に庵野監督の覚悟は受け取った。彼は逃げなかった。
だからシン・エヴァと真面目に向き合うときだと覚悟を決めた。
映画本編。本格的にネタバレします
結果は見事に、あのエヴァの評価を破壊しきったQからつなぎ、広げまくった大風呂敷を次々わかりやすく畳んていってとっちらかった人物関係とQで生まれた謎と登場人物たちの支離滅裂さを完全に整理し神業でエヴァという話に区切りをつけた。
しかもなんの冗談か、あの前衛的な語りで視聴者を突き放した旧劇の展開をなぞっているのに、今度はその旧劇をなぞっておきながら視聴者をのめり込ませて、理解しやすくまとめてきた。
分かるのに意味がわからない。何を見させられているんだ自分はと、旧劇を見ていた人ほど思うだろう。
旧劇同様の巨大なレイのようなもの。役に立たないエヴァの暴力。精神世界の語り口、口論。そっくりそのまま舞台装置をなぞる。
それがなんの因果か、旧劇ではシンジだった対象が、ゲンドウとなって、今度は成長したシンジから諭されるのだ。
しかもわかりやすく。親子の話し合いで決着がつく。
あれはものすごいものを見させられたと思う。
つまり往年のエヴァファンは知っているであろうあの作品、ゲーム、エヴァ2の魚釣りエンドと旧劇を混ぜ合わせて答えを出したのだ。
答えはすでにそこにあったということだ。
ご丁寧にシン・エヴァンゲリオンのなかでシンジは釣りを勧められる。
それはエヴァ2のエンディングへの暗示だと察しが付いたときは笑いが溢れてしまった。
しかも、ゲンドウはシンジに諭された結果願いを成し遂げる。ユイの隣で眠りにつく。
そしてシンジは成し遂げたことを見届けて、父にも母にも恨み言を言うことなく、役割を引き継いで旧劇同様に再び世界を作り直す。
あのサディスティックなまでの現実への憎悪の叫びだった旧劇が、フォーマットそのままに反転して愛と立ち直りと縁の物語に置き換わっていた。
シンジは大人になった。自分の意志でケリをつけた。
このとき、エヴァが一つ終わったと、成し遂げた瞬間を看取ることかできたという感情に浸り、知らず頬を涙が伝った。
旧劇で絶望し、Qであっけにとられてからの3度目の正直。
それを叩きつけられ、心に爽やかな風すら吹きながら、赤い目のまま映画館を後にした。
寂しさこそあれど満足だった。
Qの必要性、その効能。
シン・エヴァは、自分が望んでいたエンディングの一つの形として結実していた。
確かにマリの台頭という、ダークホース的なヒロイン登場だったが、懇切丁寧にアスカとレイとシンジの関係にケリをつけられたのだから外野の文句なんて介在する余地はない。
それと同時に、完全に制作陣の手のひらの上で踊らされていたとも思い知る。
起承転結の転でやはり評価を出せるわけがないのだ。結末まで見届けてやっとQの重要性が見えてきた。
Qがすべて裏目に出たことで、やっとシンジとその周囲は成長し、この着地点に到達できるのだ。
序からこれを考えていたのだと、宇多田ヒカルの歌が証拠として締めくくるもんだから文句のつけようがない。
間違いなく、エヴァは現代の神話だったし、芸術的な着地を見せた。
なにせ、まぁ、そうなるだろうな。と、すべての事象に納得がいくのだからすごい
あの考察しなければわからないと言われたエヴァが、考察を挟む前に起きた事象に納得できるのだから。
さながらエヴァンゲリオン作品たちの答え合わせを見ていたようだった。
こんなにスッと飲み込めたエヴァは他にない。
故に、成し遂げたのだと納得する他なかった。
劇中の人物たちの思いについて考える。
今回のエヴァについての考察はほぼないと言っていい。なので、登場人物たちの心の動向を追うことにした。
一つはっきりとしてるのは、この作品はエヴァンゲリオンという作品へのケジメをつけるという点に全力投球している。
そのため責任、精算、贖罪というワードが出るのは無理もないことだ。
これは庵野監督の覚悟と言い換えてもいい。
すべてのきっかけのゲンドウ
さて、今回のゲンドウはTVほどレイに妄執が無い。テレビと違い、リツコの母親やリツコを抱いたかも怪しい。
そもそもの話、TV版では六分儀ゲンドウであった彼は、婿養子ではなく、今回碇ゲンドウであった。
ではユイの方はというと綾波ユイであり、彼女が碇の姓をもらうことになる。
つまり、TV版のゲンドウはゼーレに所属し、世界を意のままに変えようとする野望があり、ユイもレイも利用する存在だったが、今回の新劇場版のゲンドウはそれとは違う目標で生きてきていたという因果関係が成り立つ。
碇ユイに六分儀ゲンドウが接触したのではなく、碇ゲンドウに綾波ユイが接触したのだ。
平たく言ってしまうならTV版のゲンドウと新劇場版のゲンドウは動機が異なる。TV版の彼はリツコの母親にもリツコ本人にも手を出していた描写があり、恋多き男だったが、新劇場版でのゲンドウは愛していたのはユイだけだ。
旧劇場版と違い、リツコが躊躇いもなくゲンドウを撃ったあたりも、二人の間には何もなかったように思う。
そしてゲンドウがユイ一筋だったが故にテーマソングの歌詞が響いてくる。
シンジとの類似性は確かに以前から指摘されていたが、さらにゲンドウはシンジと重なる点が内面でも多いことが示された形となった。
旧劇場版を振り返る形で始まる独白は、シンジではなくてゲンドウのものになった。
何を考えていたかわからないゲンドウが、ついにその口から自分のことを語ることになった。
それはすべてを始めたものがとった責任と言っていい。
エヴァファンたちが長い時間をかけて徹頭徹尾分析されたシンジとゲンドウの関係性への回答とも言える。
なので、驚きこそそこまではないが、答案に書き込んだこうではないか、という考察に、丸がついた安堵感がエヴァファンにはもたらされたろう。
彼はその朱に交われど黒のままである性質から孤独な人生を歩まざるを得なかったし、そこに現れたユイは欠けた人間性を補ってくれるものだったのだろう。
碇ゲンドウのバックボーンに悲壮さは特にない、誰かに拒まれていたわけでもなければ、壁を作っていたのはゲンドウ自身だ。しかし不幸は自分の中から生まれる。
他人からの視点で言えば、その程度のことで?と思うようなものでもゲンドウにとっては大問題だったに違いない。
ユイを失った。端的にいえばゲンドウから欠けたものはそれだけだ。
だがこれがゲンドウにしてみれば世界が終わったと同義だった。
ゲンドウは言ってしまえば潔癖症の塊だった。一つのユイという自分と噛み合ってくれた歯車がない世界にはもう価値を見いだせなかった。
息子のシンジは彼にとっては重荷だった。親になれる自信もなく、二人で歩むはずだった未来はもうない。なら一人で抱えられる荷物ではない。
世界と一人の人間を天秤にかけたとき、彼は不幸を取り除くためにシンプルながら力があるならやるだろうなという妙な説得力を感じた。
一つ気になるのは、これはゼーレが見通していたことだったのだろうか?
あえてゲンドウはその道に沿ったのかは言及がなかった。
いや、それに関してはどちらに転んでも同じことなのかもしれない。
彼はゼーレを利用したに過ぎない。
ゲンドウの目的はゼーレとは関係のないところにあったのだ。
式波と惣流、二人のアスカ・ラングレー
アスカについてはケンスケとの関係に頭を打たれたような驚きを持ったが、同時に劇中のケンスケの成長っぷりを見ると納得がいくし、そんなアスカへのフォローも劇中では良くできていたと思う。
しかもこれはおそらく前々から予定されていたことなのだろう。
アスカはそもそもTVアニメのアスカとは別人だったというのがことのほか重要だ。
比べてみればわかることだが、生き方が惣流と式波では全く違うのだ。
式波のアスカは一人で生きることに諦めのような境地であるのに対し、惣流のアスカは親を失った喪失感を埋めるため依存先を求めている。
精神面で式波は鋼のように強く、惣流は年相応に脆かった。
最初から強かった式波アスカはどうしても依存先をシンジに見出すことができなかった。シンジにとってもこのアスカは手に余る。
シンジの自己肯定感の低さもあり、新劇場版では式波アスカの方が常に精神的立場が上だった。
テレビシリーズと違い、式波アスカは明確に打ちのめされることもなく、エヴァパイロットとしてのシンジの才能に負けを認めることもなかった。
3号機に飲まれたことで限界の精神状態でゼルエルと対峙することもなく、新劇場版において、式波アスカに敗北は徹頭徹尾なかった。
だからこそ式波アスカは最後まで戦うことができたし、惣流アスカはだからこそ自分の弱さをシンジに預けることができた。
なんだかんだとTV版のシンジはエヴァの弐号機パイロットという立場のアスカにとっては唯一自分を救ってくれる男子であった。
が、新劇場版はアスカの中では真面目に惚れる男足り得ない男子にだいぶ格が下がっている。
新劇場版のシンジは式波アスカにとって助けてくれない男子なのだ。これは3号機に取り込まれたことで決定的なものとなった。
そもそもの話としてテレビシリーズは惣流の方のアスカとシンジ、二人の絆を深めるイベントが多かったことに対し、新劇場版はそれが殆どない。
ガギエル戦も無ければシンクロキックもなく、二人の間に芽生えた感情を強くするイベントがほぼほぼないまま新劇場は進んできた。
ガギエル戦は原画を紛失したためというが、なら他の使徒戦までカットするものだろうか。
あれで恋愛感情芽生えるか?と思ってたのであの辺りのイベントカットは意図されたことだったのだろう。
つまり最初から新劇場版にアスカルートはなかったのだ。
式波アスカという存在。
加持への執着のなさ、一人でいることへの決意の硬さもあって、式波アスカを惣流アスカと同一視するには違和感があったが、綾波と同じクローン、つまり別人とわかってひどく納得した。
そして親を知らないという点でも、新劇場版の弐号機には魂が宿っていないと確信が持てた。あれならマリでも動かせるはずだ。
メタなことを言えば、弐号機のデザインが変化していた時点で気がつくべきだった。
シンジや加持さんとの関係の掘り下げは尺の問題でカットされたわけではない。
式波は「負けない女」としてそもそもデザインされていたのだ。
好意をプログラミングされているという話からしても今回のアスカにとってはシンジは初恋であっても過去の人であり、自覚的にこの初恋を終わらせたように思う。この点からも彼女の意地が見える。
そんな彼女はそもそも褒められる必要性がなかった。
彼女に求められていたのは戦う道具としての式波アスカであり、それを支えたのは反骨心と闘争心だ。
そこには周囲に迎合しないという強い意志があったし、周囲と同調するものか、思い通りになるものかという意地があった。
だがそんな生き方にも疑問があった。一人きりでいいのだろうかという疑問。それが人形を使った自問だ。
自分が正確には人間ではないという自覚が彼女にはあった。だからこそ、実は認めてほしいという心理が奥底にはあったように思う。
その感情は惣流ほど強烈ではなく、式波のほうのアスカは煮えたぎるマグマのように心理の底でくすぶっていた。
惣流アスカは、一人ではなく周囲から、それも究極的には母に誇れるほどに認めてもらうことが救いだったのに対し、式波アスカはたった一人に認められればそれで良かった。
それが頭をなでてほしかったということだろう。
それをやったのはケンスケだ。成長したケンスケだけが、彼女の救いになり得たのだ。
式波アスカが救われるには時間が必要だった。それは凍結されたシンジ、自責の念に押しつぶされそうなシンジには叶わないことだっただろう。
それでも、先に大人になってしまったという彼女の後ろ姿は寂しそうだった。
同じように時を重ねられたらシンジとケンスケはまた立場が違っていたのだろう。
赤いプラグスーツのアスカ
じゃあ浜辺のアスカは?
先にアスカは離脱していた。ケンスケのところに戻っているはずである。
式波アスカのプラグスーツは白く、こちらは赤いプラグスーツだった。
ならあのアスカは、旧劇アスカ、つまりオリジナルではないか?
そしてあのアスカは成長していたように見える。
TV版と新劇場版のシンジを同一視していいものかはわからないが、精神的に安定して復活したシンジが改めて、アスカにアンサーを返すというのは、こちらもまた時間の必要な出来事だったように思う。
裏宇宙は多元宇宙がつながっててもおかしくはないと思うしそう思ったほうが旧劇だって救われる。
旧友たち
ケンスケに関しては、ニアサードインパクトが彼を変えたという。
サバイバル知識が人々の役に立ったことで彼は居場所を見つけることができたのだろう。
なんの因果か加持さんらしくなってて、自分で立ち直ることが大事っていう優しさを知っていた。
トウジもまた生きていた。あのQでのシャツで死を暗示させたが、早とちりだったと気付かされる。
委員長と結婚していたのも予想通りといえる。
ただ、遅すぎた。
すでにシンジのほうが自分を許せない状態になっていた。
トウジは目一杯シンジをフォローしたが、その状況下を知れば知るほど、シンジは自責で押しつぶされそうになっていった。
事実、彼は蚊帳の外から入っていくことはできなかった。ゲンドウにも近い境遇だ。
壁を作っていたのはシンジの側だった。
トウジの家族は優しかったが、それだけではシンジは癒えなかっただろう。
やはりケンスケがもっとも大人になれた人物かもしれない思う。
突き放す大事さ、見守る優しさもあった。物憂げなシンジに対する最大の理解者だったように思う。
シンジはそもそも放っておいてほしかった。
ケンスケはそれを見抜いたし、放っておくことこそが、他人の自主性を認める最大の優しさにもなると知っていた。
それはアスカにしたことでもある。その人を信じているから、過保護にせず、自主性に任せ、放っておくのだ。
なにせ釣りを頼んだあたりでやってみることの大事さ、自立への促しを伝える。
ある意味で恋敵に対するこの余裕は、大人の証とも見れた。
トウジと委員長に関してはむしろシンジよりもレイのそっくりさんをまるで妹のようにケアしていく。
委員長がレイに一つづつ言葉の意味を教え、生きるということを教えていったことで、巡り巡ってシンジはどん底からの復活を見せる。
遠回しではあったがトウジ夫妻もまた欠かせないキーであった。
そっくりさん
そっくりさんの方のレイは、これはQの彼女のあり方がなくては語れないものになっている。
そっくりさんの方のレイは無垢だった。それも残酷なまでの無垢さであり、それがシンジの孤立化への拍車をかけていた。
彼女に自覚はない、もちろん悪意もない、が責任も完全にないとは言い切れないグレーな部分だ。
助けを求めていたシンジ、それに無関心でい続けたそっくりさんのレイ。
それが綾波と瓜二つなのだからQでのシンジの処遇は残酷だ。
そっくりさんにその気はなくとも、シンジは綾波に拒否されたと思いこんでいく。
とにかくQでは徹底してシンジは希望が無い状況に追い込まれていた。
そこに現れたカヲルは保護者を欲したシンジにとっての救いだったが、そんな彼が目の前で爆死したのだからQはやはり最初から徹底してシンジを痛めつける話だったと見ることができる。
そして、このそっくりさんはシン・エヴァにて人と積極的にふれあい、シンジとは逆に無から成長して自我を宿し、シンジ復活への起爆剤となる。
その無垢さ故に傷つけ、その無垢さ故に、Qで関わってくれたシンジへの愛情に自覚的になる。
アスカからのプログラムされた好意と言われようとも、それは自分のものとして受け入れ、伝えに行った。
成長したレイは、シンジへの好意を伝える。
言葉の大事さを知った彼女はシンジを立ち直らせる。そのうえで彼女は消える。
冬月曰く、ゲンドウはユイの消失をシンジにも味合わせるという点であえて泳がしていたらしい。
これは贖罪か、それとも生贄か。
恐らくどちらでもあるだろうが、消えるときの彼女の顔は清々しくもあった。
ここがユイを看取れなかったゲンドウとシンジの大きな違いとなったように思う。
それは成し遂げたのもの顔でもあったからこそ、シンジは彼女に倣おうとしたのかもしれない。
このそっくりさんは言葉と気持ちを伝えるという大事さをシンジに植え付けた。だからシンジはゲンドウに立ち向かう武器を手に入れたのだ。
彼女が幸福だったか?それはこのそっくりさんのレイにしかわからないことだろう。
そして個人的にとても気になる言葉を残している。
さようならはまた会うためのおまじないだと。
マリというダークホース
シンジは世界を作り直すことで世界と一緒に消えようとした。故に綾波に対しても他の道を諭したと思われる。
綾波がどこにいたのかも察しがついていた様子だった。
あのときシンジは自殺するつもりだった。それが責任のとり方だと思っていたフシがある。
これはそっくりさんが消えたことに起因すると思う。
どんどん自分にまつわる縁を畳んでいく様はまるで死ぬ間際の遺言にも見えた。
そして最後、身辺整理が終わったその時、シンジの元にマリが来た
マリは破の頃から常に空から降ってきた、それは天使の暗示だろう。シンジにとっては救いの手だ。
マリはこの作品においては常にヒーローである。
テレビ版での絶望を振りまいたゼルエルに対してアスカの代わりとして出たことで誰も精神的に敗北することはなかったのだからその時点からもう彼女の役割は決まっていたのだろう。
その後も、常にピンチに駆けつけて、なんだかんだと物事を片付けて生還した。
エヴァンゲリオンの元ネタの一つにウルトラマンがあると言われているが、彼女はまさにそのウルトラマン本人としての役目を担った。
彼女が要所要所で踏ん張ったからこそ、人類は敗北しなかったのだから。
イスカリオテのマリア
イスカリオテといえば真っ先に思い浮かぶのはユダである。
そんなユダは近年、実はキリストに最も近かった人物だったと言われている。
キリストへのアンチテーゼであり、神への反逆者としての役割が見て取れる。
少し彼女の漫画版の説明をすると、冬月の学生で、16歳にして大学に進学した天才。そして、それでもユイには勝てなかったが、次第に彼女に惹かれていった少女であった。
つまり、ユイやゲンドウと同期であり、仲間でもあった。
神とはすなわちゲンドウであり、その側にいながらシンジたちの立ち位置に加わったのはまさしくユダの役割だ。
そしてもう一つ、彼女はマリアと呼ばれた。
マリアは二人いるとされている。
キリストの母としてのマリア、そしてキリストの妻に居たと言われるマグダラのマリアだ。
神となったのがゲンドウであるなら、ここで言うキリストはシンジにあたると見ることができる。
ということは、ユイはキリストの母のマリアに置き換えられるので、こちらはマグダラのマリアということになるだろうから、あのマリエンドは意図されていたということになる。
だからといって彼らはいきなり恋人の関係になれるのか?というのはごもっとも。
実際、シン・エヴァのヴンダーの中で初めて二人は自己紹介をする。
そんな状態からのエンディングの二人は唐突にも思えるが、だからこそシンジとマリの関係はこれからの二人に見える。
あれをいきなり恋人になったと見るのはちょっと短絡的すぎると思っている。
しかし、浜辺で水をまとうマリを見るシンジはどう見てもシンジの一目惚れのシーンだ。
だからこの二人はシン・エヴァの中では関係にケリがつかない。ここからはじまる二人なのだろう。
あのエンディングは二人にとって終着点ではなくスタート地点なのだ。
メタファーとしてのマリ
マリをメタな視点から見ると監督の自伝的な話のエヴァに対する肯定的な反論であり、否定的な自分の主観に対する第三視野としてのイマジナリーフレンドに近いかもしれないと考えられる。
こんなものは駄作だと破り捨てる作家に対して、面白いじゃんといってくれる読者にも似ている。
ふさぎ込んでいる自分を鼓舞してくれる存在として、マリは居る。
もしくは自己肯定感の低い庵野監督に対してのモヨコ夫人のメタファーにも思える。
マリの目的
そんな彼女にはまだまだ謎が多い。
なにせ彼女は漫画でしか過去の話を明かしていない。新劇場版と漫画のつながりも不明だ。
実はエヴァの開発者の一人なのでエヴァに乗れるバックドアがあるとも巷では言われている。
新劇場版の弐号機には魂が入っていないのはアスカのところで書いたとおり。
さて、そんな謎だらけの彼女に対する最大の謎は、動機とモチベーションだ。
漫画と同じ過去があったとしても、なぜシンジを助けに来たのか。
そもそも漫画の中ではすでにマリは16歳であるという点からすると、エヴァに乗れる14歳のリミットを過ぎていたりするので、エヴァの呪縛だけでは彼女の生い立ちや謎は片付けられない。
ということはやはり彼女もまたクローンなのかという疑問もあるが、その割には記憶はしっかり持っているようだ。
彼女の過去と繋がっているのはゲンドウと冬月とユイの3人だけなのだが、皆消えてしまったため推測しかできない。
だが、漫画の中では彼女はユイが好きだった。
おそらく、尊敬の念か、友人としての感情よりも強く。そして彼女とゲンドウとの仲を応援していた。
となると、二人の愛の結晶であるシンジへは、やはり他人とは思えない感情はあっただろう。
そんなユイの忘れ形見がシンジだ。
だからこそ、そんな彼を救うことが、彼女の本当の目的だったのかもしれない。
あの時点ではマリにはシンジへの恋心は「まだ」無いであろう。が、シンジの中にユイとゲンドウの面影を見ているのかもしれないとも思える。
特に、シンジはどちらかというと母親似だと言われている。
彼氏彼女の事情のアニメ化を手掛けた庵野監督の頭の中のデータベースにはそういう、かけがえのない親友が異性の子孫を残したら、その子には絶対惹かれるだろうという事象も組み込まれているだろうと予想する。
このあたりの構造は彼氏彼女の事情の最終話にも似たものを見る。
シンジとマリの関係をあの時点で恋人と位置づけるのは軽率だと感じるのはこういったところがあるからだ。
だが、二人が結ばれる可能性としては低くはない。
そして再生された世界で、マリは成長したシンジのチョーカーを外す。
エヴァの呪縛から解かれ、成長したシンジと、同じく成長したマリ。
それだけの時間をかけて世界を作り直したとしたら、我々には認知できない行間に二人の絆を深める時間があったのかもしれない。
その場面も見てみたいものだがはてさて明かされる日は来るのか。
母としてのミサト
ミサトさんについてはもう精算しただろう。
破でシンジを行かせてしまった責任、それから加持さんを亡くした事への悔から、乗るなという言葉が出たのは劇中で言ってたとおり。
息子に父親の名前をつけるのは、隠しきれない執着と後悔であり痛ましさしかなく、シンジを凶弾からかばったときには彼女の決意と贖罪は果たされたと見ていい。
彼女の過ちは言葉の足りなさだった。
加持に続いてシンジまでも失いたくない、しかしもう、人類を半壊させたシンジとヴィレの総司令官という立場上、素直に言える立場にもない、そんな板挟みがQでの態度となって現れた。
それをQでの、14歳のままだったシンジが受け入れられるはずもない。
あのとき、時間をかけて言葉を交わせたら誤解は生まれなかっただろう。そしてそれは今回のシン・エヴァでやっと叶うことになる。
そして最終局面、最も大事な役目を彼女は負い、シンジへ新しい槍を届ける。
最期につぶやいたリョウジへの言葉が、加持さんとミサトさんの愛憎すべてが詰まってたように思える。
ミサトはTV版においても、あのネルフの癖のある面々の中では比較的まともな大人の役目を買って出た。
彼女はTVの頃から家族が欲しかったのだと強く思わせる女性だった。
思えば彼女は父を亡くし、恋人を亡くし、Qからは職務のために最愛の息子までも距離をおいた。
彼女には封印から開放された直後のシンジが、距離をおいた息子と重なって見えたのは想像に難くない。
シンジを受け持つというのも、ペンペンを飼っているという点でも、強い家族へのあこがれがあったはずだ。
そんな彼女が、責務と意地のために息子を捨てなければならなかったのは皮肉としてとても強烈だ。重すぎる罰にも思える。
シンジと息子が会っていた。そのうえで彼らの仲は悪くはなさそうだったという下りや、息子はしっかりやっているという報告は、彼女をどのような胸中にさせただろう。
だからこそ、最後に槍を届ける彼女はこの映画の中で最も強い。
それは旧劇場版では成せなかった、シンジを助ける、加持の意思を継ぐ、息子の世界を救うという全ての願いを貫く槍を届ける役目だからだ。
彼女についてはシンを見れば全てわかるがその分、辛い人生も伝わってきてたまらないものがある。
TV版、旧劇場版、新劇場版の碇シンジ
さて、主人公の内面の考察だ。
彼を取り巻く事象は実はTV版と大して変わらないものになっている。
強いて言うなら駆け足だったがために周囲との絆を深める出来事が少ない
そして、周囲との絆を深めなかったことがシン・エヴァでの選択につながってくることになる。
序での流れはTV版と変わることなく、破でもトウジがアスカに変わった位で大事な友人を傷つけたことに代わりはない。
むしろこれは、アスカが一旦表舞台からほぼ精神的にダメージを負うことなく退場するという大事なイベントであって、シンジにとってのなにかの引き金となったわけではない。
Qで一変したように思うが、カヲルの死を引き起こしたことで唯一の理解者を失ったという点ではTV版をなぞる。
一点違いがあるとすれば、カヲルの命を奪ったのはチョーカーの効果であり、シンジへの心の傷という意味ではTV版のほうが遥かにきつく残酷さで言えばTV版の方が根深い。
そして、ここからが大きな違いとなっていく。
TV版のシンジはそこから直にゼーレの襲撃に合い、ミサトを犠牲に、アスカを助けられなかった。
しかも精神世界では溜まりに溜まった愛憎を抱えた暴力的なまでのアスカからの激情に、ズタボロだったシンジは更に追い詰められていく。
その結果が浜辺での出来事。
他人と、アスカと居たいはずなのに、その実、傷つけ合うことしかできないことに絶望を抱え、涙を流しながら首を締めようとするが、それもできず嗚咽を漏らすのだ。
めちゃくちゃに清濁混ざりあったシンジにはもう自分をどうすることもできず、そんなシンジを見てアスカは気持ち悪いと、落胆とも取れる言葉を吐く、というのが旧劇場版のあらすじだ。
お互いを気にはしつつもヤマアラシのジレンマによって誰も救われない。
TV版から旧劇場版はシンジやアスカが立ち直るのに圧倒的に時間が足りないスケジュールと、仲間の死で展開されるのに対し、新劇場版はそこに立ち直る時間と、死んだと思っていた仲間がいた。
特に旧友とレイの助けは大きく、ミサトさんにも子供ができていたなどの情報をシンジは受け入れる時間があった。
時間が足りないTV版と、時間をかけられた新劇場版では、当然シンジの心持ちも変わってくる。
ケンスケの手伝いをし始めたこと、ミサトさんの息子の加持リョウジという同世代の新しい友の存在はシンジを大人にした。
このシンジでなくてはこの物語は畳むことができない。ゲンドウと真正面から立ち会えない。
少年は大人になり、エヴァに、環境に、両親に物事を頼ることをやめた。やる前から諦めず、やってみることを選ぶようになった。
最後の最後、マリの手を取り、階段を駆け上がるシンジの背中は少年ではなく、広い大人のものだった。
旧劇とのシンジの対比として旧劇エヴァでのシンジとアスカは、確かに好きあっていたようだが、アスカの肥大するシンジへの期待と自己肯定感を失ったシンジは反比例するように愛と憎しみを募らせ、アスカは思い通りにならないシンジに業を煮やし、シンジはそんなアスカを恐怖するようになる。
シン・エヴァにおいては、シンジはアスカにもレイにも恋愛感情を抱くほどのイベントは特に無く、一定の距離を保っていたように見える。アスカと関わったのはお弁当、そして短いながらのミサトとの同居くらいだ。
だからこそ、こちらのシンジは後ろ髪引かれるものがほぼ存在しない。
すべてに決着をつけて、ケンスケとアスカを応援し、レイには別の生き方を示した。
こうして自分を紐付ける縁の無い世界と決別しようとした。
新劇場のシンジは、レイのそっくりさんを失ったことをきっかけに、俯瞰から世界を眺め始める。
そっくりさんの死に悲しんでいないわけはない。
だが、泣くだけではだめだ。
自分を動かし、自分で決着をつけなくてはこの悲しみの連鎖も終わらないと思い至ったのだろう。
すべてを精算したシンジにはもう何も残ってなかったはずだ。
そこに割り込んできたのがマリであり、引き止めたものマリだった。
この時のマリの真意はわからない。
だが単にユイとの約束だったとしても、シンジの目には世界との確かな繋がりだと見ることができたのだろう。
あのどの次元かもわからぬ浜辺まで、自分を見つけにやってきてくれる人などいないと思っていただろうからだ。
だからこそマリに心動かされたのだと思える。
先も書いた通り、新劇場のシンジにとっての初恋はマリなのだ。
ではレイやアスカに対しては?
シンジが鬱状態でもアスカとケンスケの関係になんの動揺も見せてなかったことから、このシンジにとってはレイもアスカも女友だちの粋を出ていなかったと思われる。
好きという言葉にも、恋愛としての重さは感じられなかった。
それが事細かに表現されていたのはアスカの裸になんの感情も無かったがチョーカーには反応したことだ。
裸を見ても反応がないということはもう異性として彼女を見ることができないという暗喩であると解釈できる。
ズボラ化していくアスカはかつてのミサトのようにも見えた。
事実、新劇場版のQからのアスカは当時のミサトと同じ29から30歳。
見た目は14でも中身はとうに大人だ。態度にも現れる。
アスカがケンスケ宅で常に半裸でいたのも、ケンスケとの関係もあるが、女の自分に反応しないシンジへの当てつけもなくはないと思っている。
あまりにも無反応だったことでシンジに馬乗りになってレーションを詰め込むあの姿は、結局アスカをもはや女として見ていないシンジへの最後の訴えでもあろう。
歯に衣着せぬならアスカによるシンジへの強姦に近い。
そんなアスカの捨て身の行動すらも拒否し、シンジは家出する。
アスカはアスカで、まだ少しシンジに期待していた部分もあろうが、これをきっかけにシンジへの直接的な干渉をやめ、そっくりさんのレイやケンスケにすべてを任せるようになった。
きっとここでもうアスカもシンジも手遅れだったと諦めがついたのだと思う。
二人にとって、15年の経験値の違いは大きすぎた。
カヲルとレイとシンジ
カヲルは父親のようだったと、シンジは劇中ではっきりと言葉にする。
これを聞いて驚いた。シンジはカヲルに父性を見出していたのは新たな情報だ。
ということはカヲルとゲンドウはどこかで繋がりがあったということなのだろうか。
それが渚司令という話につながるのかもしれない。
そこで少し考えを巡らせてみる。碇シンジにとっては、碇ゲンドウは父親とはそもそも思っていなかった。という考え方だ。
おそらくカヲルはシンジにとって本当に欲しかった理想の父親だったのかもしれない。
カヲルの言う「君を救いたかった」と言うのはこれはメタ的に見れば庵野監督の善性として、キャラクターを救いたかったという話にならないだろうか?
庵野監督はキャラクター一人一人に決着をつけるため、何度も何度も物語を練り直したはずだ。そのアバターがカヲルであったという可能性はどうだろうか?
そうなってくると最後の駅のホームにレイとカヲルが並んでいたことに一つの見解を示せる気がする。
冬月の言葉にはレイはシンジにとって母だったことが秘められているのではと思う。
ゲンドウはユイを失った。それをさらにシンジにも押し付けてみせた。
ということは、レイと言う存在にシンジはある種の母を見出していたのかもしれないと解釈出来はしないだろうか?
そうなると、最後の駅で二人が並んで立っているのは、シンジから見れば、シンジにとっての両親は彼らだからというように解釈してみる。
最もこれは突拍子もない考察であるが、アスカには異性としての魅力をもはや感じ取れず、レイに対してもまた異性ではない視点で慕っていたとしたらシンジの全ての因縁が紐解かれる。
エヴァにおける電車
エヴァにおける電車は環状線だ。ぐるぐると同じところを回り続ける。
大抵の場合、シンジの気持ちにケリがつかない場合の心理描写や舞台装置としてこの電車が登場する。
自問自答の場面だが、外側からの答えをシンジが受け入れないがためにその電車は止まることがない。
今回、そこにゲンドウが乗り合わせた。
それはつまりゲンドウもまた迷いを抱えていたということにほかならない。
シンジ、ゲンドウ、鏡写しの親子
シンジとゲンドウは多くのものが共通している。
TV、旧劇場版では二人とも恋多き男だった。そして二人とも女の怒りを買うことで破滅したのは面白い。
シンジは精神世界のアスカに詰め寄られながらこんなことを言われた。
「私のものにならないのなら要らない」と。
ゲンドウはゲンドウでレイに捨てられ、精神世界ではユイの化身たる初号機に噛み殺されるという終わり方。
シンジはシンジでレイ、アスカ、ミサトから慕われ、精神世界ではこの三人が出てきた。
どちらも浮気性な面があり、本命を決められない優柔不断さがあった。
新劇場版は、恋どころか人と触れ合う事自体が苦手な二人だった。
いつも一歩引いて溶け込むことなく自ら壁を作り、傷つくことを極端に恐れていた。
故に誰とも縁をつなぐつもりすらなかったが、そんな二人に手を差し伸べてくれる人がいた。
それぞれユイとマリだ。
つまり、ゲンドウはシンジが何も変わることなく成長した姿であり、シンジは逆にゲンドウの若かりし頃でもある。
だからこそ新劇場版でのゲンドウはシンジに対してATフィールドが発生した。
変わったシンジはゲンドウの過去ではなくなったことに、恐怖したのだ。
と同時に、認めることで自分を許せることを、息子に教えられる。
鏡写しの息子だからこそ、シンジの言うことをゲンドウは自分にも当てはめることができたのだ。
そうしてゲンドウは電車を降りる。
シンジはゲンドウとは違う未来を切り開こうとする。
そうしてできた新世紀に、きっと後ろ向きだったゲンドウになるシンジはいない。
新たな謎
今までの謎は今回ほぼ解き明かされたが、今回生まれた謎もいくつかある。
オリジナルのアスカとは誰だ?
赤いプラグスーツのアスカは何者だ?
あの巨大レイモドキは何なんだろう?
今回のゲンドウはレイに対してほとんど執着が無く、ツールとしか見ていないようだが?
あの渚司令官がいた場所はゲンドウの場所だ。彼は結局何者だったのだろう?
これは破の予告で少し触れられていただけに、新劇場版には死蔵している部分がまだありそうだ。
そしてマリ。
彼女についての過去や心理描写はほぼなく、情報が欠落している。
マリ自身のモチベーションはどこから来たのか。
ニアサードインパクト前後の話はいつか明らかになるのだろうか?
名前
そっくりさんのレイはひっきりなしに名前を求めた。
しかもシンジにこそつけて欲しがっていた。
思うに、新劇場版において、名前というのはものすごく比率が大きい。
六分儀ゲンドウと碇ゲンドウ。
碇ユイと綾波ユイ。
式波アスカラングレーと惣流アスカラングレー。
彼らは皆バックボーンが違う。
名前が違うものはTVシリーズと魂が違うということではないかと推測する。
そっくりさんのレイが、シンジから名前をもらいたがったのは、魂を欲しがったからに他ならないのではと考える。
そっくりさんのレイはシンジから名前をもらうことで人になりえたのかもしれない。
エヴァは「好き」の物語
エヴァには本当に多くの形の「好き」が出てくる。
そばに居て楽だから好きというレベルから、友達としての好き、友達以上恋人未満の好き、恋人としての好き、初恋の好き、執着としての好き、叶わないけど好き、好きすぎて恨みや憎しみに変わる好き、世界と引き換えにしても構わない好きまで様々。
ゲンドウは執着としての好きが強く、アスカは初恋からの卒業、シンジは初恋としてマリを選んだように見える、ミサトは加持への思いは執着に変わったように思う。
エヴァは「好き」の話だったのだろう。
それがこじれると憎しみや絶望になり、その世界を呪う。
時にはそれは怒りとなるが、それは希望とは綿密につながる裏返し。
期待していなければ怒りもしない。好きだから怒りが湧く。希望がなければ見向きもしない。
これはエヴァを見ていた自分にも当てはまる。先に書いたように、自分はもうエヴァに期待をしていなかった。
いや、していたからこそ、もう見て傷つくのが嫌になっていた。
この作品が好きだった。だからこそ嫌いになったり、忘れたくなったり、関わりたくない等の思いを患った。
そんな絶望した自分でも、もしやと希望をいだいて映画館に行ったのはやはり好きだったからだ。
結果、シン・エヴァンゲリオンは自分を救ってくれた。
どうせ、と思って諦めかけていた自分に、期待以上のアンサーを返してくれたことは救い以外の何物でもない。
今ならまた胸を張ってエヴァが好きでいられる。好きと嫌いは鏡写しだ。
結局誰かを、何かを好きでいたい、その結果が相互性のある世界という答えなのだろうから。
まとめ
今回は本当に良く経緯を説明してくれたので、考察自体は少ない。
受け取ったメッセージを思いつく限り書き起こしたに過ぎない。
この新劇場版エヴァンゲリオンは、TVや旧劇場版、漫画版とは地続きではないが、どこかでリンクしているというのも見て取れる。
で、今回確信したのは庵野監督は吹っ切れた。
完結させたシン・ゴジラがもたらした効能かもしれない。
ちゃんと話を畳む勇気を持ったし、パロディクリエイターと言うことも全て認めた上でシン・エヴァを作ったのではないか?
何故なら、今回のシン・エヴァは、以前からこうだったらいいのにというファンサイドの考察や願望がある程度素直に含まれている。
見てる人間を欺こうと、変に奇をてらおうとしていないのだ。
何なら初号機と13号機のやり取りなど、Gガンダムのドモンと東方不敗でも見ているかのような感覚だった。
Gガンダムも庵野監督が関わっているが、まぁそれは勘ぐりが過ぎるというものであろうけども。
その上で、実はこうだったんだと示していくのは、ファンの考察力を認め、自分のことも認めたということだろう。
あのゴジラの尻尾から生まれるエヴァのようなものは、シン・エヴァのことだったのだろう。
そしてシン・エヴァの最期の工業地帯、あれはきっとシン・ウルトラマンにつながるものだ。
ゲンドウは認められなかった時の自分、シン・エヴァの立ち直ったシンジは今の庵野監督の想いじゃないだろうか。
認めることで次に行けるということだと思う。
とにかく、エヴァはここでエヴァ至上もっともスッキリまとまったと言っていい。
いくつか謎が残ったが、それも何かで明かされる日が来るだろうと今なら思う。
紆余曲折あったが、シンジは大人になり、エヴァという保護者がなくても生きて行けれるように未来と向き合った。
好きだけどここでは生きていけない。
これはそっくりさんのほうのレイがこぼしたものだ。
ネルフの外で身体的な意味で彼女は生きていくことができない。
シンジは一度世界を崩壊させかけ、15年という月日が経過した。
目覚めたシンジがトウジに連れられてみたのは、自分が居なくても世界は回るという事実だ。
世界を崩壊させた手前、そこにシンジに居場所はない。
だから最後、シンジは浜辺で消えようとする。
原画にまでさかのぼっていくのはメタフィクションとしてもはやシンジの居場所はアニメのエヴァンゲリオンの中にはないということだろうと思う。
そこに来てのマリだ。彼女はシンジを現実世界へと連れて行く。
実写の駅から風景を眺めるカットは二次元から三次元へと境界を超えた証だ。
それは旧劇場版の「目を覚ませこれは虚構(アニメ)だ」というものと結論を等しくするが、こちらは更に前向きに、「これからは現実の世界に羽ばたくのだ」というメッセージが込められてるように思う。
最後のシンジの顔に曇りはない。
これは卒業式だ。
だからこそもう一度言おう。